第10話

「ここね……」

 クロエはようやく探し当てた賭博場の看板を見上げた。泥はねのひどいパリの道を歩いても被害が少なくてすむように、古ぼけた黒いマントに身を包み、フードを目深く下ろしている。

「お嬢様、本当に行かれるんですかぁ」

 辺りを見回しながらジルベールが心配そうに言う。

「あたりまえじゃない。せっかくあなたのおかげで見つけられたんだもの。ここまで来て引き返せるものですか」

 身に覚えのないオーレリアンには、ダリエの賭博場がどこにあるのか見当もつかなかった。店主の名前と店名から場所を割り出してくれたのは従僕のジルベールだ。

 ジゼルとジルベールのビュケ兄妹は天涯孤独の身の上で、かつてはパリの下町や裏通りを徘徊する浮浪児だった。ジゼルは昔の仲間とは一切付き合うのをやめたが、ジルベールは今でもつながりを持っている。それをジゼルはひどくいやがっていた。

 まだ夕方にもならないのに、暗鬱な曇天のせいで辺りは薄暗い。のんびりしている暇はなさそうだ。思い切ってクロエは賭場の扉を押した。

 正規の営業許可が出ている店だし、ジルベールが昔の仲間から得た情報によると、上流の貴族たちも頻繁に訪れるという。それほどの危険はないだろう。──たぶん。

 店内は最小限の蝋燭が灯っているだけで薄暗かった。

「すみませーん、まだ開店前なんですよぉ」

 掃除をしていた男が、振り向きもせず間延びした声を上げた。クロエはマントを肩にはね上げ、腰に手をあてた。

「店主のムッシュウ・ダリエにお会いしたいの」

 女の声に驚いて振り向いたのは、まだ若いそばかすだらけの青年だった。彼はぽかんと口を開けてクロエを眺めた。

 クロエはこころもち顎を上げ、いかにも貴族らしく見下すような目付きを作った。さいわい薄暗い灯ではドレスが古ぼけていることもわかりにくいだろう。髪形もいつもより大人っぽい感じに仕上げてもらった。

 後ろに控えているジルベールはオーレリアンのお下がりの上着ジュストコールを着て三角帽トリコルヌをかぶっているから、それなりさまになって見える。

 クロエは眉をひそめ、兄から借り受けてきたステッキを床にトンと打ちつけた。苛立ちを強調して険のある声音を作る。

「聞こえないの? わたくしに繰り返させるつもり?」

 青年は弾かれたように姿勢を直し、箒を両手で握りしめた。

「こ、こちらへどうぞ、マダム」

 未婚マドモワゼルだと訂正するのはやめておく。外見は何の変哲もなく地味だが、内装は上流階級の人間も迎えるだけあって凝ったものだった。壁には最近流行りの軽やかなタッチの絵画が飾られている。使われている蝋燭も上等なものだ。

 店の奥の事務室も同様に、立派な扉が嵌め込まれていた。青年が扉を叩き、おどおどと呼びかけた。

「店長、お客さんです……」

「入れ」

 ぞんざいな応答が返って来る。扉を開けてくれた青年には一瞥もくれず、クロエは室内に入った。後に続いたジルベールの背後で扉がしまる。

 机で何か書き物をしていた男が、鵞ペンを手にしたまま顔を上げた。かつらはつけず、黒い地毛を無造作にまとめていた。彼はクロエを見て、面食らった顔になった。

「あなたがガストン・ダリエ?」

「そうですが……、はて、どちらさまでしたかな」

「わたくしはクロエ・ド・ヴュイヤール。ヴュイヤール侯爵の妹よ」

 毅然として名乗ると、男の顔にあまり感じのよくない笑みが浮かんだ。

「これはこれは、侯爵令嬢がわざわざおでましとは。光栄の至りでございます」

「お世辞はけっこう。厭味にしか聞こえないわ」

 ダリエは机から立ち上がり、応接用の肘掛け椅子を勧めた。クロエはつんとした顔で腰掛けた。ジルベールは扉の側に立って彼の一挙手一投足を見張っている。ダリエは立ったまま態度だけはうやうやしくお辞儀をした。

 クロエは彼に座れとは勧めなかった。今はいかにも上流貴族然としてふるまわねば。貧乏な貴族が体面を保つ最後の頼みの綱は、成り上がりには真似のできない優雅な行儀作法と堂々たる物腰だけだ。

 ふだんは鬱陶しいとしか思えない祖母のもったいぶった仕種の意味が、少しだけわかった気がした。

「ご用件は何でしょうか、お嬢様」

「むろん兄の件です。兄はこの店に来た覚えも、借金を作った覚えもないと言っています。兄はそのような嘘をつく人ではありません」

「嘘をついておられるとは私も思っておりませんよ。ただ、うっかりお忘れになったのではないかと。なにぶん、かなりきこしめしていらっしゃいましたからねぇ、あの夜は」

 くすりと余裕でダリエが笑う。ムッとするのを抑え、クロエは冷ややかに彼を眺めた。

「兄の指輪をお持ちだそうね。見せてくださる?」

「いいですとも」

 ダリエは隠しから取り出した鍵で机の抽斗を開け、取り出した指輪をクロエに差し出した。手袋を嵌めた掌に載せ、クロエはしげしげと指輪を見つめた。間違いない。確かにヴュイヤール家の紋章だ。代々の当主が持つ指輪。封蝋に押すのにも使われる、どっしりとした指輪だ。

「……確かに兄のものだけど。だからと言って、兄が自発的に渡したなんて信じられないわ」

「でしたらこれを」

 ダリエは一枚の紙をクロエに示した。

「ここにヴュイヤール侯爵の署名があります。ご確認ください」

 クロエはまじまじと署名を凝視した。似ている。兄の署名にそっくりだ。というより、はっきり言って本人のものとしか思えない。

 ダリエはにやりとして紙と指輪をしまった。

「ご納得いただけましたかな」

 しぶしぶクロエは頷いた。

「残念ながら兄が借金を作ったのは本当のようね。でしたらもちろんお返しします。ただ、もう少しだけ待っていただくわけにはいかないかしら。せめて来月まで──」

「それはできません。侯爵様にも申し上げましたが、私も早急にカネが必要なのです。実は私は雇われ店長でしてね。この店の経営権がほしい。だが、それを争っているライバルがいるのです。一週間以内にカネを用意しないと店を取られてしまう。私も必死なんですよ」

「兄が結婚するまで待っていただくわけにはいかないの」

「どうあろうと待てるのはせいぜい一週間です」

 ダリエの返答はにべもなかった。

「この際正直に言うけど、うちにはお金がないのよ」

 尊大にクロエは言い放った。弱気を見せればどうつけ込まれるかわかったものではない。

「売れるものは売ってしまったし、残りは質屋に預けてあるか、担保に入ってるわ。ない袖は振れません」

「すばらしい財産をお持ちだと聞いてますがね」

「なんのこと」

 クロエは眉をひそめた。

「とても珍しい宝石を秘蔵していらっしゃると伺っておりますよ」

「いったいなんのことよ。意味がわからないわ」

 ダリエの顔に、初めて苛立ちの表情がよぎった。

「いいですか、手放すが惜しいのでしょうが──」

「うちにある目ぼしい宝石はぜんぶ質に入っています。残っているのはふだん使いのものだけで、大金に換えられるようなものじゃないわ。疑うなら確かめてごらんなさい」

「お嬢様。貴族の誇りも結構ですが、あまり意地を張ると身の破滅ですぞ」

「意地なんか張ってません。知らないものは知らないの」

 クロエはムッとしてダリエを睨んだ。男は一瞬大きく口を開き、ふいに肩をすくめた。

「ならばこちらとしては、これ以上申し上げることはありませんな。一週間以内に全額お返し願いましょう」

 それ以上話し合いの余地はなく、クロエは悄然と店を出た。フードを被りながら嘆息すると、気づかわしげにジルベールがクロエを見た。

「どうします? お嬢様」

「借用書に署名してるくらいだから、盗まれたとか無理やり奪われたわけではなさそうね。いったいどれだけ飲めば記憶をなくせるのかしら」

 どちらかと言うと、オーレリアンはクロエと違って酒には強いほうだ。相当酔っぱらっても記憶をなくしたことはないはず。

「婚約が決まって浮かれてたんですよ」

 ジルベールがしたり顔で頷いた。

「そうかもね。勧められるままグビグビ飲んじゃったんだわ」

「お嬢様、だいぶ暗くなってきました。帰りましょう」

「そうはいかないわ。どうにかしてお金を工面しないと、待っているのはあらゆる意味での破局よ。ジル、あなただってパリを離れたくはないんでしょう」

「そりゃあ、生まれ育った街ですからね。田舎暮らしなんて退屈そうだし」

「だったら何とかしなきゃ」

 それにしても、ダリエが言っていた『珍しい宝石』とは何のことだろう。祖母が何か隠し持っているのだろうか。確かにカトリーヌは自分の宝石を手放すのを頑強に拒んでいたが、こだわっていたのはもっぱら指輪とか小さなブローチの類で、豪華なネックレスなどはわりとあっさり質に入れてしまった。

(おばあさまがこだわっているのは、たぶん、思い出なんだわ)

 若い頃の思い出。宝石箱に入っていた指輪やブローチ、ペンダントには、きっとたくさんの思い出が詰まっていたのだろう。それもみな盗まれ、今では思い出のよすがもない。

 もし祖母がどんなに珍しい宝石を持っていたとしても、それが大切な思い出につながるものならば家計の足しにしろと無理強いすることはできない。

「──仕方ないわ。兄の友人に頼んでみる」

「貸してくれるかなぁ……。っていうか、貸すようなお金を持ってるかどうか。旦那様の友だちは手元不如意の遊び人ばかりですよ」

 ジルが疑わしげに眉根を寄せる。

「そもそもその人たちがあの店にお兄様を連れて行ったんでしょう? だったら責任をとってもらわなきゃ」

 言うそばから無理だと囁く内心の声に、クロエはあえて耳をふさいだ。

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