第28話

(ばかばかばか! わたしのばかっ)

 クロエは薄汚れた裏路地を小走りに駆け抜けながら、目許をぐいとぬぐった。あんな奴に、何を期待していたのだろう。ちょっと優しくされただけで、理解されたような気分になって。

 なんて浅はかなわたし。あんなもの、やっぱり誰にでも見せるうわべだけのポーズに過ぎなかったんだ──。 

 ぬぐってもぬぐってもしつこくにじんでくる涙のせいで、前もろくに見えない。

 違う。悲しいんじゃない。これは悔し涙だ。あんな奴に過去の傷を打ち明けて、目の前で無防備に泣いてしまったのが悔しくてたまらないだけ……!

 後ろからけたたましい車輪の音が近づいてくる。辻馬車に限らず、御者には気の荒い連中が多い。馬車は狭い街路を猛スピードで縦横無尽に走り回り、通行人が車輪に巻き込まれる事故も珍しくないのだ。

 クロエはスカートの裾をからげ、急いで路地の端に寄ろうとした。がくん、と身体がよろけた。間の悪いことに、ゆるんだ石畳の隙間に華奢な靴のかかとが嵌まってしまった。

 とっさに踏みとどまれず、クロエは大きくバランスを崩した。足首に鋭い痛みが走る。倒れたクロエが懸命に上体を起こしたときには、黒塗りの馬車はすでに眼前に迫っていた。

 御者のわめく声。鋭く馬がいななき、たたらを踏んで前脚をいらだたしげに振り上げる。蹄がカツカツと石畳を打つ音が大きく響いた。

 ひたすら小さくなって身を縮めていたクロエの肩を、誰かが強く揺さぶった。

「もし! 大丈夫ですか、お怪我は──」

 若い女の声が、取り乱した口調で気遣う。その声がふいに途切れ、とまどったような声で思いがけず名を呼ばれた。

「クロエ様……?」

 驚いて顔を上げると、黒い巻き毛のおとなしやかな少女が心配そうに自分を覗き込んでいた。

「……ブランディーヌ……!?」

 兄オーレリアンの婚約者が大きな瞳を瞠ってクロエを見つめている。その背後には、いつも付き添っている侍女が、相変わらず無表情に突っ立っていた。

「やっぱりクロエ様。いったいどうしてこんなところに? 親戚のお見舞いに行っていると、さきほどオーレリアン様から伺ったばかりですのよ」

 彼女の手を借りて立ち上がり、足首の痛みによろめく。ブランディーヌは慌ててクロエの身体を支えた。

「──靴のかかとが折れてる。捻ったみたいね、ともかく馬車に乗って」

 クロエはブランディーヌと侍女の手を借りてどうにか馬車に乗り込んだ。扉を閉めると同時に馬車は走り出した。

「お屋敷までお送りしましょう。早く手当てをしないと」

「助かったわ、ブランディーヌ。ありがとう」

「いったい何があったんですの? オーレリアン様も最近ご様子がおかしくて。ひどく悩ましげでいらっしゃるのよ」

 話すべきかどうか、クロエは迷った。助けてもらっておいて黙っているのも心苦しいが、かいつまんで話すにはややこしすぎる。逡巡を察したか、ブランディーヌはクロエの手にそっと自分の手を重ねて微笑んだ。

「少しお休みになって。足首はいかが? 痛みます?」

「いえ、大丈夫」

 クロエは眉根を寄せて無理に微笑んだ。本当はかなりズキズキと痛み始めていた。身をかがめ、そろそろと探ってみるとかなり腫れてきている。家に戻ったらすぐに冷やさないと……。

 ふと、座席の下に光るものが見えた。ブランディーヌが装身具を落としたのだと思い、何気なく手に取って絶句する。宝石を散りばめた、黒い天鵞絨ビロードの仮面──。

「……あら。うっかりしていたわ」

 ニッ、とブランディーヌが口の端を三日月のようにつり上げる。

「あなた──」

 茫然とするクロエの腕を、隣に座っていた侍女が牽制するようにがっちりと掴んだ。締めつけられて顔をゆがめ、それでも振りほどこうと身じろぎすると、真正面から額に銃口を押し当てられた。

 凍りつくクロエににんまりとし、身を乗り出していたブランディーヌはゆったりと馬車の座席にもたれた。手にしたピストルは、まっすぐにクロエを狙っている。それは、ダリエの机に隠されていた父の遺品だった。

「身体に風穴を開けられたくなかったら、おとなしくしてるんだね」

 これまでより一段低い声で、ブランディーヌが冷たく命じる。

「あなたが仮面の女だったの……!?」

「動くんじゃないよ。少しでも妙なそぶりがあったら本当に撃つからね。言っておくけど、この距離で狙いを外すなんてありえないから」 

 クロエはまじまじとブランディーヌの顔を見つめた。今までと同じ顔なのに、まるで違う人物に見える。まるで目に見えない仮面をつけたように。いや、ついに仮面を外したと言うべきなのか──。

「ブランディーヌ……、どうしてあなたが……」

「はん、ものわかりの悪いお嬢さんだね。ほんと、貴族ってのはバカ揃いだ」

「──嘘だったのね! ぜんぶ!」

「あんたたち兄妹には呆れるよ。まったくどこまで鈍くさいのかねぇ。適当に話を合わせながら、あたしはもう笑いたくて笑いたくて、こらえるのが大変だったよ」

「最初から宝石めあてだったの!?」

 ブランディーヌは顎を反らしてにやりとした。

「もちろん、〈すみれの王冠〉を手に入れるためにあんたの兄さんに近づいたのさ。あたしが舞踏会であの綺麗なだけの阿呆を引き止めているあいだに手下に屋敷を探らせた」

「き、綺麗なだけの阿呆ですって……!?」

「そのとおりじゃないか」

「あんたになんか言われたくないわ! コソ泥のくせに!」

「見抜けなかったあんたらの目が節穴なのさ。こっちだってけっこうな費用をかけて金持ちを装ったんだ。それなのに〈すみれの王冠〉は見つからなかった。婆さんの宝石箱にあったのもたいした価値のないクズ宝石ばっかりだったしね。まぁ、せっかくだからいただいておいた。いくらかは必要経費の埋め合わせになったよ」

「返して! おばあさまの大切な思い出の品なのよ」

「だからとっくに売り払ったって」

 怒りと屈辱にくちびるをふるわせるクロエを、ブランディーヌはにやにやと眺めた。

「まぁ、〈すみれの王冠〉さえ手に入ればそれでよかったんだけど、ついでに侯爵夫人の地位を手に入れてみるのも悪くないかと思ってね。なかなか素敵な隠れ蓑だろ? 夜会に招かれればバカ貴族どもから宝石は盗み放題。さいわいヴュイヤール家は体面を保つことさえ難儀しているような貧乏貴族、カネをちらつかせればすぐに食いついてくると思ったら案の定」

「お兄様はあなたのことが本気で好きだったのに……!」

 ブランディーヌは小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。

「そうらしいね。春の妖精だなんて、身体がむずがゆくなるようなことを真顔で言ってくれたよ。こっちだってお返しに、向こうが望むとおりの夢を見せてやったんだ。そう、夢見たままであの世に送ってあげようと思ってたのに」

「あ、あなた、まさか……」

 ブランディーヌは凄艶な笑みを浮かべた。

「身分さえ手に入れば、夫なんて邪魔なものはいらない。うまく書類は偽造したけど、絶対バレないとは限らないからね。婆さんと兄貴にはとっとと死んでもらって、あんたはもぐりの淫売屋かトルコの後宮ハレムにでも高値で売り飛ばそうと思ってたんだけど。金髪女はそれだけで喜ばれるそうだからねぇ」

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