第7章 きみは泣いてもかまわない

第27話

 従者とともにユーグが立ち去った後──。水底から浮き上がった泡が音もなく弾けるように、ふっとクロエは目覚めた。

 ぼんやりと身を起こし、無人のサロンを見回す。目許が引きつる感覚で、泣いてしまったことを思い出した。クロエは慌てて目許をこすった。

(やだ……、よく知りもしない人の前で泣くなんて)

 みっともないことをしてしまった。子どもっぽい女だと、さぞ呆れられたことだろう。

 ふと、かたわらにわだかまる上着ジュストコールに気付く。ユーグが眠っているあいだに掛けていってくれたのだ。幼子をあやすような、淡い抱擁の感覚が蘇る。

『きみのせいじゃない』

 囁いたその声の、穏やかさ。家族でもない。親しくもない。知り合って間もない、友人とも呼べないひと。それなのに、乾ききってひび割れた大地に慈雨がしみこむように、彼の言葉はかたくなな心をほぐし、やわらげてくれた。

 誰にも言えなかった。目の前で花婿が倒れて死んだあのときから、涙が凍った。人の死を望んだ自分は、恐ろしい魔女になってしまったのだと思った。

 自分のわがままのせいで、好転するはずだった状況が悪くなって。どんどん悪くなって。まるで坂を転げ落ちてゆくように、零落に拍車がかかって……。

 自分さえ、おとなしくあの老人の妻になっていれば、それですべてがうまくいったのに。お金の問題が起きるたびに、老いた花婿が倒れる光景が鮮明に蘇る。

 どうにかしなくては。自分がどうにかしなくては。この状況を招いたのは他ならぬ自分なのだから、自分がひとりでどうにかしなくてはならない。わたしは、償い続けなければならないのだ──。

 自分を追い詰めて、駆り立てて。無茶を承知で、それでも止まらずに進まなければ。そうしないと胸が張り裂けてしまいそうで、いても立ってもいられない。

 立ち止まって自分と向き合うのが怖かった。人の死を心底願った魔女のような自分と向き合うことが、怖くてたまらなかった。

 いつも張りつめて余裕がなかった心を、ユーグの言葉はごく自然に溶かした。あんなもの、誰だって言える、その場しのぎの無責任ななぐさめにすぎないのに。女は誰でも自分に口説かれたがると信じて疑わない、自信過剰で軽薄な、鼻持ちならない悪党ルエなのに。

 きみのせいじゃない。きみは悪くない。

 すぐにうんざりして当然のそんな言葉を、倦まず繰り返した彼の声があまりにも深く穏やかで、優しく包み込むようだったから……。

 クロエはユーグの上着をそっと胸に抱え込んだ。かすかに香水の残り香が鼻孔をくすぐる。フロンサック公爵や兄の悪友たちがまとっているような、肉感的な官能をあざとくかきたてようとする野性的な香りとはぜんぜん違う。

 むしろ彼の最初の印象とはまるでそぐわない、淡い花の香りだ。甘く、それでいてどこかにほの昏い翳を宿した香り。

 軽薄無頼な放蕩者リベルタンというのは、ただの思い込みなのだろうか。彼は幾度となく危ないところを救ってくれた。もしかしたら、芝居がかって偽悪的なポーズを取っているだけで、本当はいい人なのかも。

「これ、返さなくちゃ……」 

 上着ジュストコールを軽くたたみ、クロエは立ち上がった。ウエストコートだけで外へ出ていくわけがないから、まだここにいるはずだ。

 大泣きした挙げ句に寝てしまったのが、やはり気恥ずかしい。子どもっぽい女だと思われたままでいたくない。

 鏡で顔を確かめると、やはり目が少し腫れぼったい感じがした。涙の跡を目立たせないように指先で目許をこすってみる。瞳はまだ充血しているが、伏目がちにしていれば何とか誤魔化せそうだ。

 クロエはそっと廊下を覗いた。あまり奥から出ないように、とアドリエンヌからは注意されている。クロエがここにいることを知っているのは、家族の他はユーグだけだ。事情を知らないアドリエンヌの客に姿を見られると面倒なことになりかねない。

 仮面の女やガストン・ダリエに居所が知れたら危険というだけでなく、仮にも未婚の侯爵令嬢であるクロエが元女優の家に居候しているとなると、どんな尾ひれがついた噂が出回るやら知れたものではないのだ。

 だが、今日は頭痛がするから訪問客は断るとアドリエンヌは言っていた。少しくらい邸内を歩き回っても大丈夫だろう。

 ふだん訪問客が集まる広いサロンに、ユーグの姿はなかった。いくつか無人の部屋を覗いて回っていると、しどけない部屋着姿のアドリエンヌがとある部屋に入っていくのが見えた。

 後を追い、物音をたてないように扉を細く開けてみた。ユーグがどこにいるのか訊きたいが、もし頭痛がひどいようなら、わずらわせるのも気が引ける。

 長椅子にゆったりと横座りしているアドリエンヌの姿が見えた。微笑んでいるところをみると、具合はそう悪くなさそうだ。

 手前には銀灰色の髪の後ろ姿。ユーグだ。同じ長椅子で親密そうに話しているふたりの姿をみると、クロエは急に居心地悪い気分になった。

 色っぽく小首を傾げて囁いたアドリエンヌの台詞に、つい耳を澄ませてしまう。

「……そのわりに浮かない顔をしてるけど?」

「二枚舌に振り回されるのは好きじゃないんですよ」

「あら、あなただってさんざん女を振り回してるじゃないの」

 艶かな声で、さも可笑しそうに彼女は笑った。心外そうに応じるユーグの声。

「僕がいつそんなことを? 女性には振り回されてばかりですよ。もっとも、あなたのような美しい方に振り回されるなら大歓迎ですが。……あなたはさぞ素敵な二枚舌をお持ちなんでしょうね」

 アドリエンヌの頤を持ち上げてからかうユーグの思わせぶりな声音に、扉の陰でクロエはひどく狼狽した。

「確かめてごらんになれば?」

 身を乗り出してぺろりと舌を出したアドリエンヌを抱き寄せ、ユーグはためらいもなくくちびるを重ねた。鼻にかかった吐息を洩らし、アドリエンヌが彼の背に手を這わせる。その仕種がひどくなまめかしく見えて、クロエは赤くなった。

 日常交わす軽い挨拶とはまるで違う、むさぼりあうようなくちづけ。クロエは扉に背を押しつけてうつむいた。ぎゅっと目をつぶると、苦しいほどに鼓動が高鳴っているのを感じた。

 やがて、甘い吐息まじりに囁く女の声がした。

「……いかが?」

「三枚舌、かな」

「もうっ、意地悪なひとね!」

 息を弾ませて言い返したアドリエンヌの声に、動悸がさらに増す。突然自分の名を呼ぶユーグの声が聞こえ、クロエは危うく飛び上がりそうになった。

「クロエ、ですか? 別にあなたほどの美女が妬くことは──」

 立ち聞きしていることに気付かれたわけではないとホッとしたのもつかのま、無造作に放たれた彼の言葉にクロエはぴしりと固まった。

「ほんの子どもですよ」

「だってあなた、気絶したあの娘をすごく大事そうに抱えてたじゃない」

「走ってる馬車から飛び下りたんですよ。無茶にもほどがある」

 うんざりしたユーグの声。続いて交わされる会話が、意味をなさずに耳元を滑ってゆく。

「あんな痩せっぽちの小娘になど、興味はありません」

 つっぱねるような彼の言葉が、冷え冷えと胸を刺した。握りしめていた指から力が抜ける。彼の上着ジュストコールが、くたくたと床に落ちた。

 クロエは何も考えられないまま、逃げるようにその場を離れた。

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