第七巻 下司・簾戸慈耀

「――フー…食った。食ったあ」


 建てつけの悪い戸をガタガタ言わせて外に出ると、蔵人は空を見上げて大きく背伸びをした。

 

 見上げれば、よく晴れた昼下がりの穏やかな青空である。他方、下に目を向ければ、周囲には鮮やかな緑色に覆われた牧の草原と、そこで草を食む牛達の長閑のどかな風景が広がっている。


 久々の食べ物にちょうどお腹も満腹になり、実に爽快でよい気分だ。


「ブヒヒン!」


 そんな蔵人の耳に、彼の愛馬である白銀しろがねの嘶きが聞こえてくる。


 両腕を天に伸ばしたままの格好で振り返ってみると、母屋の傍らに建つ牛舎に繋がれた白銀が、与えられた山盛りの飼葉をたいそう満足げに食んでいた。


「おお、白銀。おまえも飯もらったのか? よかったなあ。今日は俺達、ほんとツイてるぜ」


「ブヒヒヒン!」


 ニタニタと笑いながら歩み寄り、そんな言葉を投げかける蔵人に、彼の愛馬もうれしそうにもう一度、嘶いてみせる。


「ああーっ! 夕飯にしようと思ってたのに全部食いやがっただなあっ!」


 と、そんな静かな昼下がりを劈く叫び声が、突如、家の中から聞こえて来た。


「おらがちょっと目を離した隙に……蔵人っ! おめえ、少しは遠慮ってもんをしろっ!」


 続いて、開け放たれた板戸を潜って、大声で怒鳴り散らしながらケイルも出て来る。


「んん? ああ、いやあ、久々にありつけた食いもんだからな。こういう時に食い貯めておかねえとな。ハハハハハ!」


 ドシドシと地面を踏み鳴らしながら近付き、上気させた真っ赤な顔で詰め寄るケイルだったが、蔵人はまるで悪びる様子もなく、それどころか胸を張って高らかに笑って見せる。


「何が〝ハハハハハ〟だ! うちだって、そんな食いもんに余裕はねえっつうのに。こうなったら、食った分はちゃんと働いて返してもらうだからな!」


「まあ、いいじゃねえか。そこはほら、さっき助けてやつたお礼ということで」


 当然、よりいっそう怒りを顕わにするケイルであるが、なおも蔵人はどこ吹く風である。


「何言ってるだ! おらを助けてくれたのはおめえじゃなく、そっちにいる馬の方だ。だから馬にはお礼に飼葉をやっただが、おめえに礼をする義理はねえだ!」


 しかしケイルも負けてはおらず、そんな蔵人の主張を容赦なく一蹴する。


「なっ! ……あのな、白銀の飼い主はこの俺だ。んでもって、その俺が白銀にゴロツキどもをぶちのめすよう命じたんだから、つまり、礼をせねばならんのは、むしろ俺の方に対してだろ?」


「へえ~この馬、白銀っていうだか? のわりには煤けた灰色してて、あんまし〝銀〟って感じじゃねえだな」


「ああ、その名前か。まあ、確かに今は・・白銀っぽくねえが、それにはいろいろとあってな……ってか、おまえ、また俺の話を聞いてねえな?」


「とにかく! 馬の餌は助けてもらった礼だが、おめえが全部食っちまった雑炊は別だかんな。その分はちゃんと働いてもらうだぞ?」


「いや、だから、助けたのはむしろ、俺であって…」


「死んだ爺っちゃんもよく言ってただ。働かざる者、食うべからずって。なあ、白銀?」


「ブヒヒヒヒン!」


 同意を求めるケイルに、白銀もその通りとばかりに嘶く。


「白銀、てめっ……たく、なんて可愛げのねえ小娘だ」


「小娘じゃねえ! おらはケイルだ!」


「ハァ……へいへい。わかりやした。食った分、働きゃあいいんだろ。働きゃ」


 蔵人は頬を膨らますケイルの顔を改めて見直すと、面倒臭そうに大きく溜息を吐いた。けして自分の主張を曲げないこの強情な娘には、さすがの蔵人もどうやら敵わないようである。


「んで、俺はいったい何をすればいいんだ、ケイル親方・・? 狩りでもできりゃあ、手っ取り早くすむんだが、ここいらの山じゃ、うさぎ一匹見当たらなかったからなあ」


 抵抗を諦め、ふざけた調子でそう尋ねる蔵人に、ケイルはなぜか深刻な表情を作る。


「ああ、そうなんだ。強欲な来家達が乱獲したせいで、山の獣や鳥はほとんどいなくなっちまっただよ。辛うじて生き残ったやつらもどっかへ隠れちまって、滅多に姿を見せることはねえ。もとは鳥も獣もたくさんいるいい山だっただに……」


「なるほどな。山に獲物がいなかったのも、その地頭の野郎のせいだったのか……クソっ! よくも俺様の食い物をっ!」


 ケイルからその話を聞くと、部外者である蔵人も拳を握りしめて怒りを顕わにする。ま、多少、論点はずれていたりするのだが。


「〝俺様の食い物〟ってとこが引っかかるが……ま、いいだ。そういうことで狩りは無理だから、炊事に洗濯、薪拾いに山菜取り、後は牧の仕事を手伝ってもらうことにするだ」


「するだ……って、おい! 雑炊食った分にしちゃあ、仕事の量が多すぎやしねえか? いくらなんでも、こき使いすぎってもんだぜ」


「雑炊っつっても鍋一杯食やあ、そんくれえの仕事量にはなるだ。うちも食いもんが余るほど裕福じゃねえだからな。つべこべ言わず、おとなしく働くだ」


「ハァ……前言撤回。やつぱ今日はツイてねえ日だぜえ……」


「お~い! ケイル~!」


 と、二人がそんなやり取りをしているところへ、どこからか彼女の名を呼ぶ声が微かに聞こえて来る。


 辺りを見回し、その声の主を二人が探すと、牧とは反対側に広がる田園地帯の方から、淡い黄色の水干すいかんを着た坊主頭の男が田舎道を歩いて来るのが見える。歳は三十後半くらいだろうか? 墨染めの衣は着ていないが、沙弥しゃみ(※世俗生活をしている僧)のような風体の男である。


「なんだ?」


 蔵人は鷹のような目を細め、遠方から近付いて来る男の姿を凝視する。


 その坊主頭の男はケイルの名を呼びながら、大きく手を振って合図をしている。その柔和な顔から察するに、どうやら温厚な性格の人物のようだ。


 だが、しばらくして男がすぐ近くまで来ると、ケイルは地べたに正座し、深々と頭を下げた。


「ん? どうした?」


 その貴人を前にしたような彼女の態度を、蔵人は訝しげな表情で見つめる。


「慈耀さま、こんにちはですだ」


 ケイルは頭を下げたまま、礼儀正しく男に挨拶をする。


「ケイル、よしてくれ。今の私はおまえの主でも、この荘の下司でもないのだからの」


「いんや! そんなことはねえですだ。慈耀さまは今でもおら達の領主さまだ!」


「なあ、誰だ? この坊主は?」


 思わず伏せていた顔を上げ、男の言葉を真剣な眼差しで否定するケイルに、いつものぶしつけな物言いで蔵人が遠慮なく尋ねる。


「蔵人っ! ひかえるだ! こちらはこの荘の下司・簾戸慈耀さまだ」


「いや、だからよいのだって。今はもう下司ではなく、ただの貧乏坊主なのだからな」


「ああ、そういうことか。あんたが地頭に没官食らったっていう下司さんか」


 ケイルと彼の話し振りから、蔵人もようやくそのことに思い至ったようである。


「こらっ、蔵人! おめえ、なんて無礼なことを言うだ!」


「ハハハハハ…いや、こちらの方の仰る通りだ。そうです。お恥ずかしながら、その地頭の来家留奉に荘園を奪われた、なんとも情けないもと下司の簾戸慈耀にございます」


 蔵人の失礼極まりない物言いに激昂するケイルであったが、その坊主――当の簾戸慈耀の方はといえば特に怒る風でもなく、逆におかしげに笑って蔵人に頭を下げている。


「なあに。恥ずかしくも情けなくもねえさ。昨今、どこにでもよくある話だぜ」


 そんな慈耀に蔵人はふと、自嘲でもするかのような笑みを浮かべてそう答えた。


「没官されても、どうやら命だけは無事だったようだな。今はどこに住んでんだ? やつぱり、この荘からは追い出されて?」


「いいえ。私の場合、謀反を起こした張本人というわけでもないですからね。没官刑の慣例に則り、命を奪われるようなことはなかったですし、荘からの追放もされませんでした。そもそもあの没官刑はひどく不当なものでしたから、来家も強くは出れなかったのでしょう。しかし、それまで住んでいた寺は奪われ、下人達も皆逃げてしまったので、今は一緒に解放された妻と子と三人、村外れの荘の脇を通る街道沿いで酒場など営んで暮らしております」



「なるほどねえ……ま、追放も免れたし、殺されなかっただけマシってもんだぜ。命あってのモノダネってね……ああ、どうも。こりゃ名乗るのが遅れちまったな。東木…じゃなかった、紫煙蔵人左衛門助だ。シェーンとでも呼んでくれ」


 しばし感慨深く感想を語った後、思い出したかのように蔵人も自らの名…というか、さっき思い付いた偽名を名乗り返す。


「これはどうもご親切に。蔵人殿ですね。どうぞ、よろしくお願いします」


「ああ。蔵人だ。こちらこそよろしく…って、あんたも人の話聞いてねえな! なぜ、おまえらはそうやつて、俺に不都合なように名を略す!?」


 ケイル同様、自分の意図に反する呼び方をする慈耀にツッコミを入れる蔵人だったが、慈耀はそれを無視して勝手に話を進める。


「ケイル、こちらはおまえのお知り合いかい? それとも旅のお方か何かかな?」


「ああ、こいつはただのならず者なんで気にしないでくだせえ。それより慈耀さま。今日は何かおらに用事でも?」


「おい! てめえも人を紹介すんのに言葉を選べ! 誰がならず者だ!」


 だが、その二度目のツッコミも二人には軽く無視スルーされる。


「そうだ。こんなとこで立ち話もなんだで、どうぞ、うちん中へ。つっても、白湯さゆぐれえしか出せねえですけど……」


「いやいや、何もお構いなく。だが、確かにここじゃなんだな……それじゃ、ちょっと上がらせてもらうかな」


「ええ。むさ苦しいとこだども、どうぞ遠慮なく」


 ケイルと慈耀はまるで蔵人のことを気にかける様子もなく、早速、二人連れだって屋内へと入って行く。


「おまえらなあ……」


 ポツンと独り取り残された蔵人も、苦々しげに歯ぎしりしながらそう呟くと、仕方なく彼女らの後について家の中へと戻る。


「ブヒヒヒヒン!」


 そんな翻弄される蔵人の姿を嘲笑うかのように、白銀が背後で一声嘶いた――。

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