第30話 退院の日に揃った顔
退院予定日前日まで、私は体調を崩すこともなく、無事今日を迎えることができた。そう。今日は、退院の日だ。
今、この病室の中には、私の他にお父さん、琉生がいる…だけではない。
勇次郎も勇哉もいるのだ。この顔ぶれはなんだかとても違和感がある。ワクワク感でいっぱいになるはずだった退院の日が、なんともいえない重たい空気に包まれている。
それは、同じ室内に、琉生と勇次郎がいるせいだろう。このふたりは、結局お互いをけん制し合ったままだ。なんせ、勇次郎は勇哉に琉生のことを”下品な男”だと伝えるほど毛嫌いしている。普段、感情を面に出さない勇次郎が珍しく感情を露にする相手、それが琉生だ。
琉生も、”頭おかしいだろ”というほど勇次郎を嫌っている。退院の日には、琉生が迎えにきてくれるから鎌倉の車は必要ないと伝えてあったにもかかわらず、なぜ勇次郎がこの場に居るのか、私にも理解ができなかった。
誰も喋らない。勇哉は時々私に何かを伝えたそうな顔をするが、私が聞こうとして手招きをしても、小さく首を横に振るだけだった。どうやら勇次郎に気を遣っているのだろう。この空気を変えてくれたのは、
「藍子さん、準備出来ましたか?」
と言って入ってきてくれた看護師だった。
「はい。出来てます」
私は看護師にそう答えると、
「では、こちらが来月の受診予約表です。診察券はこちらです。あと、お薬がこちらになります。ご自宅に酸素などが必要になることもあるので、こちらからのちほど設置しに伺いますね」
と言って、一袋にまとまった予約表と診察券、薬の袋を渡してくれた。
「ありがとうございます」
私は、それを受け取りながら言った。これで空気が変わり、ようやくお父さんが口を開いた。
「どうもお世話になりました」
看護師に向かって伝えながら深々と頭を下げた。それを見た看護師も同じように頭を下げ、
「いえいえ。退院おめでとうございます」
とお父さんに伝えた。
「あ、お世話になりました」
私も慌てて頭を下げた。
「藍子さん、そんなに頭下げたらめまいしちゃいますよ!気を付けてくださいね」
私の行動に慌てて看護師が、私の体を支えながら言った。確かに頭を下げて持ち上げようとした時、少しクラっとしてしまった。そうか、こういう行動も気を付けなくちゃいけないのかと改めて実感した。
「お母さん、無理しそうだな…」
そう言ったのは、勇哉だった。勇哉もようやく勇次郎のそばを離れ私のところに来てくれた。
「大丈夫だよ、気をつけるね」
私は勇哉に向かってそう言うと、
「うん。絶対無理しないで長生きしてね」
勇哉の言葉が嬉しくて、涙腺がふと緩んでしまった。以前愛川は「勇哉の力になってくれ」と言っていたが、どうやって勇哉と連絡を取るのか、今の段階ではまったく分からなかったから、今日を最後に勇哉には逢えない…そんなことを思ってしまったのだ。
「えっ?なんで?ここで泣く?」
勇哉は慌てて、以前ティッシュの箱があったところに手を伸ばしかけ、
「あ、ない…」
というと、自分が持っているハンカチで涙を拭いてくれた。この行動がさらに私の涙腺を崩壊させた。
「勇哉…」
言葉が続かなかった。永遠の別れになるわけじゃない…はず。だけど、どうしても寂しさが止まらなかった。
「絶対逢いに行くから!」
勇哉は私を支える格好で耳元でそっと囁いた。こんな時でも、冷静に父親に配慮しているのが分かり、涙は止まることを忘れたように溢れては零れた。そして、できる限り長生きしたいと心に誓った。
親子の別れの瞬間でも、勇次郎は微動だにしない。本当にこの人には血が通っているのだろうか?と疑いたくなってしまう。今更何も望まないが。
私たちが抱き合って泣いている光景を見ながら、勇次郎がついに動いた。それは私の方に来るのではなく、お父さんの方へと向かって行ったのだ。そして、
「これは、藍子名義の通帳です。結婚してから貯蓄をしていた分と、今後の生活分が入っています。印章とカードです。暗証番号はこちらに書いてあります」
と言いながら、お父さんに通帳を渡そうとした。そんな通帳があったことも私は知らなかったから驚いたが、おそらくこの中に、愛川が言っていたいわゆる手切れ金のようなものが入っているのだと直感した。
「これは受け取れません。今後の治療費だって、本来ならばそちらが負担する義理はないわけですから」
お父さんはきっぱりと言った。
「いえ。受け取っていただきます」
勇次郎は譲らない。
「いえ。お気持ちだけで結構です」
お父さんもそういうところは頑固だ。勇哉との時間を満喫したいというのに、勇次郎はこのタイミングで何をしているのかと、イラっとしたが、
「もらっとけよ、おじさん!」
琉生が言った。
「どうせ、人の価値をカネで換算しかできない家柄なんだろうから。残高見て、藍子の額に見合ってなければもっともらったっていいんじゃないか?」
琉生の毒舌は、時に的を得ているから怖い。
「でも…」
お父さんは、意地でも受け取りたくない様子だった。
「お父さん。預かっといて」
私は琉生に加勢した。私の言葉を聞くと、ようやくお父さんは、
「じゃあ、お預かりします」
と言って受け取った。
「それじゃそろそろ帰ろうぜ、我が家はいいぞ!気も使わないし快適だ」
琉生はさらに勇次郎を挑発するように言ったが、勇次郎は顔色ひとつ変えなかった。琉生に言われて、ようやく勇哉と私は離れた。そして、
「まっすぐ育ってくれて本当にありがとう。あまり一緒にいる時間取れなかったけど、本当に立派に育ってくれてありがとう。これからも元気でまっすぐ居てね」
私がそう言うと、勇哉は声にならなかったようで、何度も頷いた。勇哉も泣いていたのだ。私の涙を拭いたハンカチで自分の涙も拭いていた。そんな顔されたら後ろ髪を引かれてしまう。
勇次郎に未練などまったくない。でも勇哉との別れは、どうしようもなく辛かった。断腸の思いという表現があるが、まさに今、その言葉がピッタリだと感じた。しかし、ここは20年以上連れ添った相手だと、覚悟を決めて、勇次郎の前に行くと、
「今までお世話になりました。今後は治療が続く限り、よろしくお願いします」
と軽く頭を下げた。さっきのように深々と下げては、また迷惑をかけてしまうからだ。勇次郎は、こちらは向いているが反応はしなかった。そういう人だ。別に気にならない。自分が言うべきことをしっかり言えればそれでいいと私は思っていた。
「育ちが良くても常識ないんじゃ人として最低だな」
琉生!ここは黙っとけ!と私は思ったが、琉生にそう言われても勇次郎は、何も反応しなかった。何となく、様子がいつもと違う気がしたが、どう違うのかと聞かれても答えられない、初めて見る反応にも思えた。
私たちは、琉生の言葉を最後に、病室をあとにした。最後まで何度も振り返り、勇哉に手を振った。勇哉は、手を振り返さない。ずっと涙をこらえている…そんな感じで両手はおろしたまま握りしめていた。
**********
病室を出て、ナースステーションを通った時、私に気付いて看護師たちがステーションから出てきてくれた。
「藍子さん、無理しないでくださいね」
「藍子さん、歩いて帰るんですか?車椅子で駐車場まで行きます?ひとりで操作しなくても大丈夫じゃないですか?」
「車椅子、持ってきて!」
「藍子さん、ちゃんと月に一度は顔見せてくださいね」
看護師たちは、それぞれが私に対しての優しさいっぱいの言葉をかけてくれた。
「お世話になりました。あ、車椅子は大丈夫です。これからは自力で歩かなくちゃ!」
私は、お礼を言いながら車椅子を拒否した。自宅は昔ながらの段差だらけの家。車椅子に頼るわけにはいかないのだ。琉生が支えてくれているので、このまま歩いて行けそうな気もしていた。
病棟を出てエレベーターに乗ると、さすがに入院後初めての距離を歩いたせいか、既に疲れてしまっている自分に落胆した。こんなことで家に帰って家の中を歩けるのか不安にもなっていた。
「大丈夫か?おばあさん」
「誰がおばあさんよ!」
「藍子」
「私がおばあさんだったら琉生だっておじいさんじゃん!同い年なんだから!」
「俺は日頃鍛えてるから若者と変わらない」
「見た目は完全におっさんじゃん」
「それだけ元気なら駐車場まで歩けるな」
やはり最後にお父さんが参加してくるのだ。これからはこのパターンが続くのかもしれないと思うだけで、ちょっと楽しくなってきた。心は、勇哉との別れに切なくなっている心と、これから本当に家に帰れる嬉しい心が、交互に顔を出していた。
何とか駐車場までたどり着き、さすがにこれ以上歩くのは無理だと思っていた私はホッとした。琉生の車はステーションワゴンタイプの車だった。乗り降りがちょうどいい高さでありがたかった。
私は、後部座席に案内された。辛くなったらすぐに横になれるようにとのことだった。そういうことを考えつくのも琉生のいいところだ。私は、素直に後部座席に座った。
**********
車で、約1時間ほどかかる道のりは、車の揺れも心地良く、すぐに眠りについてしまった私は、家に着く頃には、座った状態から横になった状態になっていた。いつの間にか、横にしてくれていたようだ。
懐かしい家の前に車が停まり、
「おかえり。藍子」
とお父さんと琉生がほぼ同時に言ってくれた。
「ただいま」
私はちょっと気恥ずかしかったが、そう言って起き上がり、車から降りた。まず驚いたのが、玄関が変わっているのだ。そこには、今までの玄関から、スロープ付きの玄関へと姿を変えていた。
「えっ?」
「なんか、いろいろ愛川先生と相談して、藍子が住みやすいモデルを教えてもらったんだ」
驚いている私に、お父さんはそう言った。
「さぁ!中に入ろう!」
お父さんはさらに私を中へと促した。中に入ると、これまた驚きが待っていた。段差だらけだった家の中はキレイにリフォームされ、バリアフリーになっていたのだ。万が一車椅子での退院となった場合を想定して、ここも愛川と相談して改造してくれたようだ。
昔、私の部屋は2階だったが、今は1階の、以前お父さんとお母さんが使っていた部屋を和室から洋室に変えてくれていた。
「ここが今日から藍子の部屋だ。さすがに2階に行くのは厳しいと思ってて。車椅子で帰ってくると思ってたし」
お父さんは私が驚きのせいで一言も声が出せないことが楽しかったようだ。いわゆるサプライズ大成功的な顔で説明していた。
「ありがとう…」
私は、この一言を言うのが精一杯だった。
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