第30話

 ブランディーヌは愛人の肩にしなだれかかり、聞こえよがしに囁いた。

「早いとこ特別な賭場を開こう。好き者どもに秘密の符丁つきの招待状を送るんだ。まっさらな生娘のご令嬢が賞品と知れば、勝負にもさぞ熱が入るだろうよ」

 ダリエは笑いながら頷き、好色そうにクロエを眺めた。男は長椅子に歩みよると、クロエの顎を掴んで無理やり仰向けた。

「……こいつ、追い詰められた野良猫みたいな目付きをしやがるぜ。また酒をたんまり呑ませて酔わせておかないと、大事な客を引っ掻きかねないな」

「それもまたお楽しみかもしれないじゃない」

 嘲笑を浮かべて女が覗き込む。クロエは力任せに男の手を振り払い、無我夢中でブランディーヌに掴みかかった。抱きつかれる格好で、女が床に尻餅をつく。クロエは力任せに女の手を掴んだ。

「返してよ!」

 反対側の手で頬を張り飛ばされ、背後からダリエによって羽交い締めにされる。

「何するんだい、この小娘が!」

 激昂して立ち上がった女は、なおも平手打ちを浴びせようと手を振り上げた。

「まぁ待てって。大事な賞品なんだ、顔が腫れ上がってたら興ざめだろう?」

「だけどこいつ、頭に来るんだよ!」

「ガキなんだ。勘弁してやれ。さぁ、着替えて化粧を直して来いよ。気晴らしにカードでもやりに行こうぜ。小娘はここに閉じ込めておけばいい。──おい、目を離すなよ。後で夜食を届けてやるから」

 ダリエが女装した手下に命じた瞬間。窓ガラスの割れる音が響き、同時に廊下に面した扉がばたんと開いた。十人以上の男たちが一斉になだれ込み、いちばん近くにいた女装の手下がたちまち組み伏せられた。

 室内の誰もがあっけにとられる中、ブランディーヌだけがとっさに野生の獣じみた動きを見せた。彼女は愛人には目もくれず、一瞬のうちに隣の部屋に続く扉の向こうに消えた。

 男たちが怒号を上げ、ダリエを突き飛ばす。数人がかりで男を縛り上げているあいだに、残りの面々が閉まった扉に取りついた。

「開かないぞ」

「向こうからかんぬきをかけやがった!」

「蹴破れ!」

 わぁわぁと騒ぎながら男たちは扉を突き破り、次の間へ飛び出していく。古びた軍服みたいなのを着ている者もいたが、ならず者だか一般人だかよくわからない。少なくとも正規の捕方ではないようだ。

「いないぞ!」

「どこ行きやがった」

「探せーっ」

 怒号が交差する中、長椅子にへたりこんだクロエはただただぽかんとしていた。

(な、何なの、この人たち……!?)

「お嬢様ぁっ」

 ふいにクロエの足元に誰かが身を投げ出した。

「ジル! どうしてここに?」

 ダリエの店の前で別れたままになっていた従僕のジルベールが、薄汚れた顔を安堵の涙でぐちゃぐちゃにしていた。ふだんはオーレリアンのお下がりを着てこざっぱりとしているのに、今はやけにぼろぼろな格好だ。

「俺、浮浪児のふりをしてあのお屋敷を見張ってたんです。元は本当に浮浪児だったんで、お手のもんですよ」

「お屋敷って……、アドリエンヌさんの?」

「そう、あの綺麗なマダムです。いい人ですね! 毎日俺に小遣いくれたんですよ!」

「それじゃ、アドリエンヌさんに頼まれて……?」

「いえ、銀の髪の紳士ムッシュウ・ダルジャンの指示です」

「銀髪……、ユーグ?」

「はい。お嬢様を狙ってる奴がいるから、屋敷の周りを見張ってろと言われて。旦那もエキュ銀貨を毎日くれました。三枚もですよ。いい人です! ぜんぶ姉ちゃんに取り上げられてしまったけど」

「……あのね、ジル。お金をくれるからって、いい人とは限らないのよ」

「そうですかぁ? あのおふたりはいい人だと思うけどなぁ。だって、お嬢様のこと、それは気遣ってくださってるんですよ?」

 そのふたりに黙って飛び出してきたことを思い出し、急にクロエは後ろめたい気分になった。

「それより、よくここがわかったわね」

「たまたまお嬢様が裏口から飛び出してきたのを見たんです。馬車に轢かれそうになったでしょ? 肝が冷えましたよ。あの馬車、お屋敷の周りでよく見かけるんで、どうも怪しいなと思ってたんです。馬車はただの黒塗りだけど、馬で見分けがつきますからね」

 クロエを助けに行こうとしたジルベールは、目をつけていた馬車からブランディーヌが降りてきたことに驚いた。不審を感じ、とっさに馬車の後ろに飛びついたのだのだと言う。

「俺、いくらか払って昔の仲間に手伝いを頼んでたんです。そいつらが馬車の後を途中まで追いかけてきてくれて。俺、ここにお嬢様が連れ込まれてすぐ引っ返して、ムッシュウ・ダルジャンに伝えてくれって仲間に頼んだんです」

「それじゃ、この人たちは……」

「ムッシュウの手下じゃないですかね? 黒眼鏡の男が指示してたから」

 ちょうど引き上げてきた男たちが、戸口に向かって声を張り上げた。

「旦那。屋敷内には誰もいませんぜ。小窓が開いてたんで、たぶんそこから逃げたんだな。小柄な奴をそこから出して後を追わせましたが」

 扉の際に立っていた黒眼鏡の男が頷いた。

「他に何か発見は? 宝石類は見つかりましたか」

「銀食器なら空き部屋に積み上げてありましたがね……。宝石はないようです」

「あるだけまとめてシャトレへ運びましょう。荷馬車の用意を。ここはもう結構」

 どやどやと出て行く男たちを見送り、黒眼鏡の男はゆっくりと長椅子に歩み寄った。男は眼鏡を外し、クロエに向かって一礼した。蝋燭の灯を映した彼の瞳は、陰りをおびた赤い色をしていた。

「お怪我はないようですね」

「ええ、お蔭様で」

 捻挫した足首を用心深く引き寄せ、クロエは背筋を伸ばして男に相対した。

「あなた……、確かラファエルと言ったかしら」

 無表情な男の顔に、初めて微笑の片鱗らしきものが浮かんだ。

「我が主をここまで振り回した女性はあなたが初めてですよ、マドモワゼル・ド・ヴュイヤール。ですが、できれば今夜はこれ以上走り回らないでいただきたい」

 クロエは顔を赤らめてそっぽを向いた。

「……そうしたくても無理だわ。足首を捻挫したの」

 おやおや、と呟き、ラファエルはばつの悪そうにうつむいたクロエを思案顔で眺めた。

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