第十九巻 遮威安寺砦

 ――パカ、パカ、パカ、パカ…。


 日の傾き始めた田園地帯を、白銀に乗った蔵人がやって来る。


 上半身には毛皮を羽織り、脚には行縢むかばき、頭には綾藺笠あやいがさを深くかぶった、この荘に初めて姿を現した時と同じ格好である。


 だが、今は彼一人でなく、白銀の口縄を引く見慣れぬ馬方らしき男の姿も見える。


「おい! 来家の屋敷はまだか? あんまし焦らすと、またこいつが噛みついちまうぞ?」


「へ、へい! あ、あそこに見えますのが、来家の殿さまが住んでおられる遮威安寺にございやす!」


 否。それは口輪を引く馬方ではない。


 真実はその逆だ。縄で繋がれているのはその男の方である。


 白い四幅袴よもばかまに腹当の郎党然りとしたその男は、なぜだか顔中痣だらけにして、当時の男ならば誰しもかぶっているはずの烏帽子もなくし、肌蹴た着物から伸びるその首にはしっかりと縄をかけられている。


「おお、あれか! 来家の野郎、小者のくせしてなかなかいい家に住んでるじゃねえかよ」


 見ると、その田んぼ道を少し行った所には、塀で囲まれた一際大きな屋敷があるのがわかる。


「よし。ご苦労だったな。お前の役目はこれで終わりだ」


「え!? じゃ、じゃあ、これで無罪釈放で?」


 馬上から労いの言葉をかける蔵人に、男はパッと表情を明るくすると、うれしそうに弾んだ声で訊き返す。


「おう。放免どころか褒美をとらせてやるぜ」


「ええっ! ほ、ほんとでございやすか!?」


 笑みを浮かべて蔵人の告げる、〝褒美〟という魅惑の響きを持ったその二文字に、ますます顔色を明るくして喜ぶ男だったが。


「白銀。たっぷりと褒美をさしあげてやれ」


「ブヒヒヒーン!」


「えっ…?」


 バコォォォオ~ン…!


「あぁぁ~れぇぇぇぇ~…!」


 跳ね上げた白銀の後脚を存分に頂戴して、男は遥か遠い彼方へと飛ばされて行った。


「いや~今日はまた、よく飛んだなあ……んにしても白銀、お前はどうして、そう見境いねえんだ。俺がいつも言ってるだろう? 知らねえやつを見かけても、やたらめったら噛みついちゃいけねえって。腹壊したらどうすんだ? 本来、おまえら馬は草食なんだからな」


 黄昏時の空でお星さまになった男を見送り、蔵人は再び白銀を出発させると眉根を下げて相方を嗜める。


「ブヒヒヒン…」


 すると、主人の小言に対して白銀は、「わかってるって」というような調子の声で嘶く。


「ま、今回は来家が寄こした見張りだったし、うっかり来家の屋敷の場所聞くの忘れてたから助かったけどな。でも、今度から気ぃ付けろよ?」


「ブルルルル…」


 さらに続ける蔵人に、今度は「へいへい」と面倒臭そうな感じで白銀は鼻を鳴らした。


 そんないつもの会話を交わしている間にも、一人と一頭は来家の居館――もとは慈耀の住む寺であった遮威安寺の目と鼻の先にまで辿り着く。


 近付くと、高い土塀ばかりか周囲には深い堀を巡らせ、出入口は大きな門の上に見張り台を設えた櫓門にまでなっている。


 遮威安寺とはいうものの、どこからどう見ても最早、お寺ではない。もとは慈耀が自分の屋敷を寺に改修したものであったが、それをさらに来家が武家の屋敷風に作り変えたのである。


「おし。これ以上近くと先に気づかれちまうからな。こんなとこでいいだろう……ほんじゃま、まずは一応、武家の礼儀に則って名乗りを上げるといたしますか……」


 白銀を止めた蔵人はそう独り言を口にすると、箙から鏑矢かぶらやを一本引き抜き、それを愛弓「魔之二九」に番えた。


 鏑矢というのは、「かぶら」という中が空洞になったかぶ形の部品を鏃の下に取り付けた矢で、射るとその鏑に開けられた複数の穴に風が入り、音が鳴るような仕掛けになっている。


 当時、合戦を始める前には必ずこの矢を放ち、戦闘の開始を伝えることが武家の一般常識であった。ちなみにこれを「矢合わせ」と言う。

 

 ドンッ…!


 蔵人は馬上でも衝撃を足腰でうまく逃がし、地に足をつけている時と変わることなく超重量級の強弓を引き放つ。


 ブゥゥゥゥゥーン…。


「フゥ…今日もいい音出してるぜ」


 日暮れの近い静かな田園風景の中、魔之二九から放たれた鏑矢は、不気味な音を響かせながら弧を描いて来家の屋敷へと飛んでいった――。




 ――ブゥゥゥゥゥーン…。


「ん、なんの音じゃ?」


 突然の怪音に、鎧に烏帽子姿の来家は顔をしかめ、頭上の空を怪訝な様子で見上げる。


「なんだ?」


「虫……か?」


 同じく他の者達も、怪訝な表情を浮かべながら天を仰ぐ。


 その頃、遮威安寺の中庭には、蔵人追討のために再編成された来家の兵達が集まっていた。


 先刻、蔵人に深手を負わされ、今度の戦いに参加できぬ郎党達の不足分を補うため、例の慈耀を裏切った土鋳物師・具覧も、自分の所の若い衆を引き連れてやって来ている。


 戦慣れした武士や郎党ではないが、陸運業に携わる者だけあってガタイもよく、気性も荒い連中だ。


 それに加え、今回の追討軍には阿布配下の脇按使・鵜入孫二郎の姿もある。


 なぜか鎧も腹巻も纏わず、左肩だけに鎧の「袖」という肩を守る楯と、同じく左腕のみに籠手を着けるという奇妙な格好の鵜入は、独り、集団から少し離れた場所に座って自分の弓を整備していた。


 どうやら阿布や他の脇按使達はまだ到着していないようであるが、彼一人でもここにいる者達を束にしても敵わぬような、かなりの戦力であるに違いない。


「これは鏑矢の……」


 そんな中。来家の問いに答えるかのように栗栖がぽつりと呟く。


 突然の音ではあっても、それは武門の者ならば幾度となく戦場で聞いた覚えのある、誰にでもすぐにそれとわかる音なのだ。

 

 ……ダンっ!


「ひいぃっ!」


 思い至るが早いか、上空から飛来した鏑矢が屋敷の縁側に突き刺さり、近くに控えていた郎党は驚きの悲鳴を上げて尻餅を搗いた。


「矢合わせか!? じゃがいったい誰が?」


 だが、そうと知れると来家をはじめ、そこにいる者達は皆、お互いに不思議そうな表情を浮べ合う。


 このような場所で、そのような音を聞く心当たりが全くなかったからだ。しかし……


「ま、まさか……」


 わずかの後、彼らの脳裏をある予感が横切る。


 そして、そのあまり当ってほしくはない悪い予感は、次に聞こえてきた大音声だいおんじょうによって現実のものとなった――。




「――遠からん者は音にも聞け~! 近くば寄って目にも見よ~! やーやー我こそはもと武蔵国の住人、今は諸国を巡る流浪の旅人! さきの合戦にては平家方にその隠れなし! 世に〝早射り〟と呼ばれし一人當千いちにんとうぜんつわもの平東木蔵人介張威たいらのあずまぎくらんどのすけはりたけなるぞ~っ! 我と思わん者は~! 寄り合えや寄り合え~っ!」


 鏑矢を射た後、蔵人は白銀を館のより近くまで進めると、四方に響き渡るほどの堂々たる大声で名乗りを上げた。


 その声に櫓門の見張り台の上にいた三名の郎党達が、一斉に蔵人の方を振り返る。


 すると彼らの目に映ったのは、屋敷の門から真っ直ぐ続く道を半町(約55メートル)ほど行った所に威風堂々として佇む、一人の、馬に乗った山賊のような男の姿であった。


「あ、あれは……」


 見張りの郎党達はその姿に、目を真ん丸く見開いて驚きの声を上げる。


「あれが、あの早射りの……」


 それは、突然現れた曲者に対する驚きによるものだけではなく、世に名高い〝早射りの蔵人〟をその目で直に見たことへの感嘆の声でもあった。


 今朝の戦闘では留守番組だった彼らには、これが蔵人を見る初めての機会なのだ。


 いや、来家とともにケイルの家を襲った者達とて、よく見えるほどの近い距離で彼を見るのは初めてのはずだ。


「あれが、壇ノ浦で明後日の方向に潮で流されて漂流したっていう早射りの蔵人か!?」


「ああ、鵯越ひよどりごえの戦の前日、仲間と断崖を下から登り切るっていう賭けをして派手に転落したっていう……」


「おお! かの倶梨伽羅峠くりからとうげでは、木曽勢の放った牛の群れを捕まえては軒並み喰っちまったっていうあの早射り!?」


 郎党達は口々に、噂によく聞く有名な〝早射りの蔵人武勇伝レジェンド〟を思わず呟く。


「うるせえっ! 倶梨伽羅峠の話は真っ赤なデタラメだっ! …っていうか、なんでてめーら、そんなくだらねえ話ばっか知ってやがる! ったく、どいつもこいつもムカつく野郎どもだぜ……命までは取らねえつもりだったが、こうなりゃ容赦しねえ。覚悟しとけよ!」


 別に意図的ではないのだが、その忘却の彼方へ捨て去ってしまいたい自分の恥ずかしい過去の伝説を次々と挙げてくれる郎党達に、蔵人はいやがおうにも頭に血を上らせる。


「いくぞ白銀っ! 久々に本式の戦だ。思う存分、暴れ回ってやるぜっ!」


 そう叫ぶや蔵人は、両脚で胴を強く挟み、戦闘開始の合図を白銀に送った。


「ブヒヒヒヒィィィーンっ!」


 と同時に、彼の愛馬はいつも以上に高々と前脚を蹴り上げ、大きな嘶きとともに全速力で館目がけて走り出す。


「く、来るぞっ! 早く門を閉じよ」


 それを見た見張りの一人は声を荒げ、下にいる者に急いで門を閉めさせようとする。


「放てっ! やつを近付けさせるな!」


 また、他の見張り二名はそう叫ぶや、走り来る蔵人目がけて櫓門の上から矢を射かける。


 ……ヒュン! ……ヒュン…!


 だが、白銀は速い。疾風の如く駆ける白銀は止まることなく矢の下を掻い潜り、一気に門へと走り寄る。


「早う! 早う門を閉じよ!」


 一方、その間に門はあと一歩のところでその口を固く閉ざし、閂(かんぬき)までもかけ終ろうとしていたのだったが……。


「フン。そんなもんでこの俺様が止められるかよ!」


 ドンッ…!


 蔵人は掻楯を破壊するのにも使ったあの〝てつはう鏃〟の矢を弓に番えると、駆ける白銀の馬上から門のど真ん中目がけて素早く、だが、いつもと変わらぬ最大限の張力で引き放つ。


 ドゴォォォォーン…!


 〝てつはう〟の矢は見事命中・爆発し、門扉ごと裏側にかけられた閂を粉砕する。


 直後、さらに両前脚を振り上げたまま白銀がそこへ突っ込み、門を左右に蹴り飛ばしながら屋敷内へと突入した。


「ぐわああっ!」


 その衝撃で門の裏にいた郎党二名ほどが吹き飛ばされ、地面の上を無残にごろごろと転がる。


 他方、突如として現れた荒れ馬とそれに跨る悪鬼羅刹が如き男の姿を目にして、屋敷の前庭にいた十数名の郎党達は全員、石のように固まってしまう。

 

「せいっ!」


 だが、それでもまだ蔵人は動きを止めない。


 手綱を引き、白銀を90°急速左回転して横滑りさせると、背負った箙から三本の矢を引き抜き、櫓門の上にいる三名の郎党目がけて背後から三本同時に矢を射たのだった。


 ドンッ…! ……ブスッ! …ブスッ! …ブスッ…!


「ぐおぁっ!」


 飛びながら矢は空中で若干角度を変えると三方向に別れ、うまい具合に郎党三名それぞれの体に命中する。


 ズザザザザザザザァー…。


「フン。ちょっとお邪魔するぜえ」


 砂煙を巻き上げながら滑走して止まる白銀の上で、蔵人はいつものおどけた調子で彼らに挨拶をする。


 だが、その挨拶の言葉を聞くこともなく、矢に貫かれた見張りの三人はもんどり打って門の上から地面に落下した。


「……は、早射りだっ! 早射りが攻めてきたぞっ!」


「か、かかれえっ!」


 わずか後、我に帰った郎党達はようやく現状を把握して蔵人に攻めかかる。


 彼らの得物は長刀なぎなただ。広い場所で距離をとっての騎射戦ならばともかく、こうして近距離からの周りを囲んでの集団戦ならば、斬撃兵器の方にも充分に分はある。


「敵は一騎ぞ! 皆で周りを囲んで斬りかかれっ!」


 しかし。


「てめえらの脚じゃ、この白銀には追いつけねえぜっ!」


 蔵人は再び白銀を走らせると庭内を縦横無尽に駆け巡り、囲い込もうとする郎党達をおもしろいように翻弄する。


 白銀はとにかく速い。


 当時の日本の馬はサラブレットではなく脚の短い農耕馬であるが、そんなことは微塵も感じさせぬほどの、大男が一人、背に乗っているとはとても思えないくらいの速さである。


「ブヒヒヒヒン!」


 それに気のせいか? いつもは煤けた灰色をしている白銀の体毛が、今はなぜだか銀色に輝いているようにさえ見える……それはその軍馬としての高い能力を知ってから見るための、ただの錯覚なのだろうか?


 ビシュっ…!


「ぎゃあっ!」


 ビシュっ…!


「うごぁ…」


 ビシュっ…!


「ぐうっ…」


 蔵人は敵を翻弄すると同時に、走り回る馬の背から、それと微塵も感じさせぬほどの軽やかさで矢を高速連続発射する。


 ちなみにその矢は先刻、あの道案内役をさせた来家の郎党を白銀がぶちのめした際、ついでに彼から頂戴しておいたものだ。


「すまねえな。ちょいと矢が足りねえんで、ここは質を下げて魔具南無鏃じゃねえ普通の征矢そや(※軍用の矢)を使わせてもらうぜ?」


 無論、普通の征矢でもなんら問題なく、蔵人は次々と追いかけて来る郎党達を射抜いてゆく……。


 まさに百発百中。


 ふと気付けば、そこにいた郎党は全員、その身のどこかに矢を突き刺して地面に這いつくばっていた。


「ヘン。速攻で前庭を制圧ってとこだな――」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る