第6話

 翌朝。クロエは台所のかまどの側で薄い野菜スープを木のさじですくいながら、必死にやりくりを考えていた。

 オーレリアンはまだ寝ている。昨夜はショックのあまり意味もなく自室を歩き回る気配がいつまでも続いていた。叩き起こしたところでどうしようもないので、放っておくことにする。

 兄が頼りにならないことはわかっていても、こんなときにはさすがに情けない気分になってしまう。顔を見ると厭味が出そうだ。

 怒って言い返してくればまだしも、兄はきっと心底すまなそうにしょんぼりとうつむくだけだろう。そんな兄を見たらかえって罪悪感を煽られてしまう。だから見ないほうがいいのだ。

「……こうなったらいよいよだわ。思い切ってこれを使いましょう」

 クロエは料理人と侍女と三人でテーブルを囲むと、虎の子のルイ金貨を一枚置いた。マドレーヌとジゼルが同時に息を呑む。クロエは弱々しく笑った。

「もしものときのために、スカートの縫い目に隠しておいたの。服まで盗まれなくてよかったわ。あと何枚かあるから、しばらくはこれでもつでしょう」

「でも、お嬢様……」

「いいのよ。お金は使うためにあるんだから。……ごめんなさい、本当はここからあなたたちのお給金を出すべきなのだけど」

「いいんですよ、お嬢ちゃまマ・プティット。あたしら、住むとこも着るものもあるんだから」

 マドレーヌの言葉に、涙ぐんでジゼルも頷く。

「あたしはお嬢様のお側にいられれば、それでいいんです。孤児だったあたしと弟をひきとってくださったのはお嬢様ですから」

「いやぁね、ジゼルったらいつまでも。そんな昔のことはさっさと忘れてしまいなさい」

「いいえ、絶対忘れません。それにあたし、お嬢様も旦那様も大好きですから。正直、旦那様にはもう少ししっかりしていただきたいとは思いますけど……」

「そうね。でも、お兄様はあれで──、……誰か表に来た?」

 案内を請う声が聞こえたような気がして、クロエは顔を上げた。腰を浮かしたジゼルが耳を澄まし、すぐに座り直した。

「ジルが出たみたいです」

 こちらへやってくる気配はない。

 クロエはうら悲しくなるほど軽い財布から銀貨を取り出し、金貨の隣に置いた。

「エキュ銀貨もまだ少し残っていたわ。これ、やっぱりどこかに隠しておいた方がいいと思う? それともいつも持ち歩いたほうが安全かしら」

「そうですねぇ……」

 まさかまた強盗が入るとも思えないが、用心に越したことはないだろう。三人で思案していると、ばたばたと足音がしてオーレリアンが駆け込んできた。髪は寝乱れたまま、寝間着にガウンを引っかけて、寝床から這い出したばかりと見える。

 あっけにとられる三人にはかまわず、オーレリアンは叫んだ。

「ジゼル! 今すぐ身繕いをしたいんだ。湯を用意してくれ」

「お兄様? 何をそんなに慌ててるの」

「出かけるんだ。待ち合わせだよ。手紙が来たんだ」

 興奮してふるえる指先から、折り畳まれた便箋を受け取る。広げてみると、昨夜の扇子と同じ香りがした。

「……春の妖精さんね」

「そうなんだ。いま使いの者が来てね。確かに扇子をお預かりしているといったら、この手紙をよこした」

 ざっと読んだ手紙には、扇子を拾ってくれた礼と、お礼かたがたぜひお目にかかりたいという趣旨のことが流麗な女文字で書かれていた。

「ごらんよ、なんて繊細な文字なんだろう。実にあのひとらしいじゃないか」

「本人が書いたとは限らないでしょ」

「おまえは疑り深いねぇ……。いいや、そんなことはない。これは絶対あのひとの直筆だ。とにかく会わなきゃ。なるべく身ぎれいにしてめかし込んで行かないと」

 ふっ、とクロエは溜息をついた。

「のんきでいいわね、お兄様は。こんなときにデートだなんて」

 つい厭味な口調になってしまった。気まずそうに振り向いた兄の顔を見ると、こちらのほうがよけいに気まずい。

「ごめんなさい。別にいいのよ。家にいたって寒いだけだし、出かけていれば薪の節約になるしね」

「……彼女は金持ちだ、たぶん」

「はぃ?」

 何を言い出すのかと目を瞠る。オーレリアンはひどく思い詰めた顔で、自分に言い聞かせるように呟いた。

「こんなときだからこそ、裕福な女性と急いでお近づきになるんだ……!」

「ちょ、ちょっと、お兄様?」

「クロエ。僕の取り柄は顔だけだと言ったね」

 大真面目に問われてクロエは焦った。

「そっ、それは言葉の綾というか何と言うか……」

 オーレリアンは寂しそうに笑った。

「いいんだ、実際そうだからね。だったらせめて、取り柄の顔が彼女の気を引いたことを最大限利用しなければ。うまくすれば、何かしら融通してもらえるかもしれない」

「──え。ちょ、ちょっと待ってお兄様! もしかして、ほとんど初対面の女性にいきなり借金を申し込むつもり!?」

「まずいかな?」

「当たり前よっ、いくらお兄様が絶世の美男子でも、ドン引きされて二度と会ってもらえないわ!」

「そうだろうか……」

「そうよっ」

「そうですっ」

 ジゼルも憤然と同意する。

 クロエは頭を抱えた。こんなに綺麗な顔をしているのに、何故もう少し頭が回らないのだろうか。けっして馬鹿ではないのに、オーレリアンには駆け引きとか計算能力とか、そういう類のものが昔から著しく欠けているのだ。

 クロエはこめかみに浮かびそうになる青筋を懸命に押さえ、懇々と言い聞かせた。

「いい? お金のことを口にしてはだめ。絶対にだめよ。──ジル! ジルはどこ」

 声を張り上げると、ひょいと戸口から少年が顔を出す。

「御用でしょうか、お嬢様」

「あなた、お兄様についていって、物陰から見張っててちょうだい。お金がどうのと言い出したら後ろからパチンコで小石をぶつけてやるのよ」

「おいおい、それはあんまりじゃないか」

 びくついた兄の情けない抗議はすっぱり黙殺する。

「ジル、パチンコ得意よね?」

「もちろんです」

 彼は二股になった木の枝にゴムを結んだ手作りパチンコを、得意そうに膝丈ズボンキュロットの後ろから取り出した。

「こないだなんか飛んでる鳩を打ち落として、焚き火で焼いて喰ったんですよー」

「あんたねぇ!」

 目をつり上げた姉に一喝され、ジルは肩をすくめた。

「だって腹減ってたんだもん……」

「あんたひとりで食べたわけ!? どうせならついでに五、六羽獲っといで!」

「そっちかよ……」

「ジル、頼むから頭には当てないでくれよな。額の腫れがやっと引いてきたところなんだ。それから、あんまり大きい石は痛いからいやだぞ」

「大丈夫です、旦那様。ケガのないようにどんぐりにしときますから」

 姉弟に伴われ、オーレリアンはやっと台所から出て行った。クロエはテーブルに肘をついてこめかみを揉んだ。

「ああ、もう! どうしてわたしがこんなことまでいちいち指示しなきゃいけないのよ」

「まぁまぁ、お嬢ちゃま。珈琲でも飲んで。カフェ下がりの出涸らしですけどね、新鮮な牛乳を入れれば美味しく飲めますよ。はい、どうぞ」

「ありがと、マドレーヌ」

 受け取ったカップを口許に運びながら、クロエは憎たらしくも美しいユーグの顔をつらつらと思い浮かべた。

(あいつなら、きっと初対面の女性からでも余裕で貢がせるんだろうな……)

 いかにも世渡り上手っぽいし。きっと今まで口八丁手八丁で生きてきたに違いない。

 クロエはむうっと口を尖らせた。

(ふん、だ。お兄様はあんな悪党ルエとは違うのよ。不器用だけど、誠実だもの)

 オーレリアンが浮世離れした天使なら、器用で不誠実なユーグはさしずめ堕天使に違いない。

「……あんな奴、どうでもいいわ。どうせ二度と会わないもの」

 ぽつんと洩らした呟きが、頼りなく湯気に紛れた。

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