第24話

 アドリエンヌの館で、クロエは静かに時を過ごしていた。仮面舞踏会からずっと騒動続きで疲れが溜まっていたのだろうか。やたらと眠くて、昨日もアドリエンヌと一緒に軽い食事を取ってしばらくすると眠くなってしまった。

 夜の外出のために盛装したアドリエンヌの美しさには、同性ながら目を奪われた。艶やかな黒褐色の髪に白雪の肌。最新流行モードのドレスが美貌とスタイルのよさを一段と引き立てている。おとなの色香と少女めいた無邪気さが絶妙に同居して、何とも蠱惑的だ。

 彼女に比べたら自分などただの子どもにすぎないとしみじみ実感されて、クロエは何だか物哀しい気分になってしまった。

 前後にお仕着せの御者と従者を乗せた豪華な自家用四輪馬車カロッスで出かけて行くアドリエンヌを窓から見送り、クロエはうらぶれた溜息を洩らした。

 身を隠しているのでなければぜひ一緒に観劇したいのだけど、と残念そうに言われたときには、どうにも複雑な気分だった。

 彼女と連れ立っていたら全然目立たずにすむとは思う。せいぜい召使のひとりと思われて無視されるのが関の山だ。だからといって、これさいわいとのんびり芝居見物をする気にもなれなかった。注目を集めたいわけではないが、かといって引き立て役の添え物として扱われるのもごめんだ。

 もちろんアドリエンヌにそんな意図があると邪推しているわけではない。彼女のからっとしてさばけた気質を、とても好ましいものにクロエは感じていた。

 これは単なる矜持プライドの問題。そう。自分にだって、なけなしの自負心があるのだ。幼い頃からすり込まれた帯剣貴族としての誇りは、ふだんは脇に置いていても、ふとしたきっかけで頭をもたげてくる。

(わたし、意外と見栄っ張りなのかも……。こんなんじゃ、おばあさまに偉そうなこと言えないじゃない……)

 はぁ、と溜息をついて、クロエは窓枠に載せた腕に突っ伏した。帰りを待たずに休んでと言われていたので、クロエは早々に寝室へ引き上げた。

 社交界は夜が遅い。芝居がはねたあと知人の家で歓談しながら夜食を取り、しばし賭け事を楽しむのが通常コースだ。

 女主人が不在でも、門番や召使が大勢いるから不安はなかった。それに、アドリエンヌはクロエを放り出して夜遊びにうつつを抜かしているわけではない。社交場に顔を出すのは楽しみ以上に義務でもある。

 趣味よく着飾って人前に現れてこそ敬意を払われるのだ。そうでければ軽んじられ、忘れられてゆく。どうしようもない悪循環に陥ってしまった我が家のように──。

 アドリエンヌから与えられた一続きの部屋アパルトマンには寝室と婦人部屋ブドワール、居間が揃っており、専属の小間使いが世話してくれる。

 あまりに快適なので、がたの来たボロ屋敷で寒さにふるえているであろう兄や祖母を思うと申し訳ない気分だ。暖炉脇にたっぷりと積まれた薪を見るにつけ、これを少しわけてもらって屋敷に届けたい、などと思ってしまう。

 アドリエンヌがいくら親切でも、さすがにそんなことは恥ずかしすぎて頼めない。呆れられてしまう。

 他にすることもないので、ここぞとばかりにチェンバロの練習をした。クロエは楽器の前に座り、ふぅと溜息を洩らした。

「……お兄様、手紙読んだかしら」

 期待していた兄からの返信はまだ届かず、午後になってもユーグは姿を現わさない。

(今日は来ないのかも……)

 そもそも彼は〈すみれの王冠〉とかいう宝石を探しているのであって、クロエ自身に特別な関心があるわけではないのだ。そんなことをつらつら考え、クロエは顔を赤らめた。

「……わ、わたしだって別に関心ないものっ。助けてもらったことには感謝してるけど。それだけよ!」

 クロエは立ち上がり、気分を変えようと室内をせかせかと歩き回った。昨日彼と一緒に座った長椅子に腰掛ければ、いつのまにか窓外へ耳を澄ませている自分に気付く。

(ああ、もうっ)

 クロエは壁に飾られた絵画を睨み、何とかして気を鎮めようとした。壁にかかっているのは甘く軽やかなタッチの風景画が主だったが、暖炉の上にはこの家の亡き主人の肖像がかけられていた。

 ここにあるのは、アドリエンヌいわく『修正済み』の肖像画だ。今ではやや時代がかって見えるフルサイズの大きなかつらをつけ、片手で杖を持ってポーズをとった姿は、これだけ見ればけっこう威風堂々としている。

『彼、実はほとんどハゲててね、残った毛を毎日それは大事そうに手入れしてたのよ~』

 おどけて耳打ちされたアドリエンヌの言葉を思い出し、クロエは噴き出しそうになった。

(だめよ、失礼だわ)

 こほん、と赤面して咳払いをする。それにしても、確かにアドリエンヌと並んだらまったく釣り合わないだろう。美女と野獣だとからかわれた、というのも納得が行く。

 それでも彼女は夫を愛していたと言った。冷めきった関係の夫婦など珍しくもないから、見ず知らずの他人であるクロエにわざわざ言い訳をする必要はない。彼女の言葉は、きっと真実なのだ。

 クロエは肖像画をじっと見つめた。お世辞にも整った造作とはいえないが、誠実そうで、感じのいい顔つきだと思う。

「……それに、目がとても優しいわ」

 あのとき──教会で自分を見た、老いた花婿の目とは全然違う。あれは品定めをする目付きだった。まるで家畜を見るような──。

 いや、それよりもっとひどい。嗜虐的な光景を想像し、悦びに舌なめずりをしているみたいで……。

 フロンサック公爵の目付きにぞっとしたのは、あの老人に似ていたからだ。同じ目をしていた。残忍な愉悦を秘めたまなざし。彼らの目に映る自分は、怯えた小さなウサギ……。

 脳裏から這い出してくるいやな記憶を封じようと、クロエはきつく目を閉じた。己に言い聞かせるように呟く。

「彼は、奥さんのことを、とても愛していた。とても、とても愛していた……」

「──というより、崇拝してたね」

 背後でいきなり男の声がして飛び上がる。振り向くと戸口でユーグがにこりと笑った。

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