第六巻 阿布脇按頭の密命
「――おまけにそやつ、身分低き分際のくせして一時期、
阿布はかの人物について、いつになくやや感情的にそう付け加えた。
「ほう。東木……蔵人介ですか……さて? 聞いたことのない名前ですな。前の戦ではずっと平家一門とともに戦場を渡り歩いていたとのこと。さほどの者であれば、それなりに名は通っていそうなものですのに……」
阿布の話に、来家は太い小首を傾げながら独り言のように尋ねる。
「まあ、本名はそれほど有名ではありますまい……だが〝
「ええっ!? あ、あの〝早射りの蔵人〟ですか!? 敵陣を駆け抜ける刹那の内に十騎の騎馬武者を射止めたとか、一度に数人の者を射抜くことができるとかいう、あの……」
今度は打って変わって、阿布が口にした思いがけぬ名に来家は目を大きく見開く。
「そう。我らが追っている東木蔵人介とは、その
「……しかし、かの早射りの蔵人なる者、確かにその武芸は弓も馬も並ぶ者なき腕前と聞いておりまするが、噂によると、その素行には少々難のある問題人物だとか……例えば、あの富士川の戦でも……」
「うむ。飛び立つ水鳥の羽音を夜襲と勘違いし、戦わずして平家勢が逃げ出したあの戦の折、あやつ、一人逃げなかったはいいものの、その晩の深酒にひどく酔っ払っていたために水鳥が本当に源氏の兵に見えてしまい、矢を射かけながらどこまでも明後日の方向へ追って行ってしまったとの由にござる」
斜め上を見つめ、噂に聞いたその人となりを思い出しながら呟く来家を、なぜかピクピクとこめかみを脈打たせて阿布が補足する。
「それから、屋島の合戦でも何やらやらかしたようですな。確か、かの
「左様。そのような大役を預かっておきながら、前日に食いすぎた牡蠣に
「う~む……よくわかりませぬな。そのようにふざけた輩、放っておいても大勢に影響はないように思えまするが……なぜにまたその早射りを?」
「だから先程も申したでござろう!? こともあろうにそのふざけた輩が、天下を揺るがしかない最重要の秘密を握っているのでござるよ!」
「ひっ……」
得心がいかぬという様子で再び小首を傾げる来家に、阿布は突然、苛立たしげに声を荒げる。
その声に驚き恐れ慄く来家も無視し、そんな阿布の脳裏にはそもそもの始まりとなったあの日の情景が浮かんでいる――。
「――阿布脇按頭。そなたをわざわざ呼んだのは他でもない。ある重要な仕事を頼みたいからじゃ」
壇ノ浦の合戦が終わってまだ間もない文治元(1185)年の十一月。
鎌倉の侍所の一室で、
「と、申しますと、いかなるお役目でございましょうや?」
板の間にひれ伏して座る阿布脇按頭は、上座の義盛を上目遣いに見上げながら問う。
「そなた、壇ノ浦での三種の神器の一件は存じておろう?」
「ハッ。あの最後の戦にて平家が敗れた折、安徳帝が奉じられていた帝の証――
「その通り……今、表向きに言われているところではな」
義盛は、どこか含みのある言い方で阿布に答える。
「……どういうことにござりまするか?」
意味深なその言葉に、阿布は幾分、身を乗り出して義盛に再度尋ねた。
「確かに、そなたが今言ったような筋書きが壇ノ浦で起こったことと皆が信じ、
「そうではない?」
「うむ……さる平家方の有力者で捕虜となった者の話なのじゃがな。その者によると、じつは二位の尼殿が入水の折に携えていた御神器は偽物で、本物は後の世の平家再興を願い、密かに近習の者に持たせて戦場から逃したというのじゃな」
「なんと! それはまことにござりまするか!?」
その予想だにしなかった秘密の告白に、普段は滅多に見せることのない驚きの表情を思わず阿布も浮かべる。
「和田様、もしそれが本当のことでございましたなら、まことに由々しき事態。院(※後白河法皇)にお返し申し上げた鏡と玉は偽物で、本物はいまだ平家残党の手にあるということになってしまいまするぞ! しかも不幸中の幸いとでも申しましょうか、失われたと思われし草薙剣も健在ということに!」
「そう! その通りじゃ。しかも確かな筋からの話ゆえ、俄かには信じ難いが、真のことであるやもしれぬ」
「なれば、それがしへの重要なお役目とは、その近習の者を探し出し、本物の御神器を取り戻せということにござりまするな。では、早速に…」
「ああ、これこれ、待つのじゃ。そう急くでないわ。話にはまだ続きがある」
思いもよらぬ爆弾発言に阿布は早々、やや興奮気味に腰を浮かすのだったが、それを義盛が対照的に悠長な口調で制する。
「ところがな、その神器を託されたと思しき近習の者は、戦場から逃れる際に運悪くこちら側の武者と出くわし、激しい逃走劇の末に討ち取られてしまったのじゃ」
「討ち取られた? ……でしたら、その者が持っていた御神器も回収できたのではござりませぬか?」
他人にはわかりづらいが、阿布は怪訝な表情を微かに能面のような顔に浮かべて聞き返す。
「いや、話はもっと複雑でな。その近習は追手に深手を負わせられながらも必死で戦場を逃げ回り、討ち取られる間際にまた別の者へ神器を手渡したようなのじゃな。残念ながら、そちらの者は今もって我らの手に落ちてはおらぬ」
「なるほど。そういうことでしたか……して、そのさらに御神器が渡った者というのは?」
「その者の名は東木蔵人介張威――一部の者の間では〝早射りの蔵人〟と呼び習わされておる男じゃ」
「なんと、あの早射りですか!?」
阿布は幾分、猛禽のような目を見開く。
「おお、さすが脇按頭。やはり存知ておったか」
「いえ。実際に会うたことはござりませぬが、
「そのようじゃな。ハァ……よりにもよって、畏れ多くも帝の証たる御神器がかような者の手に渡るとは……」
義盛は落胆したというよりは、計りがたき世の
「じゃが、そんな素行が悪いといおうか、ひどく間が抜けているとでもいうか、とにかく、あまり評判のよくない輩ではあるが、その一方で武芸…特に弓の腕に関しては〝早射り〟の渾名が示す通り超一級の
「つまり、我らにその早射り――東木蔵人介を捕縛し、密かに三種の神器を奪還せよと」
それまでも笑顔一つ見せなかった阿布ではあるが、義盛の言葉をそう言い変えると、よりいっそう険しい表情を作る。
「左様。それに早射りが腕の立つ者か否かという以前に、これは天下を揺るがす一大事。けして他人に知られてはならぬ裏のお役目じゃ。もし、この話が世間に知れれば、潜伏している平家の残党が息を吹き返すやもしれぬ。一門で生き残っている者もないわけではないしの。六代殿という平家直系の男子とて、いまだ存命しておる」
六代とは、清盛の長男・重盛の子の
壇ノ浦の戦の後に捕らえられて鎌倉に送られたが、本来なら斬首になるところを
ただし、無残なるかな、これより13年後の健久10(1199)年には、その唯一の平家直系男子も斬首に処せられることとなるのであるが……。
「いや。それどころか、院や朝廷とて、我らを裏切り、残党方に鞍替えすることは充分考えうる。いくら壇ノ浦で平家が滅び、守護・地頭の設置によって全国に鎌倉様のご威光が広まったといえども、西国は今もって我ら東国の者の力が充分には及ばぬ土地じゃ。それに奥州には藤原
「無論。もとより承知の上。そのような表ではない脇の部分を密かに補うのが、我等〝脇按使〟のお役目にござりまする」
義盛の忠告に阿布はいらぬ念押しとばかり、はっきりとした口調でそう答えた。
「よう言うた! そう。その通りじゃ! これはそなたら、その存在すら知られておらぬ影の者にしかできぬお役目。必ずや東木某を捕え、本物の御神器の在り処を聞き出すのじゃ。やつ自身が持っているのか? それとも、どこか別の場所に隠してあるのかもまだわからぬが、とにかくも今はその者を捕えることが先決。また、在り処を聞き出した後はその者の口も塞げ。秘密を知る者は生かしてはおけぬ」
「承りました……しかし、東木は相当に腕の立つ
惨忍な指令を淡々と下す義盛に対し、阿布の方も輪をかけて不吉な物言いで問い返す。
「最悪そうなってしまってもやむをえん。野放しにしておくよりはまだましじゃからな。ただし! 極力生け捕りにするよう努めるのだぞ? 万が一、東木からさらに他の誰かへ渡っていたとなれば、よりいっそう厄介なことになるからな」
「承知。それをお聞きして安堵いたしましてござりまする」
答える阿布は再び口元に笑みを作る……言うまでもなく、けして穏やかな微笑みでも陽気な笑いでもない、凍てつくような薄ら寒い悪鬼の笑顔である。
「フン。相変わらず怖い男じゃのう。じゃが、まことになるべくなら生け捕りにするのだぞ?」
「ハッ。よくわっておりまする」
だが、そう返事をする阿布の顔にはやはり愉しげに冷たい微笑が浮かんでいる。
「噂によると東木は、壇ノ浦の戦の後に
「ハハッ!」
阿布は威儀を正すと、慇懃に義盛へ頭を下げた――。
「――あのう、その理由というのは、やはり教えてはいただけぬので?」
気が付くと、いつの間にやら回想に浸ってしまっていた阿布の顔を下から見上げ、、妙にへりくだった来家がイヤらしい目つきをして尋ねる。
「…! ………………」
対して阿布は我に返ると、黙ったまま鋭い目つきで来家の間抜け顔を睨み返した。
「い、いえ、別に無理に話していただきたいとか、そういうことではござりませぬゆえ。ただ、ちょっと気になるかな~とか、そんな風に思ったりなんかして……」
先程の一件があるので、来家はそれ以上突っ込んで訊くような真似はせず、冷や汗を浮かべながら慌てて誤魔化そうとする。
「余計なことは考えずともよろしゅうござる。来家殿はただ、荘内に早射りが潜伏しておらぬかいなか詮索していただけばよいだけのこと。あとは我らが始末をつけまする」
阿布は来家の顔を射すような眼差しで見つめ、反論の余地も与えることなく、きっぱりとそう断った。
「……しかし、これは天下を左右する重要なお役目ゆえ、もしも東木を捕えたならば、そこもとにもそれ相応の恩賞が与えられるものと思われまするぞ?」
だが、そのすぐ後に甘い言葉を付け加えることも阿布は忘れない。
「そ、それはまことにござりまするか!? そういうことなれば、よろこんで協力いたす! いや、ご協力させていただきまする!」
その甘言に来家はまんまと乗せられ、先程までとは一転、極めて協力的な態度をとる。
「とはいえ、まだこの荘内にいるかどうかもわかりませぬがな。今わかっているのは東木が播磨国に入ったらしいというだけのこと。それゆえ、ここばかりでなく播磨国内の各郷・各荘園すべてに我が手の者を放っておりまする」
「いやいや、きっとこの庄内におりまするよ。いや、わしの恩賞のために、いてもらわなければ困りまする」
来家の心の内は最早、完全に捕らぬタヌキの皮算用に入っている。
「なれば事は簡単なのでござるがな……とりあえず、それがしもしばしこの荘に滞在し、ともに詮索するつもりでおりまする。で、その間、どこか荘内の荒れ寺にでもお泊めいただければと思うのでござるが……」
「いえいえ、荒れ寺なぞと申さず、どうぞ我が屋敷にごゆるりとご逗留くだされ。できうる限りのもてなしをさせていただきまする。ヘッヘッヘッ…」
阿布の頼みに来家は手で胡麻を擂り擂り、なおいっそう悪どくイヤらしい笑みを浮かべながら答える。
うまくいけば新たな恩賞にありつけるかもしれないとわかるやいなや、このあからさまに取り入ろうとする、なんともさもしい欲深な態度……来家留奉とは、そんなあさましき男なのである。
「で、早速ですが、その早射り――東木蔵人介なる者、いったいいかなる風体をした男にござりまするか? …あ、い、いえ、我らはそやつの顔を全く知りませぬし、追われる身となれば、武士然りという身なりはしておりますまい。山伏などに変装しておるやもしれませぬ。また、名も本名を隠し、おそらくは偽名を用いているものかと……何か、そやつとわかる特徴などございましたら、教えていただきたく…」
「うむ。当然の質問にござるな」
恐る恐る尋ねる来家に、思いの外すんなりと阿部は答えてくれる。今までのやりとりからして何か拍子抜けな感もあるが、任務遂行を何より大事とする阿部としては、むしろ当たり前の反応であるのかもしれない。
「そう思い、ここに早射りの人相書を用意しておりまする」
阿布は懐から一枚の半紙を取り出すと、来家にそれを手渡した。
「それがしが描いたものでござるが、これを見れば、早射りの人相は一目瞭然にござる」
「おお! さすが阿布殿。用意がよろしゅうござるな。では、ちょっと失礼して拝見……」
……!?
その人相書を一目見た瞬間、来家は絶句し、石のように身体を硬直させてしまう。
こ、これは……。
だが、来家がそうした反応を示したのは、そこに描かれている人物をよく見知っていたからとか、その人物をどこかで見かけたのだとか、そういった類の理由によるものではない。
………………え、絵がヘタすぎて、まったくわからん。
それは幼子が描いたものかと見まがうばかりの、とても人相書とは思えない、恐ろしいまでにヘタクソな
いや、ヘタな人相書どころか、人間の顔を描いたかどうかも怪しい……。
「どうでござる? 早射りがいかな者であるか、よくわかったでござろう?」
阿布は珍しく得意げな顔になって、自信満々に来家に問う。
……で、でも言えない……絵がヘタすぎて、これじゃ早射りの人相がわからないなんて、わし、怖くてとても言えない……。
「は、はあ……も、ものすごく、よーくわかりました……ハハ…ハハ…ハ……」
己が身を案じる来家は引きつった笑みを浮かべた顔で、そう阿布に答えることしかできなかった。
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