第3章 究極の選択と危ない駆け引き

第8話

 数日後、オーレリアンは本当にパドルー嬢を屋敷に連れてきた。

 朝から総出で掃除をし、できるかぎり見苦しくならないように部屋を整えた。わずかに残った絵画を居間の壁に飾り、ケチらず暖炉にも薪をくべる。

 残った服からできるだけ見栄えのするものを選んで着替えた。髪は鏝をあてて巻き、リボンを飾って肩に垂らしてみた。袖のレースが綻びかけていることに今さら気付いてうろたえつつ、そわそわとクロエは来客を待った。

 オーレリアンに手を取られて現れたのは豊かな黒い巻き毛の美少女だった。落ち着いた薔薇色の外出着に毛皮のふちどりのついた暖かそうなマントをはおっている。外の寒さのせいか、あるいは緊張しているのか、頬を少し紅潮させていた。

 彼女はクロエを見ると内気そうに微笑み、おずおずとお辞儀をした。予想に反し、いかにも地方出身の純朴そうな雰囲気だ。

 珈琲──むろん出涸らしではない──を飲みながらしばらく歓談する。

 ブランディーヌは十八歳。都会で洗練された物腰を身に着けさせようという父親の思惑に従い、去年の暮れにノルマンディーの北部からパリに出てきたという。

 しかし生来内気な質で、緊張しやすく、華やかな場が苦手だった。出会いのきっかけとなった舞踏会も最初は断ろうとしたのだそうだ。

「仮面舞踏会なら、あまり緊張しないですむかもしれないと思って……」

 おっとりとした口調で囁き、ブランディーヌは気恥ずかそうに目を伏せた。くるんとカールした長い睫毛はまるでお人形のようだ。肌色は白く透けるようで、艶やかな黒髪がよく映える。

 さっきからオーレリアンは彼女の手を取ったまま離さず、うっとりとその横顔を見つめている。確かに驚くほどの美少女だ。奥ゆかしく楚々とした風情にも好感が持てる。

 ブランディーヌは自分の手を握ったまま離そうとしないオーレリアンを困ったように見たが、頬をほんのり染めてかなり嬉しそうでもあった。

「……でも、思ったより大勢の人が来ていて、わたしすっかりのぼせてしまって。ふらふらしていてうっかりオーレリアン様にぶつかってしまったんですの。そうしたら椅子に座らせてくださって、飲み物取ってくださったり、それはもう親切にしていただいて」

 珈琲茶碗を皿に戻しながら、クロエは微苦笑を浮かべた。

(お兄様は、女の人にはとにかく優しいのよねぇ……)

 特にそれが見目麗しい女性なら、貴族だろうが平民だろうがお姫様扱いだ。貴重品のごとく扱われて悪く思う女性はまずいない。

 何となく思い込みで、己の美貌と財力を鼻にかけた高慢な美女を想像していたので、クロエはブランディーヌに対して申し訳ない気分になってしまった。

 おっとりした物腰や喋り方も上品だ。短気で腹をたてやすく、ついずけずけものを言ってしまう自分よりもよほど深窓の令嬢らしい。

 彼女をじかに見れば祖母のかたくなな心もやわらぐかもしれない。そう思ったクロエは中座して祖母に面会を打診しに行ったのだが、やはりけんもほろろに追い払われた。

 クロエが詫びるとブランディーヌは大きな黒瞳を瞠り、弾かれたように首を振った。

「わたしの身分では当然ですわ。侯爵夫人はさぞかしお腹立ちなのでしょうね……」

 悲しそうにうつむいたブランディーヌの肩を抱き、オーレリアンがなぐさめる。

「おばあさまは頭が固いんだ。もうすっかり時代後れになっているのに、全然それがわかってない。どうぞ勘弁してやって、気にしないでください」

 涙ぐんだブランディーヌはこくりと頷いた。うっとりと見つめ合うふたりから目を逸らし、クロエは扇子で憮然と顔をあおいだ。何だかままごと夫婦みたいで微笑ましい。微妙に癪に障るのは、単なる独り者のひがみだ。

 それからしばらくお喋りをして、ブランディーヌは帰って行った。帰り際、彼女はクロエに遠慮がちに囁きかけた。

「クロエ様は、十六でしたかしら……?」

 そうだと答えると、ブランディーヌは恥ずかしそうに微笑んだ。

「年下の方にこんなことを申し上げるのは失礼なのですけど……、とてもしっかりしていらっしゃって、まるでお姉様みたい。わたし、姉妹もいないし、人見知りをするから友だちも少ないんです。あの……、もしよかったらお友だちになってくださいませんか」

「ええ、もちろんよ」 

 そんなふうに言われたのは生まれて初めてだったので、クロエは感動してブランディーヌの手をぎゅっと握った。

 かわるがわる頬を寄せて挨拶すると、ブランディーヌは侍女とともに馬車に乗り込み、走り去って行った。

「可愛いひとだろう?」

「そうね」

 兄の言葉に、クロエは素直に頷いた。並んで見送っていたジゼルとジルベールに御者や侍女の印象を尋ねてみると、ジゼルはそっけなく肩をすくめた。

「無愛想な気取った女で、あたしたちとは口もききませんでした。細面のわりになんだか骨っぽい顔だちで、口許にうっすら産毛が生えてるんですよ。いかにも見張りって感じですね」

「変な虫がつかないように、父親がわざわざごつい女を選んだのさ」

 弟の軽口にジゼルは頷いた。

「そうかもね。御者のほうは、ちょっとイヤな感じでした。あたしのこと助平ったらしい目付きでじろじろ見るんだもの。それに、うちを廃屋だと思ってたなんて、いけしゃあしゃあと言うんですよ! 冗談じゃないわ」

 本当に冗談にならない、とクロエは苦笑した。

「無理もないわ。ブランディーヌが回れ右で帰らなかったのが不思議なくらい」

「おおかた旦那様のお綺麗な顔に目がくらんでたんでしょうよ」

「ひまさえあれば見つめ合ってたものねぇ」

 冷やかすようにふたりしてオーレリアンを見ると、彼は照れくさそうに頬を掻いた。

「あー、それで、クロエ。どうかな。おまえは賛成してくれるかい」

「結婚のこと? わたしが口を出すようなことでもないでしょ」

「そうだけど……」

「安心して。可愛いひとじゃない。わたし、好きだわ」

「それならよかった! ──で、おばあさまにかけあってくれるね」

 クロエは腰に手をあてた。

「そんな弱気でどうするの。ご自分の結婚でしょう」

「うん……、それはそうなんだけどさ……」

 オーレリアンは眉を寄せ、意気地なくもじもじしている。

 クロエは溜息をついた。仕方ない。兄は子どもの頃から気が弱かった。特に癇癪持ちの祖母を恐れていて、八つ当たりまがいに叱られても言い返すことさえできず、黙って涙ぐんでいたくらいなのだから。

「できるだけ口添えはしてみるわ」

 しぶしぶながら請け合うと、ようやくオーレリアンの顔にいつもの天使が戻ってきた──のだが。

「──許しません」

 開口一番、ぴしゃりと言われた。クロエは眉間にしわを寄せ、腹立ちをぐっと堪えた。

「あのですね、おばあさま──」

「魚屋の娘なんて、もってのほかよ!」

「でもおばあさま、タラとか舌ビラメとかお好きじゃないですか」

 オーレリアンがとんちんかんなことを言い出す。クロエは兄に肘鉄をかませ、恫喝めいた低声で囁いた。

「黙っててよ、お兄様。だいたい魚はもう扱ってないんでしょ!」

「……そうでした」

 妹に睨まれ、オーレリアンが身を縮める。クロエはこほんと咳払いをした。

「おばあさま。この際ぶっちゃけて言いますけど」

 とたんにカトリーヌがくわっと目を見開く。

「何ですか、その口のききかたは!? クロエ、おまえは侯爵家の令嬢なのですよ。そんな下層階級のような言葉を使うものではありません! さてはジゼルの影響ね。あんな浮浪児あがりの姉弟、雇うんじゃなかったわ」

 クロエはむっとして言い返した。

「ジゼルもジルベールもいい子です! 今どきこんな薄給でこれだけ忠実に仕えてくれる人間なんていません!」

 情けないことに、その薄給さえなかなか支払えないでいるのだ。頭に来たクロエは箍が外れたように喋りだした。

「正直に申し上げますわ、おばあさま。我が家の家計は火の車です。いつ破産宣告されてもおかしくありません。この家だってずっと以前に抵当に入ってるんですよ。このままでは領地にある先祖伝来の城に引っ込むしかありません」

「このわたしに、あんな蝙蝠の巣窟に住めと言うの!?」

「僕もいやだなぁ。蝙蝠だけならまだしも、あそこは蜘蛛の巣だらけで、蛇やとかげが出るんだよ。うちよりひどく雨漏りするし……」

「お兄様ッ」

「ごめん、黙る」

「わたしは絶対イヤですよ! あんな城で暮らしたら神経痛が悪化して死んでしまうわ。今だって冷え込んだ日はひどいのよ、頭痛だってするし!」

 クロエはにべもなく首を振った。

「とにかくうちは貧乏なんです。いくら由緒正しい家系だろうと、貴族の誇りでお腹はふくれません」

 確かに埃じゃお腹いっぱいにならないなぁ、とオーレリアンがくだらない冗談を呟いたが一切無視した。

「もうどうしようもないんです、おばあさま。にっちもさっちもいきません。ただでさえ逼迫してたのに、先日強盗に入られて宝石や蓄えも持っていかれてしまったんですから」

「ああ、わたしの宝石……! デムラン伯爵さえお元気だったらねぇ。こんなことにはならなかったのに」

 祖母の言葉に、クロエは凍りついた。気付かずカトリーヌはぐちぐちとこぼし続ける。

「あんなことにならず、クロエが奥方になってさえいれば、じゅうぶんな年金が入って万事うまく行ったのに……」

「おばあさま!」

 蒼白になった妹の表情を見て、オーレリアンが慌てて抗議の声を上げる。カトリーヌはそっぽを向いたまま、愚にもつかない繰り言を吐き続けた。

「それしたってひどい話よ。結婚契約書を正式に交わしたのだから、たとえ死んでもお金は支払うべきでしょう。それを、裁判所はあちらの遺族の味方ばかりして、わたしたちには──」

「おばあさま、いい加減にしてください!!」

 窓ガラスがふるえるほどの音量で、オーレリアンは怒鳴った。カトリーヌは目をまんまるく見開き、ぽかんと孫を眺めた。いつも温和でニコニコしている孫息子がこめかみに青筋をたて、怒気もあらわに拳をふるわせている。カトリーヌは言葉を呑み込んだまま固まった。

 気まずい沈黙が部屋に流れる。うつむいていたクロエは、自らの手をきゅっと握り合わせ、低声で続きを話し始めた。

「……どうしてもこの結婚に反対されるのであれば、わたしたちの生活は早晩立ち行かなくなります」

 ゆっくりとクロエは顔を上げ、まだ青ざめてはいるものの決然とした表情で祖母を見つめた。

「蜘蛛の巣城に引っ込んで、貴族とは名ばかりの自給自足生活をするか、パドルー嬢の持参金で屋敷を修理して快適に暮らすか。どちらか選んでいただかなくては」

 究極の選択を突きつけられ、カトリーヌは押し黙った。長い長い沈黙が続き、やがて祖母はしぶしぶと口を開いた。

「……結婚契約の内容によるわ」

 オーレリアンが軽く息をのむ。クロエは、よしっと心の中で拳を握った。

 ブランディーヌの父親は裕福な実業家で、他に娘はいない。たったひとりの愛娘が侯爵夫人になれるのならば、持参金の出し惜しみなどしないはずだ。

 官職を買って平貴族になれても爵位はなく、社交界に出れば成り上がりとばかにされる。爵位が高い旧家であることだけがウリのヴュイヤール家は嫁がせ先としてはうってつけであろう。

「頭が痛くなったわ。出て行ってちょうだい」

 不機嫌な声で祖母が退室を命じた。廊下に出ると、オーレリアンがすまなそうな顔でクロエの腕を取った。

「ごめん、クロエ。いやな思いをさせたね」

 軽くかぶりを振り、クロエは笑った。

「気にしてないわ。それよりよかったわね、お兄様。ここまで来れば、あと一歩よ」

「おまえのお蔭だよ。次はおまえのお婿さんを探さないとね」

「しばらくはけっこうよ。わたし、小姑になって新婚夫婦の邪魔してあげる」

「ブランディーヌをいじめないでおくれよ」

「あら、そんなことしないわ。お姉様になってと頼まれたんだもの」

 おどけてみせると、オーレリアンは笑って妹の肩を抱きしめた。

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