第9話
数日後、ブランディーヌは父親の代理を伴って屋敷を再訪した。
ベクレルと名乗った男は四十代くらいだろうか。長くて重そうなかつらをつけ、やや時代後れの服装だった。もっとも、威厳をかもしだすにはいいのかもしれない。
迎え撃つカトリーヌは入念にお化粧をしてドレスをまとい、ぴんと背筋を伸ばして椅子に腰掛けた。取り澄ました顔にはかなり意識的に軽侮の表情を浮かべている。そこには、妥協してなるものかという決意がみなぎっていた。
貴族や資産のある家の者同士が結婚する場合、それぞれの財産について事前に取り決めを交わしておくのが通常だ。
ベクレル氏とカトリーヌおよびオーレリアンが契約書の内容について話を詰めているあいだ、クロエはブランディーヌと一緒に別室で待っていた。
ブランディーヌは不安を隠せない様子で、室内を歩き回ったかと思うとクロエの手を握ってぎゅっと目をつぶったり、そわそわしどおしだった。
やがてベクレル氏とオーレリアンが部屋に入ってきた。思わず駆け寄ったブランディーヌの手を、オーレリアンは微笑みながら握った。
「話はまとまったよ。おばあさまも納得してくれた」
顔を輝かせるブランディーヌの頬にオーレリアンがくちづけると、ベクレル氏が咳払いをした。
「侯爵様。さきほどのお約束、くれぐれもお忘れなきよう」
「ああ、わかっている」
オーレリアンは鷹揚に頷く。ベクレル氏とブランディーヌを送り出し、クロエは兄に尋ねた。
「約束って何のこと?」
「いや、実はね。これまでの借財の肩代わりをしてくれるというので、借金をすべてリストアップして、これ以外に借金はないという誓約書に署名したんだ。誓約を破ったらこの縁談は御破算。やはり商人だけあって、きっちりしたもんだね」
それを聞いてクロエは急に不安になった。
「大丈夫なの? うっかり何か忘れてたりしない?」
「心配ないよ。借用書はぜんぶ取ってあるんだ。過大に請求されてはたまらないからね」
「それならいいけど……。婚約が整ったからといって浮かれて賭博場に繰り出したりしないでよ。お兄様、弱いくせに引き時を知らないんだから。絶対また負けが込んじゃうわ」
「信用ないなぁ」
苦笑する兄を、クロエは軽く睨んだ。
「約束して、お式が済むまで賭博はやらないって」
「友だちとのつきあいもだめないのかい」
「見ているだけなら、まぁいいわ」
「わかったよ」
不本意そうに、しぶしぶオーレリアンは頷いた。それでも不安はぬぐえない。オーレリアンは人はよすぎるほどよいのだが、とにかく賭け事に目がないのだ。誘われればまず断れない。
結婚するまでなるべく外出を慎んでほしかったが、オーレリアンは婚約が整うやいなやあちこちのサロンに顔を出し始めたのだった。
ほどなくクロエの不安は的中した。
雪のちらつく寒い夜、見覚えのない客人がオーレリアンを訪ねてきた。クロエが台所でマドレーヌとお喋りをしていると、ジゼルが心配そうな顔でやってきた。
「お嬢様、何だか旦那様の様子が変です」
「どうしたの?」
「旦那様、お客さんに向かってえらい剣幕で怒鳴ってるんですよ。──ちょっと、ジル。起きて」
ジゼルはテーブルに突っ伏して居眠りしていた弟を乱暴に揺り起こした。眠そうに目をこすり、ジルはあくびをした。
「何だよ、姉ちゃん……」
「あんた、旦那様のお部屋を見張っててちょうだい」
ぶつぶつ言いながらも、姉には逆らえないジルベールは素直に台所を出た。が、まもなくとまどい顔で戻ってくる。
「お客さん、帰ったみたいだ。それより旦那様がおかしいよ。頭を抱えて唸ってる」
クロエは兄の部屋へ急いだ。ノックをしても返事がない。かまわず開けると、兄が椅子に座り込んで呻いていた。
「どうしたの、お兄様」
ようやく顔を上げた兄を見てクロエは驚いた。その浮世離れした天使の美貌は、どうしたわけか絶望に打ちひしがれ、涙で汚れていた。クロエは兄の側に駆け寄り、跪いて手を握った。
「何があったの。いま来ていたのは誰?」
「ガストン・ダリエ……」
聞いたことのない名前だ。ちらっと見た限りでは、着ているものは上等だがあまり人相のよくない男に思えた。
「どういう方? 何の御用でいらしたの」
「賭博場の経営者だ。貸した金を返せ、と……。賭博で負けたときの負債を、今すぐ支払えって言うんだ」
「賭博? お兄様、やらないって言ったじゃない」
思わず咎める口調になると、オーレリアンが切羽詰まった声で叫んだ。
「やってない! あんな男の店になんか行った覚えはない! でもあいつ、僕の指輪を持ってたんだ。家紋入りの……。借用書代わりに僕が渡したと……、でもそんな覚えはないんだ! 本当だよ、クロエ」
「待って、お兄様。指輪は強盗に盗られたのかもしれないわ」
「いや、違う。あれは──落としたんだ。気がついたらなくなってた」
混乱するオーレリアンをなだめつつ聞き出したところによると、どうやらオーレリアンが指輪をなくしたのはブランディーヌとの婚約が成立した直後らしい。
婚約祝いにおごってやると言われ、兄は友人たちと飲みに出かけた。飲むだけですむはずもなく、まもなく徒党を組んでいつものごとく賭博場に繰り出した。
「それで、あのダリエって男の店に行ったのね」
「どの店に入ったのか、全然覚えてないんだ。何しろひどく酔っぱらっていて……。カードもやったのかどうか……。酒を呑みながら玉突きはしたけど……」
「ともかくそこで指輪を落としたのよ。掏られたのかもしれないわ。もう、どうして早く言わないの!」
「だ、だって恥ずかしいじゃないか。酔っぱらって家紋入りの指輪を落としたなんて……。それに、家紋入りだからそのうちきっと出てくると思ったんだよ」
確かに出ては来た。とんでもないところから。
「お兄様。その借金はムッシュウ・ベクレルに渡した借金リストには入っていないのね」
「入ってるわけないよ。身に覚えがないんだから」
オーレリアンは髪を掻きむしった。
「ああ、どうしよう。身に覚えはないが、絶対にやってないという確信もない! あの夜はつい飲みすぎてぐでんぐでんに酔っぱらっていた。記憶が飛んでる。気がついたら自分の部屋で寝てたんだ。もし本当に借金を作ってしまったとしたら、契約違反だ。バレたら婚約が破談になってしまう。ああ、僕の妖精! ブランディーヌと別れるなんて、僕にはできない……!」
「お兄様には悪いけど、持参金のほうがよっぽど問題よ。持参金をあてにして生活必需品をツケ払いで買ってしまったの。食料品とか薪とか下着とかいろいろ。お兄様の素敵な襟飾りもね」
オーレリアンは真っ青になった。
「ど、どうしよう……。一週間以内に返さないと、パドルー氏の代理人に借金のことをバラすって、あいつ言ってた」
これ以上借金を重ねないことが結婚の絶対条件なのだから、パドルー氏方面から金を借りるわけにはいかない。
「困ったわ。そんな大金、どうやったってひねり出すのは不可能よ。お兄様、お友だちから借りられないの?」
「もう限界まで借りてる。借金王と呼ばれてるくらいなんだ。もうビタ一文貸してくれないよ。だいたい僕の友だちは、それほど裕福な家のものじゃないんだ」
それもそうだ。そもそもオーレリアンは彼らのカモにされていたくらいなのだから。人のよいオーレリアンを連れ回し、賭け事にのめり込ませた不良ども。
摂政公の時代になって、放蕩貴族の行状はますますひどくなった。賭け事に暴力ざた、無神論者と公言してはばからず、女と見れば誘惑し、シャンパンをがぶ飲みして夜毎どんちゃん騒ぎを繰り返す。
手のつけられない
これまでクロエは、悪い仲間とつるむのはやめてくれと何度も兄に頼んだ。それでも兄は、困ったような顔をして、友だちなんだと言い訳する。いいように利用されているだけなのに。
悪友のひとりがクロエに言い寄った事件以来、さすがにその友人とは縁を切り、仲間を家に招くこともなくなった。もっとも、それは家の状態があまりひどくなり、呼びたくても呼べないというのが本音かもしれないが。
クロエはそんな兄が情けなく、一方で世渡り下手な不器用さが腹立たしくもいとおしくてたまらない。泣きつかれれば、ついかばって甘やかしてしまう。
ふと、オーレリアンが顔を上げた。
「そういえばあいつ、妙なことを言ってた。隠してるお宝があるだろう、みたいな」
「お宝? 何のこと?」
「さぁ……。何のことだと問いただすと、わかるはずだとニヤニヤするばかりで。頭に来てつい怒鳴ったら、あいつ、意地も張りすぎると破滅しますよ、なんて、脅しめいたこと言って」
クロエは首を傾げた。
「何のことかしら。うちにそんな価値のあるお宝なんてあった?」
「思い当たらないなぁ。宝石だってめぼしいものは売り払ってしまったか、質に入ってる。手元にあった小さいやつさえこないだの強盗に持っていかれてしまったしね」
オーレリアンはクロエの手を取った。
「……残っているのはこれだけだな。母上の形見のサファイア。もちろん売る気はないけど」
「思い出の価値は、お金じゃ計れないわ」
クロエはそっとサファイアを撫でた。
「この
「おまえの深い青の瞳も綺麗だよ」
「お兄様もね」
くすりとクロエは笑った。金髪と深みのある青い瞳はふたり共通だ。クロエは指輪を外し、兄に渡した。
「これ、預かってて。とにかく真相を確かめる必要があると思うの。わたし、ガストン・ダリエの店に行って話を聞いてくる」
「ええ!? おまえをそんなところへ行かせるわけにはいかないよ。僕が行く」
「だめよ。お兄様が行ったのでは丸め込まれて、下手をすれば借金が増えてしまうかもしれないわ。お兄様は当分外出禁止。わかった? もし遊びに行きたくなったら、この指輪を見てお母様を思い出すのよ」
クロエは戸口でおどおどと様子を窺っていた召使の姉弟を振り向いた。
「ジゼル。お兄様が抜け出さないように見張ってて。屋敷から一歩でも出したらだめよ。それから、このことがおばあさまの耳に絶対入らないように。ジル、わたしに付いてきてちょうだい」
「で、でもお嬢様。危のうございます。下町にはスリやかっぱらいだけじゃなく、もっと危険な連中も……」
「ジルが一緒にいれば大丈夫よ。それにわたし、ちょっとは腕に覚えがあるの。ね、お兄様」
「それを認めるにやぶさかではないがね、クロエ……」
「だったら、ステッキ。貸してくれるわよね?」
にっこりと、クロエは手を差し出した。
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