第十三巻 別れの夜

「――ハハハハハハっ! いや~危うく死ぬところだった」


「ホホホホホ。ほんに。助かってようございましたねえ」


 その夜、牧にあるケイルの家では、炉端を囲んで彼女と蔵人、それに慈耀の家族達三人が楽しそうに夕餉ゆうげの時を過ごしていた。


「もう! 慈耀さまも摩利庵さまも、笑い事じゃねえですだよ! もうちょっとで来家に殺されるとこだったですからね」


 まったく緊張感のない簾度夫婦に、ケイルはタコのように口を尖らせる。


 蔵人と白銀の活躍により、来家の襲撃からからくも逃れた慈耀であるが、ちょうど妻と子が遊びに来ていたこともあり、住まいにしていた酒場を引き払うとケイルの家へ転がり込んでいたのだった。


 無論、再び来家達に襲われぬよう、身を隠すためである。


「しかし、驚きましたな。蔵人殿があれほどの弓の腕をお持ちとは。鬼神の如き働きとはまさにあのこと。こうして今、私が楽しく夕食をいただいていられるのも、一重に蔵人殿のお陰にございまする」


「なあに気にすんな。あんなの俺の実力の十分の一…いや、百分の一にも満たねえぜ。カッカッカッカッカッカッ…!」


 合掌しながら褒め称える沙弥の慈耀に、蔵人は踏ん反り返って偉そうに調子づく。


「その話、ほんとのことですだかあ? どうにもおらには、こいつがそんなすげえもんには見えねえんですだが……」


 そんな蔵人を、ケイルはものすごく疑わしそうな目を以ってじろじろと観察する。


「フン! 相変わらず無礼な小娘だな。おまえのような小娘のチマチマとした目には、俺様のスゴさというものがまるでわからんのだ」


「そうだぞ、ケイル。私がこの目で見たのだから本当も本当じゃ。それはもう、目にも留まらぬ早業で射かける弓矢命中ストライクじゃ。ビュ、ビュ、ビュ…とこんな具合にの」


 憤慨する蔵人に味方し、慈耀も大仰な動作で弓を射る真似をしながら、その時の様子をケイルに語って聞かせる。


「であろう? どうだ、我が実力思い知ったか? ガハハハハハ…!」


「ええ。思い知りました。ハハハハハハ…!」


 そして、二人は互いを見つめ、揃ってバカ笑いをする。


 いつになく蔵人優勢なこの状況に、ケイルはなんだかとても不満そうな顔をして、妙に意気投合する変な大人二人を妬ましげに見つめた。


「おい、そこな小娘。苦しゅうない。もう一杯、酒をたもれ」


 悪乗りする蔵人は、高貴な公達きんだちを真似た口調でケイルに杯を差し出す。


「はいはい……」


 なんか非常にムカつくが、もう一々付き合ってもいられないので面倒臭そうに返事をすると、彼女は甕に入っている酒を柄杓で掬って彼の杯に注いだ。


 その酒は、素行の悪い来家の郎党らに取られないよう、慈耀が酒場の床下に隠していた秘蔵の濁酒どぶろくである。


「……だども、慈耀さまがおっしゃるんだから、慈耀さまや名主の皆さまを助けてくれたっていうのは、どうやらほんとのことのようだな。そのことについてはおらからも礼を言うだ」


 絶賛される蔵人に終始不服そうなケイルではあるが、尊敬する慈耀の言葉にようやくその信じ難き事実を受け入れる気になると、不意に改まって蔵人に頭を下げた。


「な、なんだよ急に……」


 そのいつにないケイルらしからぬ態度に、蔵人の方もなんだか調子を狂わされる。


「私からも改めてお礼申し上げまする」


「わたくしからも」


 続いて慈耀と摩利庵も急に神妙な顔つきになると、同じく蔵人に向かって深々と頭を下げる。


「……な、なに、別に助けようとしてやったわけじゃねえよ。久々にちょっと暴れたかっただけだ。おかげでいい憂さ晴らしができたってもんだぜ。ヒャハハハハハ…」


 こうした状況にはあまり慣れていないのか、蔵人は照れ隠しにそんな悪ぶった台詞を口にすると、皆と目を合わせぬよう、そっぽを向いて無理に笑ってみせた。


 しかし、その空笑いも虚しく、先程までのバカ騒ぎが一転、その場は妙にしんみりとした空気に包まれてしまう。


「………………」


 しばしの沈黙。


「ねえ、ねえ、山賊のおいたん」


 その、どこか気拙い雰囲気を破ったのは、それまで土間の方で遊んでいた浄意の声であった。


「……んん? なんだ? 小坊主?」


 蔵人は気恥ずかしさから逃れるようにして、傍へ寄って来た浄意に向かってぶっきらぼうに尋ねる。


「おいたん、今度、おいらにも弓を教えておくれよ」


 浄意は蔵人の袖にしがみ付き、つぶらな黒い瞳で人相の悪い顔を見上げて言う。


「おお、弓か。いいぞ、教えてやる。小坊主がもう少し大きくなったらな」


 そんな浄意のオカッパ頭をポンポン叩くと、蔵人はそう言って適当に誤魔化した。


「浄意坊っちゃん、そんな物騒なもん、危ねえからやめといた方がいいぞ?」


 対してケイルはまたも口を尖らすと、幼い浄意の男の子的憧れを姉の如く注意する。


「も少し大きくなったらっていつ? 明日?」


 だが、彼女の小言など耳には入らぬ様子で、浄意は目をキラキラさせて蔵人に訊き返す。


「ハハハ! うーん、そうだなあ。もう少し先だなあ」


 無邪気な浄意の問いかけに、蔵人は屈託のない笑みを浮かべながらも、やはり適当な返事をしてはぐらかそうとする。


「そういえば、蔵人殿。ここにはいつまでおられるご予定で?」


すると、その様子を見ていた慈耀が、ふと思い出したかのように蔵人に尋ねた。


「ん? ああ、そうだな……特に決めちゃあいなかったが、別に長居する気もねえしな。うーん…ま、明日か明後日頃には出立するってもんか……」


「えっ! 出て行っちまうだか?」


 天井を見上げ、少し考えながら気楽に答える蔵人に、ケイルは思わずそんな言葉を口走っていた。


 ケイル自身、なぜ自分がそのようなことを言ってしまったのかよくわからない……こんなやつ、別にどうでもいいと思っているはずなのに……。


 ただ、蔵人の口から今の言葉を聞くその瞬間まで、こうして皆で楽しく家族のように過ごしているこの状況が、いつまでも永遠に続くものであるかのように彼女は錯覚していたのである。


 ……そう。いつの間にかケイルは、この昨日会ったばかりの見ず知らずの男を、ずっと以前からの親しい友人か何かのように感じていたのだ。


 いや、それは友人よりももっと親し気な……。


「ん? なんか言ったか?」


「な、なんでもねえだよ! ……ああ、それがいいだ。邪魔だで、おめえなんかとっとと出て行くがいいだよ!」


 聞き返す蔵人に、理解不能なその感情を無理矢理振り払うかのようにして、ケイルはわざと悪態を突く。


「ああ。こっちもこれ以上こき使われちゃあ、たまったもんじゃねからな。これで一宿一飯の礼も返したことだし、早々にお暇させてもらうとするぜ」


 そんな心の内など露知らず、売り言葉に買い言葉、朴念仁な蔵人もいつもの調子でケイルに悪態を返す。


「これ、ケイル。お客さまにその様な口を利いてはいかんぞ? 蔵人殿、そんなに急がずとも、もう少しゆっくりなされていけばよろしいのに」


 一方、こちらも複雑な乙女心なぞ解さぬ慈耀は、彼女を嗜めると残念そうに蔵人を引き留めようとする。


「いや、いっそのこと、このままこの荘で暮らすというのはどうですかな?」


「えっ…?」


 慈耀の思わぬ発言に、ケイルは小さく声を上げた。


「そうしていただければ、来家の武力に脅かされる私どもとしても大変心強い。いつまた今朝のような事態になるとも限りませんからな」


「そうですよ! それがよろしいわ。お身体もお丈夫そうだし、牧の仕事なんか、とってもお似合いだと思うんですけれど」


 慈耀同様、だが、こちらはそこはかとなくケイルの気持ちを察して、摩利庵も蔵人を引き留めたい様子である。


「牧での暮らしか……そうだな。それもいいかも知れねえな」


 懇願する二人に、蔵人は再び天を見上げると、どこか気のあるようなことを言ってみせる。


「………………」


 ケイルもその台詞に、自分でもよくわからないのだが、なぜか淡い期待を込めて話の続きに聞き入った。


「……だが、やつぱりそいつはできねえ相談だ。俺は一所ひとところに留まってちゃいけねえ御身分なんでね。ここに長居してたら、あんたらにまで迷惑がかかっちまう」


 しかし、一瞬、皆を期待させておきながら、蔵人はその申し出をきっぱりと断ってしまう。


「迷惑だなんてそんな……いったい、どのような迷惑がかかるとおっしゃるので?」


 おどけた口調だが、どこか淋しげな表情を見せて答える蔵人に、ぬか悦びさせられた慈耀は当惑した顔で訊き返す。


「そいつはちょっと仔細あって言えねえが、とにかく迷惑がかかっちまうってことだけは確かだ。ま、その話は慎んで辞退させていただくとするぜ……さてと、酔いも回ってきたことだし、俺はそろそろ横にならせてもらおうかな」


 そう答える蔵人は、むしろ酔いが醒めたかのように確かな足取りで、スクッと大柄な身体を立ち上がらせる。


「んじゃ、また明日な」


 そして、後ろ手に手を振ると、自分と白銀が泊まっている牛舎の方へと静かに歩いて行ってしまう。


「………………」


 後に残されたケイルと慈耀達は、これまで見せたことのない蔵人の物悲しげな横顔に、もうそれ以上何も言えぬまま、その哀愁漂う大きな背中を見送るのだった――。




「――ぶぇっくしょん! ……ズズ、ああ、少し冷えてきやがったな。春とはいえ、さすがに夜は冷えるな。俺はバカじゃねえから、気を付けえねえと風邪ひいちまうぜ」


 夢みる牛達に周りを囲まれ、真夜中の牛舎で藁の布団に包まっていた蔵人は、夜気の冷たさに大きなくしゃみを上げた。


「ブヒヒヒヒヒン!」


 その傍らに寝そべり、月影に青白く輝く白銀が、主人のくしゃみに答えるかのようにして一声嘶く。


 破れた天井から覗く満月に近いお月さまのおかげで、牛舎の中はそれなりに明るい。


「白銀、ここにも少々長居しすぎた。明日は山で篠竹を調達し次第、早々に出立するぞ。早くしねえと、あいつら・・・・に追いつかれちまうからな」


「ブルルルル」


 もう一度、返事代わりに白銀が鼻を鳴らしたその時。


 バサっ…!


 突然、蔵人の顔に一枚のむしろが乱暴にかぶされた。


「プハッ……な、何すんだいきなり!」


 蔵人は筵を払い除けると、それをかぶせた人物に向かって怒鳴る。


「文句言うな。夜は冷えると思って、一応、筵持って来てやったんだからな」


 上半身を跳ね起こす蔵人を見下ろし、月影にいつもと違う雰囲気に染められたケイルがぶっきらぼうに答える。


「言っておくが、わざわざおめえのために来たんじゃねえだぞ? 白銀の様子を見に来たついでだ。白銀も今朝は来家の郎党達を蹴散らして大活躍だったらしいからな。それに、おらを助けてくれた恩人…いんや、恩馬だし、大切に世話してやらねえとな」


 そして、白銀の首元を優しく撫でると、どこか言い訳がましい解説を付け加えた。


「ヘイヘイ。どうせ俺はついででしょうよ。ついででも筵をありがとうございやした」


 そんなケイルに蔵人は再び寝っ転がりながら、やさぐれた口調で一応の礼を述べる。


「……よし。白銀。寒くはねえようだな。もしなんかあったら、遠慮なくおらに言うだぞ?」


 だが、蔵人の礼など聞いていないかのように無視し、ケイルは白銀に話しかける。


「んじゃな、おらはもう行くだ」


「おう」


 それから素っ気なく断りを入れると、早々に牛舎を後にしようとする彼女だったが、牛舎の入口をあと一歩で出ようという所で、ケイルは不意に足を止める。


「……なあ、蔵人」


「んん?」


 振り向きもせず、そう肩越しに声をかけるケイルに、蔵人も目を閉じたまま返事をする。


「おめえが本当はどんなやつなのか知んねえし、いったい何を背負ってるのかも知らねえ……けど、おめえがここにいたって、別におら達はぜんぜん迷惑だなんて思ってねえからな」


 静かな月明かりに包まれた牛舎の中で、ケイルは訥々と蔵人に告げる。


「……ああ、わかってるって、そんなこと」


 対する蔵人も、青白い夜気を吸い込みながら静かに答える。


「だから、いつまでここにいてもらっても構わねえだぞ? お…おらもさっき言ったように、べ、別に、本気で出て行けだなんてことは、お…お…思ってねえかんな!」


「……ああ、それもよくわかってる……けどな、やつぱり俺はここにいちゃあいけねえんだ。ま、ほんのちいとばかし、この荘が名残惜しくなくもないけどな。明日の昼には出て行くことにするぜ」


 気恥ずかしさを堪え、上気した顔で話すケイルにはっきりとそう告げた蔵人は、いつの間にやら目を見開き、薄闇の中、濃い影を作る牛舎の天井を見上げていた。


「…………そうか」


 その言葉を聞き、なぜだか胸が張り裂けんばかりの痛みを覚えるケイルだったが、それを隠して、ぽつりと一言だけ呟く。


「……ん? おまえ、もしかして、わざわざそのことを言いに来たのか?」


「ば、バカなこと言うでねえだ! そ、そんなわけあるわけねえだろ!」


 ケイルは慌てて振り返ると、妙にむきになって否定する。


「か、勘違いするでねえだぞ! 別におらがいてほしいわけじゃなくて、慈耀さま達のために仕方なくいさせてやろうと思っただけだからな! ええい、こんな夜中に話してるのは近所迷惑だ! お前なんかとっとと眠っちまえっ!」


 自分の方がよっぽど近所迷惑な大声を張り上げ、青白い月光に照らされながらも真っ赤な顔をしたケイルは、どすどすと大きな足音を響かせて母屋の方へ帰って行く。


 その後姿をしばし見送ると、蔵人は再び目を閉じて、クスリと鼻で笑いながら呟いた。


「フッ…らしくねえこと言うんじゃねえよ……こっちまでらしくなくなっちまわあ……」


「ブルルルル…」


 静けさを取り戻した牛舎の中で、また返事をするかのように白銀も鼻を鳴らした。





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