第25話
「ノックもしないで入らないで! 今は絶対にしなかったでしょう」
「失礼。うたた寝でもしていたらいけないと思って」
まったく悪びれもせず、彼はさらりと微笑んだ。後ろにはクロエの世話を女主人から仰せつかった侍女が慎ましく控えている。
ユーグは軽く頷いて侍女を下がらせ、自ら扉を閉めた。すこぶる優雅なお辞儀をする青年から、クロエはあえて目を逸らした。心臓のドキドキが止まらないのは驚きがまだ収まらないせいだ。絶対、そうに決まってる。肖像画に歩み寄ると、ユーグは考え深げに呟いた。
「彼にとって、アドリエンヌは女神だったんだ」
つられてクロエもまた肖像画を見上げた。
「そして、アドリエンヌは彼の望む女神であり続けた。彼が亡くなるまで、ずっと。いや、今でも女神を演じ続けている。たぶんそれが彼女なりの矜持であり、誠実さなのかもしれない」
にこりと向き直り、ユーグはクロエに封書を差し出した。
「お待たせ。兄上から返信だよ」
急いで内容に目を通すと、無事を知って安堵していることや、危険な目にあわせたことへの詫びに続き、匿ってくれているご婦人とユーグを煩わせないようくれぐれもおとなしくしているようにと、しつこく何度も念を押していた。
「お兄様ったら、心配性なんだから。それで〈すみれの王冠〉については何かわかったの?」
「いや、特には」
クロエに座るよう促し、自分も長椅子の端に腰掛けながらユーグは淡々と答えた。クロエは探るようにユーグを見つめた。
「ずいぶん落ち着いているのね。どなたかに頼まれて探しているんでしょう。見つけられなかったら怒られるんじゃない?」
「見つからなければどうしようもないさ」
ユーグはひょうひょうと答えた。
「ダリエはどうなったの」
「手分けして探させてる」
「あなたも警察の関係者なの? お兄さんは警視なんですってね」
「個人的に手伝うこともあるけど、僕は捜査官でも何でもないよ。ま、言ってみれば一種の便利屋ってとこかな。あちこちから情報を集めたり、調べたりする。表立って動きづらいひとに代わってね」
「つまり密偵ってことでしょ」
わざと辛辣に言ってみたが、ユーグの表情は揺らがない。
「まぁ、そういうことだね。ともかく、ダリエが盗んだ兄上の指輪については最優先で探させてる。僕が直接指示できるのは従者のラファエルひとりだけど、カネ次第で動いてくれる連中はこの街に大勢いるからね」
「ラファエルって、あの黒眼鏡のひと?」
「そう。慇懃無礼を地で行く奴だけど、有能だし、僕の命令にはけっして背かない」
「心配なのよ。あの指輪が悪用されたらと思うと、いてもたってもいられない。ダリエは署名の偽造ができるのよ。もしかしたら、こうしている間にも……」
にわかにそわそわしだしたクロエを、ユーグは牽制するように凝視した。
「マドモワゼル。まさかとは思うが、きみ──」
「……クロエでいいわ。あなたには何度も助けてもらったから」
「じゃあ、クロエ。指輪を探すのは僕たちに任せて、おとなしくしていてくれるね?」
引き込まれるような深い紺碧の瞳で見つめられると、言いつのろうにも気力が続かない。クロエは目を泳がせ、くちびるを噛んだ。
「クロエ」
「……わかってるわよ。おとなしくしていればいいんでしょ」
「そう拗ねないで」
「別に拗ねてなんかいないわ」
ぷいとそっぽを向く。笑っている気配に腹が立つ。やがて聞こえたユーグの声は、からかうというよりも気づかわしげだった。
「きみは兄上に対して妙に過保護だね」
「兄はすごく不器用なのよ。任せておくと事態が悪くなる一方なの」
「そうらしいね。でも、きみに任せたほうがうまく行くと思うから、兄上はいつまでもきみに頼ってしまうんじゃないかな。おばあさまも、どんなに困ったことになっても最後にはきみがどうにかしてくれると思い込んでいるふしがある。どうも僕にはきみひとりが割りをくっているように思えて仕方ない」
「わたしは自分がすべきことをしてるだけよ」
「そうかな。むしろ意地を張っているように思えるけど」
「あなたには関係ないわ!」
クロエはかっとなって叫んだ。目を瞠るユーグの表情に動揺して、ふいと目を逸らす。
「──すまない。立ち入りすぎたね」
穏やかにユーグが詫びる。クロエは痛むほど強く、くちびるを噛んだ。
「……わたしの、せいだから」
「え?」
「うちがあんなに困窮してるのは、わたしのせいだから!」
「何を言ってるんだ……」
クロエは爪が食い込むほど強く両手を握り合わせた。ひとたび話しだすと、堰を切ったように止まらなくなった。
「本当よ。わたしがちゃんとお嫁に行っていれば、結婚の取り決めでうちにはかなりの額の年金が入るはずだったの。少なくともわたしが生きている限りはずっと払い続けられる、終身年金よ。度を越した贅沢をしなければ、充分に貴族としての体面を保てる額だった。召使も馬車も持てたわ。でも、夫になる人が結婚式の最中に死んでしまって……」
「それはきみのせいじゃないだろう。確か、きみの結婚相手は、かなり年上だったとか」
クロエは自嘲気味に小さく笑った。
「やっぱり知ってたのね……。そうよ、五十八だった。まだあと二十年は生きるつもりだと、そう豪語して笑ってた。奥さんふたりに先立たれて、わたしは三人目。やっと十三歳になったばかりだった」
「彼は卒中の発作を起こして亡くなったんだろう? 気の毒だけど、どう考えても寿命だよ。まぁ何と言うか間が悪かっただけで、別にきみが気に病むことは──」
「……死んじゃえ、って言ったの」
うつむいてクロエは呟いた。ユーグが「え」と虚を衝かれたような声を洩らす。
「誰にも聞こえなかったと思う。でもわたし、言ったのよ。夫になる人の背中を睨んで、声に出して呟いたの。『死んじゃえ』って。……教会の中をしずしず歩きながら、一歩踏み出すたびに心の中で呪いの言葉を吐いてた。こんな醜い太った年寄りと結婚するのはイヤ。結婚しなくてすむように、今この場で相手が死んでしまえばいい、って。『神様、どうかこの男を殺してください』って。……そうしたら、彼、本当に死んじゃった」
クロエの喉を、乾いた笑いがふるわせる。
「そのときわたしがどう感じたと思う? 嬉しかったの。あんまり嬉しくて、飛び跳ねたいくらいだった。神様が願いをかなえてくれたんだって、感謝したわ……。わたし、喜んでた。目の前で人が死んだのに──」
握りしめた拳に、ぱたりとひとしずくの涙が落ちた。
「……でも。そのせいでうちにはお金が入らなくなった。結婚契約書は正式に交わしていたけど、遺族から婚姻無効の訴訟を起こされて、裁判で負けたの。みんなわたしのせい。わたしがあのひとの死を願ったせいなのよ……!」
ふいにユーグの腕が伸び、クロエの肩を抱き寄せた。
「きみのせいじゃない」
力強い囁きに、クロエは激しくかぶりを振った。
「わたしのせいよ!」
「違う。きみのせいじゃない。絶対に」
クロエはかすれ声ですすり上げ、ユーグの肩に額を押し当てて呻いた。
「わたしがいけないの。だからわたしは償わなくては……」
ユーグの手が、あやすように優しく背をたたく。きみのせいじゃない、きみが悪いんじゃない、とユーグは言い聞かせるように何度も何度も繰り返した。
穏やかなそのリズムに、少しずつ心がほぐれてゆく。こんなに手放しに泣いたのはいつ以来だろう。きっと結婚相手に初めて会った日の夜以来だと、ぼんやりとクロエは思った。
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