第九巻 簾戸一家

 ――コケコッコォォォーっ!


 しっとりと柔らかな白い霧に包まれた静かな朝の牧に、雄鶏の高らかな鳴き声が木霊する。


 遠くに見える山々の稜線は、昇り来る朝日の光に薄らと赤く染まり出している。


「おい! こら、起きるだよ! 蔵人!」


 牧に響くは雄鶏の声ばかりではない。続いて今度はケイルの怒鳴り声も木霊する。


「……デヘヘヘヘ…もう、よせやい……いくら俺様が立派な武士だからって、そんな褒めすぎってもんだぜえ……」


「なに寝呆けてありえねえ夢見てるだっ! もう夜明けだぞ! 慈耀さま達の集まりに遅れたらどうするだ!」


 まだまだ暗い牛舎の中で、ケイルは寝ている蔵人の胸ぐらを両手で掴み、必死にそのガタイのよい身体を揺すっている。


 その藁の布団の上で気持ちよさそうに眠っている蔵人の右眼部分には、ケイルに殴られた際にできた青痣がまだくっきりと残ったままだ。


 そう……昨日、ケイルの気分を損ねてしまった蔵人は、当然のことながら彼女の家の中には泊めてはもらえなかった。まあ、年頃の娘にあんなデリカシーのないことを言ったのだから、自業自得というものだろう。


 しかし、かっと言って、どこか他に行かせてしまってはそのまま約束をすっぽかして逃亡の恐れもあるということで、結局、蔵人は母屋のとなりに建つ牛舎の中で、彼の愛馬とともに一夜を過ごすこととなったのである。


「今日の集まりは来家に気付かれねえよう朝早え内からするって、昨日、慈耀さまが言ってたの忘れただか!?」


「……ああん? …じょうおうさま? ……いや、だから俺にはそんな趣味ねえって……ああっ! お、お許しくだされ、女王さま~……ウヘヘヘヘ……」


「ああ、もう! なにわけのわからねえこと言ってるだ!」


 なんとか目を覚まそうとするケイルだが、相当に寝起きの悪い蔵人は寝呆けたまま一向に起きようとしない。


「ブヒヒヒヒン」


 そんな蔵人の方をちらりと見て、となりで飼葉を食んでいた白銀が「いつものことだ」と言いわんばかりに嘶く。


「白銀、朝はいつもこうだだか? ったく、しょうもねえやつだな。よし! こうなったら奥の手を使うだ」


 ケイルは蔵人の襟を放すと、牛舎にいる牛の一頭を手綱を引いて連れて来た。


「よし、アカ。こいつが今日の朝飯だで、思う存分味わうだ」


「ンモ~」


 すると、その赤毛の牛は一声低く鳴き声を響かせ、まだ夢の中にいる蔵人の顔をおもむろにペロペロと舐め始める。


「……んん…ハハハ、くすぐったいぞ。やめてくれ、白銀……」


「ンモ~」


 蔵人は愛馬の仕業と勘違いして制止するが、牛は一向にやめようとしない。


「……おい、白銀……おまえは馬なんだからヒヒンだろう? なに牛の鳴き真似なんかしてんだよう……」


 よだれ塗れになった顔を蔵人はくすぐったそうに背けるが、それでも牛はやめようとしない。それどころか、今度は歯を立てて蔵人の顔に噛みついてみたりもする。


「ンモ~」


「痛てててて、だからやめろって。それに、なんで馬なのにモ~なんて鳴くんだよ……んん? モウ?」


 そこに至り、ようやく蔵人は完全に覚醒し、藁の布団の上からガバッと起き上った。


「ハハハハ…やつと起きただな。よし。赤、よくやつただ」


 開いた蔵人の眠気眼に、勝気な笑みを浮かべて見下ろすケイルの姿が映る。


「んん? おまえは…………誰だっけ?」


「だあ! ……んもう、まだ寝呆けてるだな? おらだ。ケイルだ」


 素でベタなボケをかましてくれる蔵人に、やはりケイルもベタにズッコケてみせてから、気を取り直して自分の顔を指さす。


「飯食わした上に一晩泊めてやった恩人の顔を見忘れただか? んでもって、その一宿一飯の礼に慈耀さま達の警護をするってことになったじゃねえか。ほら、もう朝だぞ。早く起きて、とっとと支度するだ」


「……んん? けいる? ……おお! 誰かと思えば、おまえは色気がない上に口の悪いつるぺた田舎小娘!」


「……フフン。赤~…」


 ケイルはこめかみに青筋を立て、ピクピクと口元をひきつらせた笑みを浮かべたかと思うと、握っていた牛の手綱をぐいと引き寄せる。


 ペシンっ!


 そして、牛の尻を手のひらで一発。


「ンモ~っ!」


 ドガっ…!


 牛の頭突きが、蔵人の顔に命中クリティカルヒットした。


「ぐがっ…………」


 今、目覚めたばかりの蔵人の視界が、早くも再び暗転した――。




「――ふぁ~あ。ったく、人起こすのに牛使うやつがあるか! しかも頭突きまでさせやがって……もし角が突き刺さってたら俺は確実に死んでたぞ! 確実に!」


 白銀の背に揺られ、明け方の田舎道をパカポコと進み行く蔵人が、まだ寝たりない様子でケイルに抗議する。


「フン! おらは牛飼いだからな。牛を扱うのが商売だ。それに頭突きされたのは、おめえが寝呆けて失礼なこと言うからいけねえだ」


 白銀のとなりをケイルも徒歩で歩きながら、ツンとした顔をそっぽに向けて答える。


「にしたって、牛をけし掛けるこたねえだろ! 起きがけに気ぃ失わされて、次に目覚めてみりゃあ、いつの間にやら白銀の上だ。ったく、牛の頭突きで起された挙句、こんな朝っぱらから働かされるとは……ふぁ~あ。もっとお日様が昇ってからにしてもらいてえぜ」


 気絶したまま白銀に乗せられ、有無を言わさず連れて来られた蔵人は、まったくやる気のない様子である。


「仕方ねえだろ。来家達にはくれぐれもバレねえようにとの用心だ。つべこべ言わずにもっとシャンとするだ!」


 そんな蔵人の尻を叩きつつ、ケイルは慈耀と名主達が密談を行う場所へと強引に彼を連れて行く。


 昨日、慈耀に約束した通り、まさに〝縄をつけてでも引っ張って行く〟といった感じである。


「つっても、こんな朝っぱらからほんとにみんな集まるんだろうな? 俺達以外にゃ人影も見えねえじゃねえか?」


 狭い田舎道から広い道へ出ても、やはり早朝の村内は静かなものである。


「フン。そりゃあ日も昇ってねえんだし、人通りのねえのも当然だ。だから来家にバレねえよう、こうして朝早くに集まることにしたんじゃねえか」


 そんな朝が弱い蔵人の疑りを、ケイルは鼻を鳴らしながら小バカにしたように一蹴する。


「ま、ここのもんはおめえと違って、怠け者じゃねえから安心するだ。誰にも会わねえのは、みんなもうとっくに行っちまってるからだろ。おら達はおめえを起こすのに手間取ってただからな」


 そんな会話を交わしつつ、二人が向かう秘密の集まりの場所というのは、荘の脇を通る街道沿いにあった。


 昨日、慈耀が言っていた通り、彼とその家族が現在住いとしている村外れの酒場である。


 もとは長年放置されたあばら家であったが、自宅を追われ、行く当てのなかった簾度一家が移り住むと、その生業に領民や街道を行く旅人相手の酒場を始めるようになったものである。


 朽ちかけた築うん十年のあばら家ではあるが、そこは客商売をしていることもあり、現在は慈耀が手を加えて、なんとか体裁を保っている。


 ただし、不具合を直すために改修に改修を重ねた結果、当時の日本家屋とは思えない、極めて前衛的で独創的な姿になってしまっているのではあるが……。


「ほら、あそこに見えるのがそうだ。やっぱりみんなもう来てるだよ」

 

 そうして二人と一頭が人気のない静かな街道をしばらく行くと、朝日が山の端を金色に染めた頃、彼らはその酒場へと到着した。


「おお、いるいる~。確かに大勢いるな。村の衆大集合って感じだ。こんな朝っぱらから、ほんと皆さんご苦労なこったぜ」


 それまでの道中はいたって静かなものだったが、その牛馬用の水飲み桶や荷車の車輪などが置かれた板張りの建物の前には、警護のために集められた杣や牧人、百姓などがすでに集まっており、名主と思しき者達がそのツギハギだらけの酒場へ入って行くのも見える。


「〝ご苦労なこった〟じゃねえだよ。なに他人事みてえに言ってるだ。おめえもちゃんと警護するだぞ!」


 毎度のことながら、蔵人の態度にケイルがプンスカと怒りつつ近付いて行くと、観音開きに改修した引き戸を押し開けて、本日の秘密の集まりの首謀者――簾戸慈耀が姿を現した。


「やあ、ケイル! それに蔵人殿! よくぞ来てくださいました」


 慈耀はケイル達の姿を見付け、うれしそうに傍まで歩み寄ると声をかける。


「慈耀さま、お早うございますだ。ちゃんとお約束通り縄をつけて引っ張って来ましただよ」


 挨拶代わりに握った白銀の手綱を見せ、ケイルは笑いながら返事を返す。


「おい! 俺はおまえの家畜かっ!」


 抗議をする蔵人ではあるが、悲しいかな、その扱いは家畜とあまり変わらない。


「こら、慈耀さまにご無礼だぞ! おめえも馬から下りてちゃんと挨拶をするだ」


「へいへい。ったく、うるせえ小娘だな……」


 家畜扱いの上に命令までされ、蔵人は小声でぶつくさ文句を言いつつも、それでもケイルの言葉に従って白銀から素直に降りようとする。


 なんだかんだ言って、もうすっかりケイルの言いなりである。さすがは牛飼い。動物・・の扱いは慣れたものだ。


「あ、ケイルねえたんだ!」


 気だるい顔をして面倒臭そうに白銀から降りた蔵人の耳に、今度は幼子の声が聞こえてきた。


 声のした方へ蔵人達三人が視線を向けると、酒場の入口に立つ、幼い男の子を連れた一人の女性の姿が目に映る。


「ケイルねえた~ん!」


 そして、男の子の方は女性の手を離れると、ケイルの名を叫びながら彼女目がけて小走りに駆け寄って来る。ちょこちょこと、その小さな脚で懸命に駆ける姿がなんともカワイらしい。


「フフ。浄意じょうい坊っちゃん。お早うございますだ」


 ケイルは男の子のオカッパ頭を優しく撫で、満面の笑みをその顔に浮かべた。


「まあ、ケイル! あなたも来てくれたのね!」


 微笑むケイルに、女性の方も歩み寄りながらニコニコと親しげに声をかける。目に鮮やかな山吹色の着物を着た、どこか品のある美しいご婦人である。


「ああ、これは摩利庵まりあんさま。お早うございますだ。いえ、おらはただ、こいつを連れて来ただけですから」


 そう言ってご婦人にも頭を下げると、ケイルは蔵人を顎で指し示した。


「あら! この方が例の蔵人さまですのね! 主人からお話はお聞いております」


「んん?」


 示された人物の方へ視線を向け、パッと花が咲いたような表情を作るご婦人を、その例の蔵人・・・・も訝しげな顔をして見返す。


「蔵人、こちらは慈耀さまの奥様の摩利庵さまとお子さまの浄意坊っちゃんだ」


「ああ、坊さんの奥方と息子か。いや、坊主のくせにこんなべっぴんな奥方がいるとはうらやましい限りの生臭坊主だな」


「こら、またおめえはそんな無礼なことを!」


 納得したという顔で失礼なことをいう蔵人に、またも眉間に皺を寄せて彼を叱りつけるケイルだったが、当のご婦人――慈耀の妻の摩利庵の方はというと、怒るどころか愉快そうに微笑んでいる。


「ホホホホ。主人に聞いた話通り、ほんとにおもしろいお方ですのね」


「なあ、そうであろう?」


 朗らかな妻の言葉に、慈耀も楽しそうに笑って答える。


「もう、慈耀さまも摩利庵さまも、こいつを甘やかしちゃいけねえだよ」


 そんな、どこか浮世離れした二人の様子を見て、ケイルはたいそう困り顔で蛸のように口を尖らせた。


「ねえ、ねえ、おいたん」


 一方、大人達がそうした無駄話を交わしている間に、息子の浄意が何を思ったか、指を咥えて蔵人の前に立ち、興味深げな眼差しでその凶悪犯のような顔をじっと見上げている。


「ああん? どうした小坊主? 俺になんか用か?」


「こら! そんな風に乱暴に言ったら怖がるじゃねえか! 相手は子供なんだで、もっと優しく話しかけるだよ!」


 しかし、ケイルの言うように粗暴な言葉使いで尋ねられても特に怖がる様子を見せず、ただじっと、つぶらな瞳で彼の悪人面を見つめている浄意。


「なあに、怖がりゃしねえよ。なあ、小坊主?」


 そうした浄意の態度を見てケイルに反論する蔵人だったが、すると、そんな彼に浄意が……。


「おいたんは山賊ですか?」


 と無邪気に尋ねた。


「うっ……」


 蔵人はものすごく渋い表情を作る。やはり子供の純真な目からしても山賊に見えるらしい。


「……いや、お兄さん・・・・は山賊ではなく、その山賊を退治する正義の味方であってな…」


「プッハハハハ…そうそう。浄意坊っちゃん。このおじさんは怖い怖い山賊だで、けして近付いちゃなんねえぞ? 頭からバリバリ食われちまうからな」


 無邪気な浄意の一言にバカウケすると、ケイルはさらに誤解を招くようなことをおもしろがって浄意に言い聞かす。


「おい! これ以上余計なことを吹き込むな!」


「キャア~! 山賊怖い~っ!」


 それを真に受けたのか? それとも冗談とわかっていてふざけているだけか? 浄意も笑顔で悲鳴を上げながら摩利庵の背後へと身を隠す。


「こら、浄意。蔵人さんはそのことをお気になさっているんだから、そんな本当のこと言っちゃいけませんよ」


 母の影から蔵人を覗き見る悪戯っ子な浄意に、摩利庵までもが諭すようにそんなことを言う。


「いや、気にしてないし、本当のことでもないから……」


「そうだぞ、浄意。蔵人殿は山賊であることをたいそう気にしておられるのだからな」


 慈耀もである。


「あんたもかっ!」


「ワッハハハハハ! ほらな。やつぱみんな、そう思うだよ」


 家族全員に山賊だと誤認され、喚く蔵人の姿にケイルはいっそう大笑いした。


「くっ…おまえらなぁ……あんまし調子に乗ってると、その内、本気で射るぞ……」


「さてと、そろそろ寄り合いを始められるようなので、楽しいおしゃべりもここらでお開きとしますかな」


 一人だけ楽しくないおしゃべりに恨み事を言う蔵人だったが、慈耀は酒場の方を覗うと思い出したかのように告げる。


 どうやら無駄話をしている内にも、参加する名主達は皆、会場に集まったようである。


「それでは蔵人殿。警護の方、よろしくお頼み申します。まあ、今日の集まりは来家も知らぬことゆえ、万が一ということもないとは思いますが……それでも、あなたのような方が一人いてくださると我々としても大変心強い」


「ん? ……ああ、まあ、確かにそうだな。俺が来たからには安心だ。どんと大船に乗ったつもりで任せときな」


 ぐだぐだと先程からずっと不満を垂れている蔵人ではあるが、慈耀のその言葉に気をよくしたのか、胸を張ってそう嘯いてみせる。


「それじゃ、慈耀さま。摩利庵さま。おらは牛の世話があるんで帰りますだ」


「ああ、ご苦労だったね。帰り道、気を付けて」


「んじゃな、蔵人。おらは帰るだども、ちゃんと怠けず警護するだぞ?」


 ケイルも断りを入れてから帰ろうとするが、それでもやはり心配な様子で、蔵人にもう一度だけ念を押す。


「ヘイヘイ。わかってるって」


 まるで世話焼き女房のように口うるさいケイルに、蔵人は本当にわかってるのか? どうなのか? どっちだかわからない生返事をぶっきらぼうに返す。


「ほら、かわいい牛達が首を長くして待ってるだろうから、さっさと帰った帰った」


 そして、五月の蠅でも追い払うかのように、手のひらをひらひらとさせてケイルを速やかに見送うとする。


「もう、ほんとにわかってるだろうな……」


 そんな蔵人を不審感に満ちた眼で見つめ、ぶつぶつと呟きながら立ち去ろうとするケイルだったが。


「ええーっ! ケイルねえたん、もう帰っちゃうの~。やだ~もっと遊ぶ~!」


 その背中を、浄意の幼い声が不意に呼び止めた。


「ごめんな~。お姉ちゃんは仕事があるだで、もう行かなきゃなんねえだよ」


 ケイルはもう一度振り返り、騒ぐ浄意をなんとか説得しようと試みるが、この様子ではどうにも聞いてくれそうにない。


「ええ~やだあ、もっと遊ぶ~!」


「こら、浄意! わがまま言ってはいけませんよ!」


「や~だ~!」


 摩利庵も一緒になって叱り諭すが、それでも浄意は駄々を捏ね続ける。


「困っただなあ……」


「仕方ないわね。それじゃこういうのはどう? もしお邪魔じゃなかったら、あなたの牧に浄意と二人で遊びに行ってもいいかしら? 寄り合いが終わるまで家の中には入れないし、じつはどこへ行っていようかと考えていたのよ」


 聞き分けのない浄意と当惑するケイルを見比べ、思案した摩利庵は申し訳なさそうにそんな提案をしてみせた。


「邪魔だなんてとんでもねえ! そうだったですか。それならそうと早く言ってくださればいいだに。そういうことなら遠慮なく遊びに来て下せえ」


 その提案に、むしろ自分の方が恐縮した様子でケイルは快く了承する。


「そう? それじゃ、申し訳ないけどそうさせてもらうわ。この子、あなたにとっても懐いちやつてるみたいで……けして、お仕事の邪魔はしないから」


「いいえ。構わねえですだ。おらも浄意坊っちゃんと遊ぶの大好きだで。そんじゃ、浄意坊っちゃん。お姉ちゃんとこ来て一緒に牛の餌くれするだ」


「うん!」


 しゃがんでその小さな顔を覗き込むケイルに、浄意も満面の笑顔で答える。


「では行って参ります。今日の寄り合い、うまくいくことをお祈りしておりますわ」


「ああ、こっちのことは心配せずにゆっくりしておいで。ケイル、すまないが妻と息子のこと、よろしく頼むよ」


 慈耀は少し心配そうな顔をする妻にそう述べると、やはりいつもの穏やかな笑みをケイルに見せて言った。


「はい! お任せくださいですだ。それじゃ、おらはこれで」


 ケイルも再び慈耀に頭を下げ、今度こそ摩利庵親子を連れだって来た道を戻って行く。


「フー…これでようやくあの口うるせえ小娘から解放されるぜ」


 一方、そんな一家の平和な風景をのほほんと眺めていた蔵人は、帰って行くケイルの後姿に自由を得た安堵の溜息を吐いていた。


「では、蔵人殿。私も中に戻りますので。警護についての詳しい話は土鋳物師つちいもじ具覧ぐらん殿に聞いてください」


「土鋳物師?」


 のびのびと肩など解しながら、慈耀の言った意外な言葉に蔵人は眉根を寄せる。


 牧人でも、杣人でも、百姓でもなく、この庄とはなんら関わりのなさそうな土鋳物師が、どうして警護の指揮をとっているのか? と疑問に思ったのだ。


 土鋳物師とは、金属製品の鋳造やその販売・陸運を生業とする人々のことである。


「はい。具覧殿は以前からこの荘へ交易に来ておりまして、売上金に不当な税をかけられ、同じく来家に恨みを持つことから、今回、協力を買って出てくれたのです。警護のことは彼に一任してあります」


「なるほどな。そういうことか……おう。了解したぜ。ま、他のやつらがいなくても、俺一人いりゃあ十分だがな。あんたらは安心して話し合いに専念しな」


「おお! なんと頼もしいお言葉! では、何卒よろしく」


 いつになく協力的な蔵人の物言いに、慈耀は素直に喜ぶと、すでに名主全員が集まっている酒場の中へと消えて行く。


「ふぁ~あ…さてと。しょうがねえ、俺も警護のお役目に付くとすっかな。ええと、具覧ってのはどいつだ?」


 最後に一人残された蔵人も、慈耀に言った台詞とは裏腹なあまりやる気があるとも思えない態度で、たむろする警護の者達の方へとしぶしぶ足を向けた――。


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