第11話 妻の役割と嫁の役割と…
~藍子視点~
私が結婚してからの
私が琉生の就活時代を知ったのは、琉生が大学を卒業して、とある製薬会社に就職して数年後だった。家にあった経済誌にその製薬会社が特集されていて、なんと琉生がインタビューに答えていたのだ。
なかなか真面目に研究を重ね、ある程度の地位と信用を得たという経緯がそこにはあった。琉生は、逢えなかった20数年で、私が知っている琉生ではなくなっていた。でもそれはいい意味で…だ。
もっとたくさん逢えていたら、成長をこの目で確かめられていたのに。すっかり成長してから逢っても、その成長過程でのツッコミどころを見逃している私は、久々に逢えた琉生に対して、何もツッコむことができなかったのは正直悔しかった。
それでも、久々に琉生の顔を見た瞬間、空白の時間は一瞬で埋まったような気がした。
私が結婚を決めた時、琉生は反対していた。琉生だけじゃない。私を知っている人は全員反対だった。私の結婚は、ただ子孫を残す為だけの結婚だったからだ。知り合いはもちろん、家族との接触も禁止されての結婚に、周囲は納得するはずがなかった。それでも私が結婚を決めた理由は、「誰かに頼りにされると断れない性格が災いしたせい」だった。
結婚相手である鎌倉勇次郎は私より10歳年上だった。結婚を強く望んでいたが、相手が見つからない時、私が勇次郎のいる会社に入社した。私の仕事を見て、結婚相手にふさわしいと判断して、声をかけてきた。数々の検査や試験を毎週のように受けさせられ、すべてにおいて鎌倉家が求める数値以上が出たとかで、結婚が決まった。そう。私は一度も勇次郎を好きだと思ったことはなかった。ただ、勇次郎と私のDNAを持って産まれてくる鎌倉家の子孫がほしいだけだと最初からハッキリ言われていた。
結婚とは、こんなふうに決めていいとは思っていなかった。でも、鎌倉家は私を望んでいた。誰かに望まれたり頼られたりすると、どうしても断れない性格のせいで恋愛感情が湧かないまま結婚となってしまった。その後、私の周辺の人間とは一切の縁を切るようにと言われた時は、さすがにおかしな結婚だと気付き、何度も断った。
しかし、この先理想のDNAの持ち主と出会える保証はない上に、勇次郎の32歳という年齢的なこともあり、一度は結婚をしてもらう、別れるなら鎌倉家に子孫を残し、その子孫が成人して会社を継ぎ、一人前として認められた時だと言われた。私が自由になるためには、子供を早く産んで、早く一人前にするしか方法はなかった。
結婚してからの私は、一日中家事をしていることが多かった。私なりにこなしている家事でも、義母が訪ねてきてはやり直しを命じられた。あまり人のことで愚痴を言いたくはないが、「これが嫁いびりというものか。心の狭い姑がやることだが、毎日家にきてチェックするのは、いい加減やめてくれないか?」と義母に対しての要望は日々募っていった。
と言っても、その愚痴を誰かに吐き出せる環境は、私にはなかったのだが。
そんなある日。私は妊娠をした。鎌倉家の人間は、喜ぶどころか、「ようやくか」が第一声だった。それは、勇次郎も同じだった。「妊娠が遅すぎだ」と日々責め続けていた鎌倉家の人間は、妊娠が分かった時には呆れたような反応だった。それでも私はこの家から自由になれるチャンスがもらえたとひとりで喜びを噛みしめていた。結婚後3年が過ぎた25歳の時だった。
幸い、子供は順調に育ち、鎌倉家待望の子孫を出産することができた。妊娠中でも妊娠前と変わらず妻としての家事や夫の相手をこなし、嫁としては義両親の要望をこなす毎日だったが、体調が優れない時には無理をしなくていいと、義母が家事を手伝ってくれることもあった。
子供に何かあっては困るからという理由はあったが、それでも無理なく出産までの日々を過ごせたことは、鎌倉家に嫁いで唯一の私が思い描いていた結婚生活だったかもしれない。
子供は男の子だった。これも鎌倉家にとっては望んでいた結果だった。私が自由になるためには、この子を無事に育て上げ、成人させることが条件だったので必死に子育てに集中した。時には家事をおろそかにするほど教育に没頭したが、それに関しては文句を言う人は誰もいなかった。
子供は、素直に育ってくれた。鎌倉家というところは、感情を
それでも誰もいない部屋では、子供に童話を読み聞かせたり、一緒に歌を歌ったりしていたが、楽しむことはふたりだけの時だけだと常に伝えていた。最初は、理解してもらえなかったが、やがて空気を読める子に成長していった。これも鎌倉家に嫁いで、人間らしく過ごせた貴重な時間でもあった。
私は、子供との時間が一番幸せだったのだ。
ところが、子供が高校に入学する時期になると少しずつ環境が変わってきたことに気がついた。夫の勇次郎が手間をかけるようになったのだ。手間をかけるとはどういうことかと疑問に思う人もいるだろう。簡単にいうと「それまで自分でやっていたことをやらなくなった」ということだ。
例えば、朝はひとりで起きなくなった。時間になるとまるでアラームのように私が起こしに行くのが当たり前になった。一度で起きない日も多々あったが起きるまで何度もキッチンと寝室を往復する毎日。スマホの歩数計は家から一歩も出ないのにも関わらず、常に1万歩以上を示すようになっていた。
家に取引先を招待することもあった鎌倉家は、家族3人には広すぎる家だったのだが、キッチンから寝室まで行くだけで歩数計は50歩を超えることもあった。キッチンが1階で、寝室が2階。階段は家のほぼ中央にあるため、キッチンから階段に行くのだって正直手間だった。その距離を毎朝何往復もするのだから私は家に居ながらにしてウォーキングをしているのと同じくらいの運動量だったのだ。
ようやく起きてくれば、既にテーブルに並んだ朝食が冷めていれば温め直しを要求し、食事が済めばすぐに出勤の支度をするため席を立つ。テーブルには完食した食器だけが並んでいた。それを片付けるのは私の仕事。子供は食べ終わった食器は小学校に上がった頃から自分でキッチンまで持って来てくれる。それは、勇次郎が教えたことで、当時は勇次郎も手本となるかのようにやっていたのだ。しかし今は、それすらしなくなっていた。
そして、支度が終われば出勤の際に私はどんなに手が離せないことをやっていても玄関までの見送りを要求されていた。毎日のことなので、勇次郎が出勤する時間には手が離せないような家事はやらないようになった。
私は勇次郎が家にいる時には、食事すらできない生活を送っていた。鎌倉家の妻はみんな家族と一緒に食事をすることはなく、家族が寝ている間や出掛けた後に食事をするのが昔からのしきたりだと義母からも聞いていたので、結婚してからずっとそれは守ってきた。つまり、勇次郎が休みの日でどこにも外出しない時には私は食事をする時間がないということだ。数日の連休でも外出しなければ私に食事の時間は許されなかった。
一度、勇次郎が自室にいる時に、私はキッチンで家族の食事の支度をしたついでに、自分もそこで食べたことがあった。しかし、運悪く、勇次郎がキッチンに来て「何をしてる?」と冷ややかに聞いてきたことがあった。その言い方が、人の声とは思えないほど無感情で、冷たくて、怖かった私は、それ以降、隠れて食事をすることすらなくなったのだ。
これは、妻の役割でも嫁の役割でもなく、奴隷の役割だと私は思っていた。いまどきこんな待遇が許されるものなのかと疑問に思ったが、最初から私の中の常識とはまったく異なる常識なのだから、受け入れるしかなかった。
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