第32話
呼ばれてきた辻馬車の中で、クロエは足の痛みにじっと耐えていた。ラファエルは無愛想ながら手早く応急手当を施し、薄着で飛び出してきたクロエに自分の
ふいに馬車の扉が開く。びくっと目を向けると、何だか不機嫌そうにユーグが立っていた。彼は黙って馬車に乗り込み、仕切り板を叩いた。馬車がゆっくりと走り出す。しばし無言の時が流れた。
「──すまない」
ふいに謝られ、クロエは面食らった。
「どうしてあなたが謝るの?」
「きみの指輪、取り戻せなかった。ブランディーヌがセーヌに投げてしまったんだ。止められなくて。すまない」
クロエは膝の上でぎゅっと拳を握った。
「……あなたのせいじゃないわ。わたしがいけなかったの。考えもなしに飛び出して、ブランディーヌに捕まってしまったから」
そう。謝るべきは自分の方だ。彼は幾度となく窮地を救ってくれた。それなのに、たかが『痩せっぽちの小娘』と言われたくらいで過剰なショックを受けて。
自分が痩せっぽちの小娘なのは事実だし、ユーグにはアドリエンヌのような色っぽい情人がいる。興味など持たれなくてむしろ当然。彼はただ、正直に思うところを述べただけだ。
それに、ユーグは何も面と向かって暴言を吐いたわけではない。私的な会話を自分が勝手に盗み聞きしたのだ。
「……ごめんなさい。わたしのせいで余計にややこしくなったのよね。わたしが勝手に引っ掻き回して、邪魔ばかりして。何度も助けてもらったのに、それさえちゃんとわかってなくて。本当に──、ごめんなさい……」
ユーグは居心地悪そうに身じろぎした。
「やめてくれないか。女性に謝られるのは苦手なんだ。貴婦人は貴婦人らしく、『あら、あなたがいけないのよ』とか言って可愛く澄ましてればいいんだよ」
「わたし、可愛くないもの。……どうしようもないわね、可愛くもなく、可愛げもないなんて。そうよ、あなたの言うとおりだわ。わたしは子どもっぽいだけのバカな小娘よ」
「僕、そんなひどいこと言ったかな」
車輪の喧騒の中、ユーグの声が困惑しきって響く。
──ほら、また彼を困らせてる。
わたしはあのときからぜんぜん成長していない。十三歳のあの日。人を呪って、魔女になったあの日から。あのときのまま、どうしていいかわからずに立ち尽くしている。ただ、自分のしたことに怯え、恐れおののきながら、立ち竦んでいるだけ。
走り続けているつもりで、どこへも、一歩も踏み出せていない──。
「……クロエ。きみは泣いたことがないんだろう」
唐突な言葉に、クロエは眉をひそめた。
「今日あなたの目の前でみっともなく大泣きしたばかりだけど?」
「そうじゃなくて。兄上やおばあさまの前で泣いたことがないんじゃないかってこと」
胸を、衝かれたような気がした。
斜め向かいに座ったユーグは軽く馬車の側面にもたれ、考え深げにこちらを見ている。ふいに気恥ずかしくなって、クロエは顔をそむけた。
「……あるわよ絶対。よく覚えてないけど、子どもの頃はきっと泣いたはずだもの」
「そうだね」
ユーグはそれ以上追及しなかった。またしばらく沈黙が続き、やがて彼は奇妙に真面目くさった口調で話し始めた。
「ねぇ、クロエ。きみと僕は赤の他人だ」
いきなり何を言い出すのかと、クロエはあっけにとられた。
「は? 当たり前でしょ」
「だから、僕に遠慮することはない。僕はきみにまったく何の関心もないから、きみが泣いてもかまわない。事実、目の前できみがわぁわぁ大泣きしたことを、僕はまったく全然ひとつも気にしていない」
クロエはムッとして眉をつり上げた。
「ちょっと! それって厭味? それとも皮肉!?」
「だからね。僕の前ではいつでも好きなときに好きなだけ泣けばいいのさ。本当に、僕は気にしないから。きみは泣いてもかまわないんだ」
彼の生真面目な表情からは、本気なのか冗談なのかさっぱりわからない。わからないけれど、けっして厭な気分ではなかった。クロエは軽く口を尖らせた。
「……せっかくだけど、今日はもう涙が出そうにないの」
「それじゃ、いつでもどうぞ。ご遠慮なく」
笑みをふくんだ声と澄ました顔にかちんと来る。言い返そうとしたちょうどそのとき、馬車が侯爵邸に着いた。意地でも自力で降りようとしたが、有無を言わさず抱きあげられてしまう。馬車の後部から飛び下りたジルベールを従えて歩きだし、ユーグは感心したように呟いた。
「本当にきみは軽いんだな。小鳥みたいだ」
「どうせ痩せっぽちの小娘よ」
むくれて呟くと、ユーグは苦笑した。
「こだわるね。そんなに僕に口説かれたい?」
「どうしてそうなるのよ!? あなたみたいな女たらし、大嫌い! もう二度とあなたの前でなんか泣くものですか」
「うん。きみは笑っていたほうがいいね」
慈しむようなまなざしを向けられ、思わずどぎまぎしてしまう。とたんに表情を一変させ、ユーグはいつもどおり人をくった不敵な笑みを浮かべた。
「
「……嫌い! 降ろしてよ、自分で歩くわ!」
「やれやれ、本当に子どもだねぇ。そうやって暴れられると非常に迷惑なんだけど……」
「いいから降ろしてっ」
言い合ううちに屋敷の玄関が開き、今にも泣きだしそうな顔のオーレリアンと燭台を持ったジゼルが先を争うように飛び出してきた。
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