第八巻 反逆の名主(みょうしゅ)
「――さ、ただの白湯ですが上がってくだせえ」
囲炉裏端に腰を下ろした慈耀の前に正座し、ケイルは畏まって、白湯入りのひび割れた椀を勧めた。
「ああ、これはどうも。いただくよ」
そのけして上等とはいえない椀を受け取ると、坊主頭の慈耀はなんとも優しげな笑みをケイルに向ける。
「あんた、いくら出家の身といえど、下司のわりにゃあ随分と腰が低いんだな。それにケイルの様子を見てりゃあ、どうやら領民達からも慕われてるようだしよ」
部屋の隅で壁に背を持たせてだらしなく座り、そんな二人のやりとりを炉から立ち上る白い煙越しに眺めていた蔵人がぽつりと呟く。
「当ったりめえだ! 慈耀さまは今の地頭なんかと違って偉ぶらねえし、年貢や公事だって必要以上にはお取りなさらねえ。おら達領民はみんな、今でも慈耀さまをお慕い申しているだよ」
蔵人の何気ない一言に、ケイルはまるで自分のことのように胸を張って自慢げに語る。
「いやいや。それは買いかぶりすぎというもの。私はもう下司ではないし、偉くもないですからね。我が家の先祖とて、もとは領民達と一緒にこの地を開墾し、この荘園を拓いたただの百姓にございます。だから、そんなただの百姓に領主風を吹かせたり、領民達を苦しめるような真似はできませんよ」
ちょっと誉めすぎなケイルの言葉に、慈耀は照れ笑いを浮かべながら話を訂正する。
「なるほどな……この小娘がここまで肩入れする理由がなんとなくわかった気がするぜ」
「うんうん、そだろ、そだろ」
「だが、それほど領民達のことを思ってるんなら、その来家とかいうのが地頭になるのに抵抗しなかったのか? そいつはずいぶんとひでえ領主のようじゃねえか。そもそも没官刑は不当なものだったんだろ? だったら、この荘の本家なり播磨国の国地頭(※一国に対して一人置かれた地頭)なりに訴えるとか?」
いたく誇らしげなケイルに相槌を打つ蔵人だったが、その直後、若干目元を鋭くすると慈耀にそんな質問をぶつける。
「もちろん、いたしましたよ」
だが、その蔵人の問いに慈耀の方も真剣な顔つきになると、きっぱりとそう言い返した。
「しかし、国地頭の
「梶原景時……石橋山の戦ん時、敗走した頼朝が岩場に隠れてたのをわざと見逃したっていう、あいつか……」
前の合戦を通し、あながち知らないでもないその名前に蔵人は誰に言うとでもなく呟く。
「本家の方も同じです。年に一度、本家である下賀茂社から荘園の様子を見に派遣される
「そうだ! あの預所、来家に甘い汁吸わされて、身も心もすっかり取り込まれちまっただよ!下賀茂の神さまに仕えるもんだってのに恥を知るだ! 恥を!」
重たい表情で語る慈耀の話に、ケイルの怒りも再び燃焼する。
「そうか。国地頭も味方のはずの預所も向こうについちまったか……となりゃあ、もう、お手上げってもんだな。ま、これも運命と思って諦めるしか…」
「いや、まだ手はあります!」
だらしなく手を広げ、完全に他人事だと言わんばかりに無責任な台詞を口にする蔵人だったが、その口を慈耀の声が塞ぐ。
「ケイル。じつは今日、お前の所を訪ねたのもそのことのためなのだよ」
「その……こと?」
突然、自分の方に視線を向け、なぜか不敵な笑みを浮かべてそう告げる慈耀に、ケイルは小首を傾げると顔に疑問符を浮かべる。
「こうなっては、もう播磨国内に留まっていてもどうにもならない。だから、思い切って京に上ろうと思うのだ」
「えっ! 京の都へだだか?」
「ああ。京へ行って、本家の下賀茂社に直に訴えようと思うのだよ。来家の悪事から預所の裏切りまで洗いざらいすべてを。それから京都守護(※京の治安維持を司る長)の
「ええっ!? そ、それはほんとですだか!?」
慈耀の思わぬ発言に、ケイルは目を丸くする。
「しかも私一人の意見ではなく、輪囲尾民倶荘の
「名主」というのは当時、年貢・公事を課税する「
また、こうした農民達は下司や地頭などの在地領主にあまりにも不当な扱いを受けた場合、「逃散」といって領民全員で山奥などに逃亡し、田畑の耕作をボイコットする権利を有していた。
彼らはこの逃散を行ったとしても、ちゃんとその年の年貢と公事さえ納めていれば咎められることはなく、土地を離れることを許されない西洋の農奴などとは異なり、鎌倉時代の農民はかなりの独立性を保っていたのである。
「ほう…名主全員の訴状をね。そいつは考えたな、坊さん。領民全員に逃散されたら、本家の下賀茂社だって困る。それなら、うまいこと地頭の来家を排除できるかもしれねえぞ!」
意外な慈耀の考えに、蔵人も感心したように頷く。
「そのために明日、密かに名主の皆に集まってもらって、直訴状に全員の署名をもらおうと思っているのです。ケイル、そこでなんだが……」
慈耀はそこまで言うと、窓の外に視線を向けて話を続ける。
「ここの牧にいる者で、腕っぷしの強い者といったら誰になるかな?」
「腕っぷしの強えもん……ですだか?」
ケイルはその意図がわからず、またも小首を傾げて訊き返す。
「ああ。明日のことはもちろん来家には知られぬよう極秘裏に話を進めてはいるが、もしも来家にバレるようなことがあれば、やつらの襲撃を受けることは充分に考えられる。その時のために警護の者を用意しておきたいのだ」
「そのための……腕っ節の強えもん?」
「ああ。相撲が強いのでも、弓が得意という者でもいい。他に百姓衆や杣達からも集めている。今度の企みは一度きりの最後の賭けだ。けして失敗は許されない。万全を期してことに臨みたいのだよ」
「なるほどぉ。そんで、おらんとこに誰か適任者がいないか訊きに……」
なんだかちょっと大人ぶった様子で、ケイルは腕を組んでうんうんと頷く。
「そういうわけだ。他の者たちは仕事に出ていて留守だったんでな。それに亡くなった螺競のオヤジさんは牧人達の束ね役だった人だ。その孫娘のお前さんなら、そうした牧の内情にも詳しいと思ってな」
「う~ん…腕っ節の強えもんだか……まあ、牛や馬相手に暮らしてるから、みんな身体は丈夫だし、度胸もあるとは思うだが……そんでも、武器持った郎党とやり合うとなるとなあ……なかなかそんな戦慣れしてるようなもんは……」
眉間に皺を寄せ、唸りながらそこまで言いかけたケイルだったが。
「おおっ! いるじゃねえか!」
暇そうに頭の後で腕を組み、まったく他人事のように耳を傾けていた蔵人の顔を見つめ、ポンと大きく手を叩く。
「あん? ……なんだ?」
「蔵人、おめえが警護しに行くだ」
「な、なんだとっ!?」
完全に油断していた蔵人は、慌てて壁にもたれていた上半身を起こす。
「おい! なんで無関係な俺がんなことしなきゃならねえんだよ!?」
唾を飛ばして抗議する蔵人だが、ケイルはまるで聞く耳を持とうとはしない。彼女は牙を剥いて吠える蔵人の凶暴な顔を指さすと、慈耀の方を向いてうれしそうに述べた。
「慈耀さま! こいつを使ってやっててくだせえ。こんなならず者なんで、まっとうな武士みてえに弓が使えるかどうかはわかんねえだが、とりあえず山賊狩りなんてことやってんだし、おら達よりは戦に慣れてるだよ。ま、もし役に立たなくても無駄にガタイはいいから矢除けぐれえにはなるだ」
彼女のその提案を聞くと、慈耀も暗闇に一筋の光明を得たかのような顔つきで蔵人の方へ期待の眼差しを向ける。
「おお! あなたは山賊を退治なされているのですか? そう言われてみれば、確かに背も高く、筋骨も逞しそうだ」
「こら! 誰が矢除けだ! すでに人間扱いすらしてねえじゃねえか! それに弓が使えるかどうかだあ? ヘンっ! 誰に向かって言ってやがる。おまえのような田舎の小娘は知らねえだろうがな、俺の弓の腕は天下にその名が轟くほどの超一級なんだぜ?」
「おお! 左様ですか! ならば、なおいっそう頼もしい。ぜひぜひ我々の警護をお願い致します!」
ケイルの無礼な発言に思わず声を荒げる蔵人だったが、その言葉はますます慈耀の息を弾ませるばかりだ。
「あ、いや、そういうつもりで言ったんじゃ…」
「まあ、こんなのが天下に名を知られた人物のはずねえから、きっと話半分に聞いといた方がいいとは思うだが……んでも、そこそこには使えると思いますだ。慈耀さま、こんなのでよかったら、どうぞ好きなように使ってやってくだせえませ」
「話半分だと!? …ったく、どこまでも無礼な小娘だな。ってか、勝手に話進めるなっ! 俺はぜってえに警護なんかしねえからな! んな、昔の宮仕え思い出すようなこたあ、どんなに頼まれても御免こうむりだ!」
「んじゃ、そんかわし炊事洗濯に牧の仕事をしっかりしてもらうってことでいいだな? おめえには雑炊鍋一杯分の貸しがあるかんな。警護の仕事で雑炊の貸しはチャラにしてやろうとも思っただが……そんじゃ仕方ねえ。そっちの方を一日中みっちりとしてもらうだ」
「な、何……」
顔を真っ赤にして怒鳴る蔵人に対し、ケイルは余裕の表情である。
「それとも、武士のくせに受けた恩も返さねえっていうだか? そんなやつは武士の風上にも置けねえだ」
「うぐっ……」
「あ~あ。ただ慈耀さま達についてって、少しの間、見張ってりゃあよかっただに……一日中、へとへとになるまで過酷な重労働する方を選んだか。ま、そっちの方がおらとしては助かるからいいだがな」
さらにケイルは憐れむような眼差しを蔵人に向け、残念そうに首を振る演技までして見せる。この娘、ただの純朴な田舎娘と侮ってはいけない。牛飼いという荒くれ者の中で育ってきただけのことはあって、けっこうそういうとこ逞しかったりする。
「んん? もしかして警護の方がいいだか?」
「い、いや、それは……」
だんだんと声の
「是非!」
慈耀も真っ直ぐなキラキラとした瞳で訴えかけるように蔵人を見つめる。
「……う、ううん」
やむなく蔵人は、いいとも悪いともどっちつかずな、はっきりとしない返事を口にした。どうやらこの勝負、ケイル達の勝ちのようである。
「よし! じゃあ決まりだ。慈耀さま、明日は縄をつけてでもこいつを連れてって警護させますで安心してくだせえ!」
「おお! お受けくださいますか! ありがとうございます」
「ハア…こんな小娘、助けた俺がバカだったぜ……」
パッと顔色を明るくして喜ぶ慈耀達とは対照的に、蔵人はどんよりと表情を曇らせ、ガックリと肩を落として深い溜め息を吐く。
「蔵人だけじゃなんだし、他にも二、三人、力のありそうなもんを後で紹介しますで」
「ああ。よろしく頼むよ。これで明日の集まりも安心だ……ところで蔵人殿。今夜はどちらにお泊まりで?」
「んん?」
「あ、いえ、明日は早朝から私のやっている酒場に集まることになっているのですが、この荘にはまだ不慣れでしょうから、お泊りの場所からの道順を教えておきたいと思いまして」
「ああ、そういや、まだ今夜の宿を決めてなかったな」
慈耀に訊かれ、項垂れていた蔵人はそのことを今更ながらに思い出す。
「まあ、野宿でも別に構わんが……おお、そうだ娘! 助けた上に警護の仕事まで引き受けてやったんだ。その代わりにお前の家に一晩泊めろ。〝一宿一飯の礼〟とはよく言うが、まだ
「ええっ~?」
無論、流浪の身に泊まる当てなどまるでなく、ふとした思いつきで一晩の宿を頼む蔵人にケイルは露骨に嫌そうな顔をする。
「泊めてもいいだが……
そして、発展途上な平たい胸を腕で隠し、警戒と疑いを込めた眼差しで蔵人を見つめる。
「だ、誰がするかっ! おまえのような小娘なんかに!」
「小娘とはなんだ! おらだって、これでも立派なうら若き乙女なんだぞ!」
慌てて否定する蔵人に、ケイルは一転、今度は頬を膨らませる。年頃の女の子の気持ちというのは山の天候のように変わりやすく、とても複雑なのである。
「そうですよ、蔵人殿。まだまだ
彼女を実の娘のように思っている慈耀としても、若い男の蔵人がここへ泊まることにはやや難色を示す。
「な~に心配はいらねえよ。俺の好みはもっと色気のある雅で大人な女だからな。こんなつるぺたで色気の欠片もねえ田舎の小娘なんかに誰が手を出したりなんか…」
「なあ、くらんどぉ~」
心配する慈耀に手をひらひらと振って、その可能性を完全否定する蔵人だったが、ケイルはなぜか満面の笑みをその顔に浮かべ、不気味なほどに優しげな声でそんな彼の名を呼ぶ。
「んん…?」
その声に、なんの気なしに振り返った蔵人の顔面へ。
ドゴっ…!
次の瞬間、ケイルのグーに握った右拳が見事にめり込んでいた――。
一方、その頃、遮威安寺の来家留奉の屋敷では……。
「――フン。預所も帰り、簾戸や名主達もようやくおとなしくなったかと思ったら、今度はよくわからぬ鎌倉のお尋ね者か。脇按使だかなんだか知らんが、無用な厄介ごとを持ち込みおってからに……」
屋敷の一室へ阿布歪按頭を丁重にお通した来家は、中庭に面する廊下を居間の方へと戻りながら、誰に言うとでもなくブツブツと文句を口にしていた。
「じゃが、もし早射りの蔵人を捕えることができれば、たんまりと恩賞をもらえるやもしれぬな。なにせ、あの阿布のこだわり様……相当に深い事情があるようじゃからのう」
文句を垂れる来家ではあったが、そんな打算が頭に浮かぶと、その顔には無意識にイヤらしい笑みが浮かんできてしまう。
「この輪囲尾民倶荘にいるかどうかもわからぬ話じゃが、ま、とりあえずはあの者に協力して荘内を捜索してみるとするか。例え早射りがこの荘におらずとも、ここで阿布に手を貸しておけば、わしに対する鎌倉のお覚えもよいだろうからの」
「殿っ!」
そうして独りイヤらしく笑う狸オヤジが廊下を渡り切らんとしていた時のこと。その狸を庭の片隅から呼ぶ声がする。
「んん? ……ああ、なんだ、栗栖か」
来家が声のした方に目を向けると、それは来家の郎党達を束ねる
白い袖細の衣の上に「
「何用だ?」
「ハハっ! じつは…」
尋ねられ、返事をするや素早く主人のもとへ駆け寄ると、栗栖は声を潜めて彼に伝える。
「簾戸のことなのですが、例のこちらへ取り込んでおいた者の話によりますると、何やら性懲りもなく今度は本家である京の下賀茂社に訴え出るつもりの様子で……」
「なにっ!?」
栗栖の予期せぬその知らせに、来家は醜く顔を歪めて思わず驚きの声を上げた。
「しかも今度は名主達と共謀し、全員の署名の入った直訴状を用意するらしいとの由。そのための寄り合いを明日、簾戸の酒場で行う模様です」
「おのれ簾戸め! まだ諦めておらなんだか! 飽きもせずにまたしても……」
栗栖の話を聞くにつれ、来家はますます苦虫を噛み潰したような顔になっていく。
「じゃが、わしを欺けると思ったら大間違いじゃ。こんなこともあろうかと、わざわざあの者をこちらに引き入れておいたのじゃからな……栗栖っ!」
「ハッ!」
「郎党を率いて簾戸を捕えに参れ! あやつさえいなくなれば、残った名主どももおとなしくなるだろう。いいや。いっそのこと、どさくさに紛れて殺してしまってもかまわん! 下賀茂社への言い訳など後からなんとでも言えるわ」
「ハハッ! 畏まりましてござりまする」
栗栖は片膝を立てたまま頭を下げ、気合いの籠った声を返す。
「フン! 簾戸め、目にもの見せてくれるわ!」
そんな忠臣から視線を上げ、真っ赤に上気した顔でどこか宙を見つめると、来家は怒りと強欲のない交ぜになった悪どい笑みをその口元に浮かべた。
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