第十六巻 O.K(おお! ケイルの)牧場の決斗

 ――その頃、ケイルの家の前の広場では、牧人の娘も見つけられず、呼び出しにもまるで反応のないこの状況に、来家がいよいよ苛立ちを覚え始めていた。


「うぬぬ……やはり、早射りはすでに逃げてしまった後か……」 


 来家は縛り上げた慈耀親子の傍らで腕を組むと、せわしなく足を貧乏揺すりさせている。


 ……ヒュゥゥゥゥーン…。


 と、そんな時、どこからともなく奇妙な音が来家の耳に聞こえてきた。


「ん? なんだ?」


 何かが風を切るようなその音に、来家は訝しげな顔で辺りを見回す……しかし、特にこれといった異常はどこにも見られない…と、思った次の瞬間。


 ドオォォォーンっ…!


 傍にいた郎党の一人が、いきなり吹っ飛んで後方の家の壁に激突した。


「………………?」


 突然の出来事に、来家も他の郎党達も、いったい、何が起きたのかわからぬといった様子で吹っ飛んだ郎党の方へと視線を向ける……。


 すると、破れた板壁の前で白目を剥く郎党の右肩には、その身を背中側にまで貫通する一本の長大な矢が突き刺さっていた。


 この状況から判断するに、どうやら彼は何処かより飛来した矢に肩を射抜かれ、その威力に声を上げる間もなく吹き飛ばされたらしい。


「な……!」


 来家は目を丸くして、ポカンと口を開ける。


 「…………て、敵襲じやあっ! ど、どこから狙っておる!?」


 そして、その間抜けに開けられた口をようやくにして閉じると、慌てて周囲に警戒の触れを出した――。




「――おし! 見事命中だぜ!」


 遠く眼下の牧で吹っ飛ぶ小さな郎党の姿を確認すると、うれしそうに蔵人は拳を握り締める。


「そんな………」


 同じくその様子を遠目に見ていたケイルは、尻餅を搗いたまま、まるで死んだ身内にでもあったかのような顔をしている。


 通常、日本の弓の射程距離は遠くの的に当てる遠矢で四町(約436メートル)、相手を刺し貫ける有効射程となればぐっと短くなって100m以内、強い弓でも200m程度といわれている。


 対してここからケイルの家までは、それを遥かに超える距離どころの騒ぎではない。この超長距離で正確に的を射抜くことなど、実際こうして目にした後でも、とても人間にできる芸当のようには思えない。


「蔵人……おめえ、いってえ何者だ? もしかして、ほんとに名のある武士か何かだだか?」


 ケイルは驚きというよりも、何か恐ろしいバケモノでも見るかのように蔵人を見つめて尋ねる。


「なあに。一応、もとは武門の家の生まれだがな。今じゃ領地も持たねえ、ただの流れ者だ……さ、こっちも敵に気づかれたことだし、ここからは文字通り矢次早・・・に行くぜえ!」


 ケイルの問いに蔵人は少し自嘲気味にそう答えると、第二矢を箙から引き抜いて、再び自慢の愛弓に番えた――。




「――早射りだ! 早射りの蔵人が攻めてきたのじゃ! どこじゃ? どこにおる!? 皆の者、探せ、探すのじゃ!」


 来家は興奮に血走った目で左右をキョロキョロと見回し、叱咤された郎党達も必死になってかの者の姿を周囲に探す。


「殿っ! 早射りでございまするか!?」


 騒ぎを聞きつけ、栗栖をはじめ、方々に散らばっていた多くの者達も集まって来て見渡すが、近くに早射りの蔵人らしき人物の姿はどこにも確認できない。


「やい、早射りっ! 無駄な抵抗はやめて、とっとと出て来い! さもなくば、簾戸どもの命がどうなるか…」


 一向に見付からぬ相手の姿に、いまだその目で蔵人を探しつつも、人質を楯に大声で脅しをかける来家だったが。


 ズドォォォォォーンっ…!


「うぐっ…」


 ズダァァァァァーンっ…!


「がっ…」


 ズガァァァァァーンっ…!


「ぐああっ…」


 脅し文句を言い終える前に、慈耀親子を取り囲んで長刀を突き付けていた三人の郎党達が、次々と続け様に後方へと吹っ飛ばされる。


「なぬっ……!?」


 地面に転がる彼らに目を向ければ、先程同様、その肩や脚などには見事に矢が貫通している。


「…………ゴクン」


 その有様に、これまでは蔵人を捕えようと躍起になっていた来家も、ここへ来てようやく恐怖というものを感じ始めていた――。




「――よし! 全矢命中だ」


 連続で放った第二矢~第四矢まで、すべてを命中させた蔵人は再び拳を力強く握る。


「………………!?」


 その、遠くでおもしろいように敵が吹き飛ばされる有様を、まるで夢でも見ているかのようにケイルも目を丸くして眺めている。


「ハハハ! どうだ? こんな長距離での遠矢は久々だったが、なかなかのもんだろ? ……さてと、じゃ、お次はより難易度の高い射切りの妙技といきますか……」


 ちょっと自慢げにそう告げると、今度は蔵人、「狩又かりまた」という「Y」の字のような形状の鏃を付けた矢を取り、またも強弓「魔之二九」の弦に番える。


 …………ドンッ…!


 そして、特に苦もない様子で、それをよっ引いてひょうと放つ。


「うっ…」


 周囲を揺らすその衝撃波に、ケイルは顔を腕で覆うと、これで今日、五度目となるしかめっ顔を作った――。




 ――ヒュュュュュ~ッ…。


 上空から再び矢が接近する風切音が、来家達一党の耳に聞こえる。


「ひゃ、ひゃあああっ!」


 その音がした後に何が起きるのかは、最早、ここにいる誰もが知る周知の事実である。


 郎党達は主君の来家や捕らえた慈耀親子など放っておいて、我先にと建物や柵の影に身を隠してしまう。


 はたまた、その場でただ丸まって頭を抱え、「頭隠して尻隠さず」な者達もある。何を隠そう、棟梁の来家もその類だ。


 ザシュッ…!


 わずかの後、何かに矢が当たる乾いた音が聞こえた。


「………………」


 皆、その音に息を殺して身を固める……しかし、今回はそれまでと違い、誰かが吹き飛ばされる音や呻き声などは聞こえてこない。


 それもその筈。今の一矢は来家一党の何者にも当ることなく、その代り慈耀を縛る縄をかすめるようにして飛ぶと、その縄を擦り切り、そのまま背後の地面に突き刺さっていたのだ。


 そのように狩又鏃は本来、刺し貫くための代物ではなく、その「Y」の字の刃で何かを射切るための鏃……蔵人ははなから慈耀の縄を目がけて矢を放っていたのである。


 …ブチン。


 繊維一本残して射切られた縄は、わずかに力を入れるとなんの苦もなく千切れて解ける。


「ほう。これは……」


 思いがけず自由になった慈耀は、周囲を確認してから妻や浄意の縄も急いで解き始めた。


「あなた!」


「ちちうえ~!」


「摩利庵、浄意、今、縄を解いてやるからな」


 来家や郎党達は彼らの動きにまだ気付いていない。皆、頭を抱え、その場で固まったままだ。


「殿っ! どうやら、あの裏山から飛んで来ているようにございまする!」


 そうした中、牛舎の影に身を潜めていた栗栖だけが、勇敢にも独り裏山の方を指さしながら不意に声を張り上げた。


「なにっ? 裏山じゃと!?」


 栗栖に言われ、来家も上体を起こしてそちらへ目をやると、確かに裏山の一部木々がなくなっている場所に、二人の人物が米粒ほどの大きさでいるのが見える。


「あれかっ! ……いや、でもまさか、あんな所から狙い撃つことなど……」


 ついに宿願であった〝早射りの蔵人〟の姿を確認し、反射的に声を上げる来家であったが、そのすぐ後に疑念の表情を浮かべる。


 無理もない。それは通常考えられる弓の射程距離を完全に無視した遠さなのだ。


「俄かには信じ難きことなれど、それが事実にございまする。それがし、先程、あの山より矢が飛んで来るところをしかとこの目で拝見いたしました」


 呆然とする来家に、真顔で栗栖がそう述べる。


「まさか、そのようなことが……噂に聞く早射りの弓の腕とは、まさか、これほどのものなのか……」


「殿、いかがいたしまするか? 向こうの矢は届いても、この距離にして、しかもあちらは山の上。到底、われらの矢はやつに届きませぬ。これでは無抵抗のまま早射りに射殺されるだけのこと。ここは一旦、退くのが得策かと……」

 

 この圧倒的不利な状況に、栗栖は呆然自失の来家に対し、努めて冷静な口調で早々の撤退を強く求める。


「そ、それは……いいや、駄目じゃ! 駄目じゃ!」


 しかし、来家は栗栖の提案に頭をフルフルと振って否が応でも承知しない。


 命の危機に恐怖を感じながらも、多大な恩賞にありつけるかもしれない一世一代のこの好機をどうしても諦め切れないらしい。


「……そ、そうじゃ! 楯じゃ! 楯があるではないか! そのために用意して来たのじゃった。皆の者、何をしておる! 楯じゃ! 楯を構えよっ!」


 秘密兵器の存在を思い出し、なんとか気を取り直した強欲な来家は、郎党達に掻楯かきたてを立て並べるよう指示を飛ばす。


 並べた楯の後に隠れ、蔵人の矢から身を守ろうという作戦である。


 その声で郎党達もようやく我に帰り、わざわざ担いで持って来た重く大きな板状の掻楯を裏山に向かって一列に並べると、その背後に我先にと素早く身を隠す。


「ハハハハハハっ! どうじゃ早射り! いくら貴様の弓が強くとも、この楯までは射通せまい! よし、全員そのまま早射りが出て来るまで待機じゃ! こちらには人質がおる。あやつの弓さえ封じれば、後はこちらの思うがままじゃ!」


 来家は完全に自信を取り戻し、調子に乗って高笑いまで響かせると、並び立つ楯の後ろから蔵人に向かって再び呼びかけた。


「早射りーっ! もう貴様の弓は通用せぬぞーっ! 人質の命が惜しくばーっ! 速やかに投降しろ~っ! ――」




 ――ボカッ…!


 一方。その頃、高台の上の蔵人は、なぜだかケイルに殴られていた……。


「痛っ! 何すんだいきなり!」


 唐突に頭を思いっきりひっ叩かれた蔵人は、ケイルの方を振り向いて文句を口にする。


「バカ野郎! んなことして、慈耀さまに当たったりしたらどうするだ!」


 対してケイルは目を吊り上げて、当然だというように蔵人を怒鳴り付ける。


「大丈夫だって。ほら、こうしてあの坊さんもちゃんと無事でいるじゃねえか。ま、縄をかすめ切るのなんざ、俺様の腕にかかれば朝飯前よ。しのごの文句言わねえで、おまえは俺を信じて見てりゃあいいんだよ」


 殴られた頭を摩りながら、蔵人は自信ありげに胸を張って嘯く。


「確かに弓の腕はすげえようだが……それ以前に、人としておめえを信じられねえだ」


 そんないつもと変わらぬ不遜な蔵人を、ケイルは不信感いっぱいの目で見つめながら言う。


 このような状況の中にあるというのに、不思議と二人の間には緊張感というようなものがまるで感じられない。彼女がここへ来た時に持っていた不安や絶望といった負の感情は、いつの間にやら完全に消え失せてしまっている。


 それは、口ではいろいろ言いながらも初めて目の当たりにした蔵人の頼もしげな姿に、彼女も心の内では充分、彼のことを信頼しているからに違いない。


「人としてって……ハァ…ったく信用ねえなあ……」


「おい! あいつら、なんか変なもん出してきたぞ!」


 ひどく疲れた顔で溜息を吐く蔵人だったが、ケイルはそれを無視スルーして遠く彼方の家を指差して言う。


「ん? ……おお。掻楯を出してきやがったか。だが甘えな。俺様の弓をあんなもんで防げると思ったら大間違いだぜ」


 蔵人もそちらへ視線を移してみると、家の前では来家達が掻楯をこちらに向けて整然と並べ、堅固な防御壁を築いている。


 が、それを見ても彼は少しも臆することなく、むしろ逆に不敵な笑みを浮かべてながら箙より次の矢を抜き出す。


「なんだ? その矢は?」


 その矢の先端が見たこともないような奇妙な形をしているのを見て、ケイルは思わず疑問を口にした。


 それに付けられた鏃は通常の物と違い、毬栗いがぐりのような、トゲトゲのいっぱい生えた球状の陶器でできている。


「ああ。こいつはな、ああいった楯や壁をぶっ壊すために作られた特製の鏃だ。鎮西ちんぜい(※九州)に行った時に博多津はかたづ弓作手ゆみつくてから手に入れたもんなんだけどな、なんでも唐人から仕入れた〝てつはう〟とかいうのを改良して作ったんだそうで、こいつに火を着けて放つと的に当たった瞬間、弾けて四方へ飛び散るんだ……おい、白銀! 火を持って来てくれ!」


 角のある球状の先端をケイルの目の前に突き出して説明すると、蔵人は振り返って愛馬の名を叫ぶ。


「ブウウウウ~!」


 すると、蔵人に言われるまでもなく、すでに白銀は焚火の所まで行って燃え残りの薪を一本咥え、こちらに早足で戻って来るところだった。


「お! なんだ、察しがいいじゃねえか。さすが俺様の馬だけのことはあるぜ」


 そう言って、駆け寄る白銀の頭を褒めるように撫でてやり、その口に咥えた燻ぶる薪木から毬栗の導火線に蔵人は火を着ける。


「火ぃ着けるってことは火矢みてえなもんだだか?」


「ま、似たようなもんだ。普通の火矢よりももっとスゲえことになるんだけどな。ちなみに、かなり値が張る上に使い捨てなんでもったいねえが、この際仕方ねえ……今日は来家の野郎への礼に特別大盤振る舞いだ。ケチな出し惜しみなんかしねえで、たっぷり味あわせてやるぜい」


 初めて見る舶来起源の代物に、小首を傾げるケイルをどこか愉しげな顔で蔵人は眺め、その〝てつはう鏃〟の付いた矢を弓に番える。


「こいつは頭が重いんで、ちょっと射るのにコツがいんだよ。これやるのも久々だ。うまくいくかどうかはわからねえが……ま、後は仕上げをごろうじろってな!」


 ドンッ…!


 そして、そんな無駄口を叩きつつ、これまでよりもかなり上方に狙いを定めると、蔵人は大空に向かって強弓を軽々引き放った――。




「――ガハハハハハ! どうじゃ早射り! これではぐうの音も出まい! さあ! おとなしく、さっさと山から下りて来~い!」


 堅牢な掻楯の壁を築き、己が勝利を確信した来家は、その壁の背後でバカ笑いをして勝ち誇る。分厚い木の板で守られたその場所は、どれほどの強弓が相手といえども、けして矢の届かぬ安全圏なのだ。


 …………そう。安全圏のハズだったのだが。


「ガハハハ! どうした? 恐ろしくて下りても来られぬか? 安心しろ。わしは優しいのだ。今出てくれば痛い目には遭わせず、そのまま鎌倉に引き渡して…」


 ヒュゥゥゥゥゥゥ~……ドガアァァァァァァーンっ!


 そこまで来家が言いかけたその時、一番右端に立てた掻楯が大きな音とともに木端微塵に砕け散ったのである。


「…………えっ?」


 そちらを振り向いた来家は、ポカンとした顔で間抜けな声を上げる。


 見れば、楯は粉々に砕けて最早その姿を留めず、その支柱を支えていた郎党や後に隠れていた者達も、吹き飛んだ木片とともに全員地面に転がっている。


 そう……蔵人の放った矢の先端に取り付けられていた〝てつはう〟は、高速で楯の表面に激突するや内部の火薬に引火して爆発を起こし、飛び散る陶器でできた外装や中に仕込まれた鉄の破片が郎党もろとも木製の楯を破壊したのである。


「そんな、アホな……」


 その場で間抜け面のまま固まっている来家が、信じられないという調子で呟く。


 ……ドガァァァァァーン!


 ……ドガァァァァァーン!


 ……ドガァァァァァーン!


 そうこうしている間にも、右端のものから順を追って掻楯は粉微塵に撃ち砕かれてゆく。と同時に、背後に隠れていた郎党達もことごとく吹き飛ばされる。


「うそお……」


 そして、何もできず、次々と破壊される防御壁をただただ呆然と来家が見つめる中、ついに彼や栗栖の隠れる一番左端の掻楯が吹き飛ばされる番がやって来た。


 ……ヒュゥゥゥゥゥゥゥ~……ドガァァァァァァーンっ!


「うぐぅっ…!」


 栗栖は顔を腕で覆いながら、もんどりうって後方に倒れる。


「うへえっ…!」


 同じく破裂する礫と木片を全身に浴びて来家も転倒するが、それでも頑丈な鎧を着込んできただけのことはあって、肉体的にはなんとか無事だったようである。


「ひ、ひいい……」


 辺りには、少し前まで〝楯〟という物であったたくさんの木片と、それから重傷・軽傷を負った郎党達が一面に散乱している。


 一瞬にして現れたその惨憺たる光景に、来家は顔を真っ青にしてか細い悲鳴を漏らした。


「……こんなことが、こんなバカなことがあってたまるか……これほどの手勢がたった一人の者のために……いくら早射りが武勇の者といえども、所詮はただの一人だぞ? それが、このような……早射りがかような人物などと、わしはぜんぜん聞いておらぬぞ? これほどのつわものさきの内乱で目立った手柄も立てておらぬなど詐欺ではないか……」


 その惨状の中、青い顔の来家はよろよろと立ち上がり、うわ言のように呟く。


「マズイ……本当にマズイ。このままではわしの方が殺されてしまう。この荘を没官して、ようやくここまで領地を広げたのじゃ。それなのに……それなのに、こんなところで殺されてたまるか! 何か、何か助かる策は……おお、そうじゃ! こっちにはまだ人質がおったのじゃ! あやつらを楯にすれば早射りとて矢は射かけられまい……」


 必死に考えを巡らし、この窮地を脱する唯一の方法に思い至った来家は、人質を縛っておいた場所に慌てて視線を向ける……のだったが、当然、そこにはもう慈耀達の姿は見当たらない。


「…!? ……人質は? 慈耀はどこじゃ!?」


「と、殿……人質はあちらに……」


 派手に吹き飛ばされはしたものの、なんとか軽傷ですんだ栗栖が震える手で牧の方を指差しながら伝える。


「なにっ!?」


 その指が指し示す方角を眺めると、浄意を背負った慈耀と摩利庵が遥か遠い彼方を走って行くのが目に映る。蔵人のおかげで縄から解放された彼らは、このどさくさに紛れて密かに逃げ出していたのである。


「こ、こら! 待てっ! 行くなっ! わしを守れっ!」


 待てと言われて待つバカがどこにいるというお約束以前に、もうその声が届かぬ所まで慈耀達は逃げて行ってしまっている。


「わ、わしの楯が……」


 絶望的なその現実に、来家がよりいっそう情けない表情を作ったその瞬間。


 ヒュウゥゥゥゥ…。


「んお?」


 ……ドスゥっ!


 上空から飛来した魔具南無鏃の矢が、来家の胸のど真ん中に突き刺さった。


「ぐああああーっ!」


 射られた来家は断末魔の悲鳴を上げ、そのまま後にバタリと倒れる。


「殿ぉぉぉーっ!?」


「い、痛いっ! も、もうダメじゃ! 心の臓を射られた。もう助からん。もうお終いじゃ。わしの命もこれまでじゃ! 胸がものすごく痛い。これほどの痛み、きっと心の臓からは大量の血が噴き出して……」


 驚く栗栖の目の前で、来家は手足をドタバタとバタつかせて、うるさいくらいにもんどり打って転がり回る……。


 しかし、矢の刺さった胸に手をやった来家は、ふと、あることに気づいた。


「……おや? 血が噴き出しておらん……いや、それどころか血が出てすらおらぬ。それに思ったほど痛くもないが……人が死ぬ時というのはこういうものなのか?」


 不思議に思った来家は鎧の胸に突き刺さった矢の柄を握り、なんとはなしに引っ張ってみる。すると、ちょっと手に力を込めるだけで、その矢の鏃はスポリと鎧から抜け出した。


「…………はて?」


 鏃が抜けてポカリと空いた菱形の穴に、来家は指を突っ込んで調べてみる……と、その穴は来家の肌に触れるか触れないかの紙一重の場所でギリギリ運よく止まっていた。


「おおっ! 貫通しておらぬ! わしは射られておらぬぞ! ……そうか! さすがの早射りの強弓でも、この二段構えまでは射抜けなかったと見える。いやあ、まさに備えあれば憂いなし。用心して総鉄札そうてつざねの鎧の下に、さらに腹巻まで着込んできてよかったわい」


 大鎧や腹巻などの日本の甲冑は、その大部分が長さ7.6センチ、幅4センチ程度の小さな鉄板――小札こざねというもので作られている。


 その小札を織紐か染革で綴って(※これを〝おどす〝という)体を包む胴を作るわけなのだが、この小札には鉄製のものと牛革製のものとがあり、通常は軽量化や経済的な問題のために「金交かねまぜ」といって、鉄札てつざね革札かわざねを交ぜて作ったものを使用していた。


 しかし、来家はより防御力を高めるためにすべて鉄札で作らせた鎧を着て、その上、さらに用心のよいことには、その下に腹巻まで着用していたのである。


「じゃが、上の鎧ばかりか下の腹巻まで穴を空けるとは……」


 卑怯なほどの用心深さのおかげで命拾いした来家ではあったが、その用心をも上回りかけた蔵人の弓に改めてぞっと肝を冷やす。


「あ、あんなバケモノとやりあおうなどバカげておる……み、皆の者、退けえい! た、退却じゃあ~っ!」


 そして、震える声でそう叫ぶと傍に繋いであった馬へと駆け寄り、鎧の重さも感じぬ様子で単身、一目散に逃げ出す。


「あ! と、殿っ! お、お待ちくだされ~っ!」


 そんな、自分達を置き去りに逃げる身勝手でひどい主君の姿に、栗栖もあちこち痛い身体に鞭打って、その後を徒歩で必死に追いかける。


 さらに続いて他の郎党達も、重傷の者に軽傷の者が肩を貸しながら、ぞろぞろと長い列を作って次々に撤退してゆく。

 

 どうやらこの勝負、完全無欠に蔵人の勝ちのようだ――。




「――チッ。命中したのに生きてやがる。あの野郎、鎧を二重にでも着てやがったな」


 逃げて行く来家達の姿を高見より見物しながら、蔵人が残念そうに呟く。


「ま、いくら来家でも、おらの家の前で死なれちゃ寝覚めが悪りぃからな」


 蔵人のボヤきに、ケイルは真顔でそんなブラックな言葉を返す。


「フン、違えねえや。ま、来家は仕留める気で射たが、他のやつらは加減しておいたからな。一人も死人は出てねえ筈だ。その点は安心しな」


 蔵人もダークな笑みをその顔に浮かべ、彼女の方を振り向いてどこか愉しげに言う。


「この距離でそんな小細工までしてただか? ハァ…おめえ、人間はまったくできてねえけど、弓の腕だけはほんとにスゲえんだな」


 ケイルはその大きく開いた瞳を輝かせると、いつになく感心した様子で蔵人の顔を見つめる。


「そうそう。俺は人間はできてねえが弓だけは…って、ぜんぜん褒め言葉になってねえじゃねえか!」


「ほんとのことだで仕方ねえだ。これでも褒めてやつてるだから、ありがたく喜ぶだ」


 いつもの一人ボケツッコミで文句を口にする蔵人に、ケイルは偉そうに腕を組むと、あまりない胸を張ってそう答える。


「ったく、助けてやつたのに、ほんと、口の減らねえ小娘だな」


「ああ。口の減らねえ小娘で結構だ。ま、今日はなんと言われようと、助けてもらった礼に許してやるだ」

 

 そこで、ツンとしていたケイルの顔が不意に解れて微笑に変わる。


「フッ…」


 それにつられて蔵人の口元も、ぐにゃりと歪んで不敵な笑みを浮かべる。


「さ、慈耀さま達のことが心配だ。急いで山を下りるだよ」


「おう!」


  二人は笑顔で頷き合うと、山道を麓の方へと駆け出した。










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