第十四巻 襲撃

 ――ピチチチチチ…。


 春の清々しい朝焼けの空を、小鳥の囀りが渡ってゆく。


「ンモ~」


 小鳥達が見下ろす牛舎の中からは、牛の低い嘶きが冷たい空気を震わせながら響いてくる。


「さあ、アカクロ茶色チャイロ者爺ジャジイ保留守田院ホルスタイン。みんな牧に出て体を動かすだぞ」


 そんな動物達の声に耳を傾けながら、ケイルは細長い棒の先に革紐を結わえ付けた鞭を持って、牛舎の牛達を広い牧の草原に連れ出そうとしていた。


 いつもと変わらぬ、この牧の朝の風景である。


「ふぁ…まあ、すっかり寝坊をしてしまって。おはようケイル。精が出るわねえ」


 ちょうどそこへ、まだ眠たそうな顔をした摩利庵が母屋の方からやって来る。


「ああ、摩利庵さま。おはようございますだ。まだ寝ていらしてもよかっただに。こいつらを連れてったら朝飯にしますで、も少し待っててくだせえ」


「ええ。わたくし達のことはどうぞ気にしないで。悪いわねえ迷惑かけて。後でわたくしも朝餉あさげの支度手伝うわね」


 朝からハキハキとした爽やかな声で答えるケイルに、居候の身である摩利庵は肩身が狭そうに眉を寄せて言う。


「とんでもねえ! ぜんぜん構わねえですだ。慈耀さま達には今まで随分とお世話になってるだで、その恩返しですだよ。それに……居候なら、もっと迷惑なのが今日まで・・・・いるようだでね」


「あ、そういえば蔵人さまはまだ寝ていらっしゃるの?」


「ああ。あのバカなら、なんでも旅立つ前に自分の矢を調達しとくとかなんとか言って、白銀連れて朝から裏山に篠竹を採りに行ってるですだよ。昼には出て行くんだそうで」


 いつものように悪態を吐いて答えるケイルだが、今日はなぜだか少し怒っている。


「やつぱり行ってしまわれるのね……あなたも淋しくなるわねえ……」


 一方、摩利庵はとても残念そうにそう呟くのだったが、ケイルは過剰に反応して声を荒げる。


「な、何を言ってるですだか! だ、誰が淋しくなんか! あ~これでやつと邪魔者がいなくなってせいせいするだ。さっ、今日もがんばって仕事に精を出すだよっ!」


 そして、わざとらしく元気な振りをして見せると、その場から逃げるように牛達を連れて草原の方へ行ってしまう。


「フゥ……素直じゃないわねえ。まったくカワイイ娘(こ)なんだから」


 無理して平気な振りを装うケイルを見送りながら、まるで娘を愛でる母親のように摩利庵は優しげな笑みを浮かべた。


「ふぁ~あ…いや~他人の家なのに、すっかり寝過してしまったよ」


 摩利庵の背後で渋い引き戸がガタガタと音を立てて開き、大あくびを上げながら続いて慈耀も出て来る。


「ええ。わたくしもです。昨日はいろいろあって疲れていたのでしょう」


 摩利庵はそちらを振り向くと、眠気眼を擦る夫にそう言って微笑みかける。


「ああ、確かに昨日はいろいろあったのう……ケイルはもう仕事に行ったのか?」


「はい。つい今し方」


「そうか。ほんにあの子は働き者のよい娘だのう」


 慈耀は目を細め、緑の眩しい草原の方を眺めながら呟いた。


「ええ、まことに……たった一人の身内であった螺競も亡くして心配しておりましたが、よく立派に育ってくれたものです」


 摩利庵も同じく、何かを懐かしむような眼差しでケイルのいる方向を見つめながら語る。


「そうだのう。あの子は小さい頃から知っておるゆえ、我らにとっても娘のようなものだ。その内、誰かよい婿も探してやらねばいかんの……そうじゃ、蔵人殿のような男前の婿がよいな」


「はい。わたくしもそう思います。いっそ蔵人さまが婿になってくだされば良いのに」


「そうだのう……」


「ははうえ~!」


 そんな言葉を交わし、どこか淋しいような残念なような表情を浮かべる二人のもとへ、その幼い声とともに今度は浄意が駆け寄って来る。


 この子もちょうど今、目を覚まして起きて来たところらしい。


「ははうえ~。山賊のおいたんはどこお? 昨日、おいらに弓を教えてくれるって約束したんだあ!」


 母の前まで辿り着くと、浄意は開口一番、蔵人の居場所を摩利庵に訊いてくる。幼い男の子のことでもあり、昨夜聞いた蔵人の弓の話にものすごく興味を抱いてしまったらしい。


「蔵人殿はやはり……」


 目を輝かせる幼子の姿を見つめながら、慈耀はぽつりと呟く。


「ええ。今日の昼には立たれるそうです……」


 摩利庵も息子の質問には答えず、代りに目を伏せて物憂げにその旨を夫に伝える。


「ねええ、山賊のおいたんはどこお?」


 答えてくれぬ母に浄意はすねるようにして着物の裾を引っ張ると、もう一度、小雀のように口を尖らせて尋ねた。


「おお。そういえば蔵人殿の姿が見えぬな。まだ寝ておられるのかな? 昼に出立なされるとなれば、その前にもう一度ゆっくり話がしたいものじゃが……」


「ああ、蔵人さまでしたら今は…」


 息子の言葉に思い出したのか、彼の姿を広々とした牧の景色に探し、辺りをきょろきょろと見回す慈耀に摩利庵が答えようとしたその時。


「ほおう。今はどちらにおいでか、わしにもぜひ聞かせてほしいものじゃな」


 何者かの声が、突然、二人の会話に横槍を入れた。


「…!?」


 ざらざらとした不快感を与えるその声色……どこか聞き覚えのある、しかも、あまり好ましくない予感を与えるその声に、二人は身体を硬直させるとゆっくり背後を振り返る。


「ククク…久しぶりじゃなあ、簾戸」


 そこには、下品な笑みを浮かべた来家留奉が、十数人の郎党を従えて立っていた。


 来家は橙色の鎧直垂よろいひたたれの上に赤糸威あかいとおどしという鮮やかな朱色の鎧を着込み、頭には鍬形付の兜、左手に籠手と両足に脛当てまでをも嵌めた仰々しい格好である。


 その完全武装の鎧姿はやけに重そうであるが、ちなみに解説しておくと、この当時、「鎧」と言った場合は上級武士が用いる騎馬用の甲冑「大鎧おおよろい」のことだけを指すので注意しておこう。

 

 一方、郎党達もいつも通り〝鎧〟には含まれない歩兵用の「腹巻」や「腹当」を着用した上に、今日は地面に設置する大きな木製の楯「掻楯かきたて」まで担いで来ている。おそらくは蔵人の弓を警戒しての準備であろう。


「来家……どうしてここが?」


 歓迎できかねるその来客に、慈耀と摩利庵の顔からはみるみる血の気が失せてゆく。


「なあに、これでもわしは輪囲尾民俱荘の地頭なんでな。おまえがここの牧人の娘と懇意にしておることは耳に入っておる。貴様の隠れそうな場所などすぐにお見通しじゃわい。昨日はよくもやつてくれたのう。今日はその礼をしに、わざわざこんなむさ苦しい所まで来てやったんじゃよ」


「………………」


 身構える二人。


 摩利庵は怯える幼子の浄意を自分のもとへと引き寄せる。


「ニヒヒヒヒヒ…」


 その様子を鬼畜にも愉しげに眺め、薄気味悪い笑顔で凄む来家だったが、話の途中で彼は不意に口調を変える。


「……と、言いたいところじゃが、貴様を捕えるのはもののついでじゃ。それよりも今日の本命は早射り・・・の方じゃ。やつはどこじゃ? 東木蔵人介は今どこにおる!?」


 そう尋ねて辺りを見回す来家に、慈耀は何を言いたいのかわからぬといった表情を見せる。


「あづまぎくらんどのすけ? ……もしかして、蔵人殿のことか? 確か、もっと違う名だったように思うが……だが、なぜ蔵人殿に用がある? お前が用のあるのはこの私であろう?」


「フン。恍けても無駄じゃ。そやつが鎌倉から手配されておることも、平家の落人であることも先刻承知の上じゃ」


 来家は鼻で笑うと、怪訝な顔で問う慈耀を疑るように言い返した。


「蔵人殿がお尋ね者の平家の落人!? ……まさか、そんな……」


 慈耀は目を見開き、まるで狐にでも抓まれたかのような調子で呟く。そのとなりでは、摩利庵も無言で我が子を抱えたまま、驚きの表情を見せている。


「そうか。もしやと思ったが、貴様ら本当に知らないでやつとつるんでおったか……まあ、知っていようが知るまいが、この際そんなことはどちらでもよい。貴様が謀反人と通じていたということだけが確かな事実じゃ。これで貴様が謀反人の一味であることは誰の目にも明らか。いくら本家に訴えようが、京都守護に申し出ようが、貴様を処罰するのに文句を言う者などもうどこにもおらぬわ。ダァっハハハハハハハ…!」


 勝ち誇ったようにバカ笑いする来家を、慈耀はいまだ唖然とした様子でただただ黙って見つめている。


「あとは早射りさえ捕えれば、鎌倉様より恩賞もたんまりと頂戴して、わしの将来も万々歳じゃ! ……さあ、申せ! 早射りはどこじゃ? どこにおる!?」


「………………」


 来家はイヤらしい笑みを終始浮かべたまま尋問するが、慈耀はそれっきり、その口を貝のように堅く閉ざして何もしゃべろうとはしない。


「ほう……そうか。言いたくないと申すんじゃな。ならば大切な奥方とかわいい息子に訊いてみるまで。おい。やれ!」


「へい!」


 ジャキン…!


 来家が命じると、長刀を持った郎党数人が摩利庵と浄意にその鋭い刃を突きつける。


「きゃあっ…!」


「うわぁぁぁーん!」


「ま、待てっ! 待ってくれ!」


 妻と幼い息子の悲鳴を耳にし、慈耀は悲痛の面持ちで、やむなく頑なに閉ざそうとしていたその口を開いた。


「じつは我らも知らぬのだ。今、蔵人殿がどこにいるのか……」


 しかし、蔵人の居場所はあくまでも言おうとしない。というより、ケイルから蔵人の居場所を聞いているのは摩利庵だけで、慈耀自身、まだそのことを妻から聞かされていなかったのだ。


 運がいいと言おうか悪いと言おうか、まさにそれを聞こうとしたところへ来家の邪魔が入ったのである。


「嘘を申せ! 隠し立てすると妻子がどうなるかわからぬぞ!」


「ま、待ってくれ! 本当だ! 本当に知らぬのだ。我らは今起きてきたばかりで、今日は蔵人殿を一度も見ておらぬのだ」


「あくまでシラを切るつもりか? では、まずは小僧からじゃ。おい!」


 手を前に突き出して必死に訴える慈耀だが、無論、その言を来家は信じてくれない。


 彼が一人の郎党に顎で命じると、その郎党は持っていた長刀の刃を浄意の頭上に高々と振り上げる。


「うう……」


 頭上で不気味に光る銀色の凶刃に、幼い浄意は怖しそうに強く目を瞑る。


「わかりました! 知っていることを申します! ですから、どうかご勘弁を!」


 その刃が今にも振り下ろされようとした刹那、摩利庵が浄意の前に飛び出して叫んだ。


「フフフ…最初から素直に申せばよいのだ。で、早射りは今どこにおるのじゃ?」


「摩利庵!」


 口を開こうとする摩利庵の名を、蔵人の身を案じる慈耀が叫ぶ。


「知っていることを申します。でも、主人の申していることも本当です。本当にわたくしどもは蔵人さまの行き先を知らないのです」


 だが、それは来家の望む答えとも、また慈耀の心配していたようなものとも少し違っていた。


「なにっ! まだシラを切るか!?」


「いいえ。そうではありません! 本当に存じていないのです。この家の娘も朝早くから仕事へ出ていてわかりません。ただ、わたくしどもが知っていることを申せば、蔵人さまは昨夜、今日にでも旅立つようなことを言っておられました。ですから、もしかしたらもう出立してしまわれたのかも知れません」


 問い質す来家に摩利庵は微塵もその目を逸らさず、堂々とした態度でそう言い切った。


「フン! もう出立したじゃと!? そんな嘘でわしが騙せるとでも……」


 摩利庵の返答に吐き捨てるかの如く怒鳴る来家だったが、次第にその可能性があることにも考えが及んでくると、みるみる顔の色が変わってゆく。


「殿っ!」


 ちょうどそんなところへ、来家達とは別行動をとり、母屋や牛舎の方を調べに行っていた栗栖と数人の郎党達がやつて来た。


「どうじゃった!? 早射りはおったか!?」


「いえ。まるで姿が見えませぬ。母屋も牛舎の方ももぬけの殻です。早射りばかりか、この家の娘もおりませぬ。また、やつの馬の姿もどこにも見当たらず……」


 なぜか慌てた様子で尋ねる来家に、栗栖は早口にそう報告する。


「くっ……」


 それを聞き、来家は摩利庵の真剣な顔を見直すと、あからさまに「しまった!」というような表情を浮かべた。


「探せっ! まだこの付近にいるやもしれぬ! どこぞに隠れていることもありうるゆえ、徹底的に探すのじゃ! ええい! 何をしておる! 急げ! 早う行け!」


 来家はせわしなく首を左右に振りながら、周囲にいる郎党達にやたらめったら怒鳴り散らす。


「ハ…ハハッ!」


 顔を真っ赤にして唾を飛ばす主君の来家に、郎党達もまるで蜘蛛の子を散らすが如く四方八方へと駆け出して行く。


「そうじゃ! この家の娘も探せ! 何か知っておるやもしれぬ!」


 走り回る配下の者達に、来家は右往左往しながらさらに命令を付け加える。


「………………」


 その様子を慈耀はポカンとした顔で突っ立ったまま眺めている……ただ一人、いまだ真剣な表情を保っている摩利庵だけは、心の中で「しめた!」と思っていた。


 どうやら、彼女の機転を利かせた策が功を奏したようである。


「おのれ、早射りめえ……追捕を恐れて一足先に姿をくらましたか! じゃが、まだやつがここに戻ってこないとも限らん! おい、簾戸! きさまらはその時のための人質じゃ! こんな一生に一度あるかないかの最大の好機。わしはまだ諦めんぞ!」


 とはいえ、これで慈耀達の危機が完全に過ぎ去ったわけではない。苦々しい表情で来家はそう告げると、慈耀、摩利庵、さらには幼い浄意までをも郎党らに命じて縄で縛り上げた。


 その言動からは、飢えた餓鬼を思わす執拗なまでの強欲さが滲み出ている。


「うわ~ん! ははうえ~!」


「大丈夫よ、浄意。きっとなんとかなるわ」


 縄できつく後ろ手に縛られ、声を張り上げて泣き叫ぶ浄意に、摩利庵は諭すように優しく微笑みかける。


「そうだ。いざとなったら私が命に代えてでもお前達を……それから、あの方やケイルのことも助ける。だから、もう少しの辛抱だ」


 同じく縛り上げられた慈耀も妻と子の顔を交互に見つめると、並々ならぬ決意を込めた瞳で二人にそう告げる。


 そして、ケイルの家の近辺を慌ただしく走り回る郎党達の姿を眺めながら、慈耀は心の中で呟いていた。


「蔵人殿、ケイル、どうか無事で……」と――。



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