第四巻 脇按使(わいあんし)
その頃、
「頼もーっ!」
四方を掘と塀に囲まれた館の、見張り台を載せた櫓門の前で声を張り上げる男がいた。
美しい黒毛の馬に乗った二十半ば程の男である。
馬に乗っているとは言っても、先程の〝蔵人〟なる男とはまるで違い、背筋のピンと伸びた長身にパリっとした黒い
「何奴だ!? ここが本荘の地頭、来家留奉様のお屋敷と知ってのことか!」
「知ってのことかあ!」
突然の予期せぬ訪問者に、門番をしていた二人の郎党は男の前で長刀を交差させて、威圧的に尋問する。
「……ひっ!」
だが、次の瞬間、突き刺すような男の冷たい視線に馬上から
「それがしは鎌倉の
「へ、へえ……」
眼光一閃、完全に気を削がれてしまった郎党達は間の抜けた声で返事を返すと、まるで狐に抓まれたかのような顔で男を門内へ案内した――。
「――阿布殿と申したか? こんな片田舎まで、いったいなんの御用で参ったのですかな?」
広い館の一室で、直垂を着た小太りの体にいかにも狡賢そうな顔を乗っける中年男が、上座から阿布脇按頭を警戒心に満ちた目つきで覗っている……彼が地頭の来家留奉である。
「まずは突然の来訪に快くお目通り頂きありがたく存じ上げる。それがし、鎌倉の侍所に属する
そんな上から目線な地頭・来家に、阿布はいかにも仰々しく頭を下げる。が、直後に顔を上げ、来家を見据えるその眼差しは、先程同様、凍てつくような鋭さを秘めている。
「わいあんし? 聞いたことのない役職ですなあ?」
来家はさらに警戒心を強め、能面のような安布の表情をしげしげと見つめる。
「御存知ないのも当然のことかと。脇按使の〝わい〟は
「ほう。そのような方々がおられるとは、まるで存じませんでしたな……じゃが、その脇按使の別当殿がわしに何用でござましょう?」
そこまで説明されても、いまだ来家の阿布に対する警戒心は変わらない。いや、それどころか、そんな裏の存在であると知り、いよいよ不審感をその黄色く濁った目に滲ませている。
「じつは、ある重大な事柄について知る人物の行方を探しておりましてな」
阿布は来家の表情などまるで気にしていない様子で、無表情のまま話を進める。
「重大な事柄? それはいったい、どういう…?」
「それについて知る必要はござりませぬ」
当然尋ねる来家であるが、一も二もなく安布はその口を封じる。
「ただ、その者が播磨国に入ったらしいという話を耳にしましたがゆえ、もしも、そやつをこの輪囲尾民倶荘や、同じくそこもとが治める門棚郷内で見かけるようなことがありましたなら、その身柄を速やかに確保していただきたいのでござる。その極秘のお役目を直にお伝えするため、それがし、ここへ参った次第」
「ほう……肝心なところは何も教えず、ただ協力だけしろとは虫のいい話ですな」
そうした安布の秘密主義的な態度に、来家はあからさまに不機嫌な表情を浮かべる。
……だが。
「誤解していただいては困りますな。これはそれがしの言葉にあらず。鎌倉様(※源頼朝)のお言葉にございまする。その意に従わぬということは、即ち鎌倉様に逆らうということと同義とお心得願いたい」
阿布は全く動じず…否、相手の反応になど興味がないとでも言うかの如く、よく切れる刃物のようなその口振りで来家に有無を言わせなかった。
「か、鎌倉様……」
〝鎌倉様〟という言葉を聞いて、さすがに来家もビビったのか、二の句が継げないでいる。
いくら因業で強欲な人物といえど、一応、彼も御家人……その頂点に立つ頼朝、そして、その背後に控える強大な鎌倉の武士勢力に逆らおうなど滅相もないことなのだ。
いや、来家のような権力志向の者だからこそ、なおさらそうした権威には弱いのかもしれない。
「それから……」
続けて阿布は呟くと、左手を衣擦れの音もなく静かに上げ、己の左側に面した板戸の方へピンと張り詰めた糸のように伸ばす。
ビュン…!
「ぐあっ!」
と、次の瞬間。
何が起きたのか? 突然、板戸が阿布の方に倒れ、その裏から一人の郎党がもんどり打って転げ出した。
その倒れた板戸の方へ目を向ければ、続く奥の部屋にはまだ数人の郎党達が太刀を構えて立っている。
また、転げ出した郎党も同じくその手には太刀を持っていたらしいのだが、今はその凶器もあっさり放り出し、床の上をゴロゴロと悶え回る有り様である。見ると、彼が手で押さえるその右上腕部には、小さく短い矢が痛々しくも突き刺さっているではないか!
一方、すらりと伸ばした阿布の左手には、その直垂の大きな袖の下に隠して、これまた小さな
「……そ、それは
その非常に小さくも強力な弓を目にした来家は、驚きを隠しきれない様子でぼそりと呟く。
板戸の裏にいる郎党達も太刀を構えたまま、その場で顔色を青くして固まっている。
「左様。よくご存知ですな。いかにも奈良春日社に属する礼明堂の弓
それまで能面のように無表情だった阿布が、ここに来て初めてその顔に微笑みを浮かべた。
しかし、それは微笑みではあるものの、見る者の血を一瞬で凍りつかせてしまうような、冷たく、薄ら寒い冷笑である。
「それよりも、これはいったいなんの真似でございますかな?」
「……あ、い、いやあ、こ、これは、そのお……なんといいましょうか、あなた様のことを警戒していたというか…あ、いや、武家の習いとして、常に油断なきよう努めているとでもいいましょうか……」
それまでの横柄な態度もどこへやら。来家は完全に血の気が失せ、額にじっとりと脂汗を滲ませながら、なんとかこの場を取り繕おうと必死に口を動かしている。
「ほう。それがしが侍所から参った者とお伝えしたにも関わらず、それでもなおご警戒めされるとは……何か、やましいところでもございますかな?」
「あ、はい……ああ! い、いえ! けしてそのようなことは…」
来家はもう、すっかり阿布の放つ威圧感に飲み込まれてしまっていた。話す言葉も完全にしどろもどろだ。
「誤魔化しても察しはつきまする。こちらはそうした事情を探るのが本分にござりますからな。大方、この輪囲尾民倶荘に対する没官刑が不正な押領だったか否か、それをそれがしが調べに来たとでも思ったのでござろう? 確かにあの没官は言いがかりも同然でしたからな。それを棚に上げ、あわよくば侍所からの使者を消そうなどとは……これは鎌倉様への謀叛行為と見てよろしいかな?」
「む、謀叛だなどと、とんでもない! け、けして、鎌倉様に逆らうようなことは! た、ただ、使者を装った不貞の輩か何かと思い……ど、どうか、どうか、ご勘弁を……」
来家は顔をくしゃくしゃに歪め、武士にはあるまじき情けない姿で阿布に泣きつく。最早、完璧なまでの負け犬である。
「フン。今回だけは許して差し上げましょう。本荘の没官についても別にどうこう言うつもりはござりませぬ。我らはかの者さえ捕らえられればよいだけのこと……が、今度かような真似をなされるようならば、次は容赦なく我が愛弓、京の
阿布は涙目の来家から視線を上げると、今度は板戸の裏に控える郎党達の方を鋭く見据えて言った。
「………………」
無論、郎党達は刀をだらしなく手にぶら提げたまま、蛇に睨まれた蛙のように誰一人その場を動くことができない。
「では、ご協力願えるということでよろしいですかな?」
「は、はい! もちろんよろこんで! ……で、その者というのはいったい、どういった輩で?」
改めて返答を求める(初めから答えは一つしかないのだが…)阿布に、来家は即座に色よい返事をすると、今度は自分の方から太鼓持ちのような調子で安布に尋ねる。
「名は
そんな調子のよい来家に対して、相変わらずの無表情で安布は淡々とそう答える。
「平家の落ち武者? というと、平家の
「いや。平家と言っても伊勢平氏ではござらぬ。もとは武蔵国に領地を持つ、
「坂東平氏? 東国の者ですか?」
「左様。だが、前の内乱の折、我ら鎌倉方についた叔父との戦に敗れ、領地を叔父に奪われたやつは
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