第32話 鎌倉家の変化

 藍子が退院して半年。藍子の生活は、毎日穏やかに過ぎていた。一方、鎌倉家には少しずつ変化が訪れていた。一番の変化は、勇哉が鎌倉の実家を出ようとしていたことだ。


大学3年となった勇哉は、就職活動の日々が始まったのだ。末は鎌倉グループを継ぐという立場はあったが、最初の就職先は、鎌倉グループ以外の企業にしたいと考えていた勇哉だったが、現実は甘くない。


どこの企業も、勇哉が鎌倉グループの跡継ぎだということは承知なのだ。つまり、面接さえしてもらえない。考えればそうだろう。採用したとしてもいずれは辞めてしまうことが分かっている人材を引き受けようとするところなどあるはずがない。


 結局、勇哉は就職活動から3ヶ月後の9月に鎌倉グループの傘下である企業に内定した。自分の運命がこんなにも普通に生きられないものなのかと思い知らされた勇哉だったが、いずれは鎌倉家を変えていきたいという野望がある勇哉にとって、こういう運命も変えていくひとつだと前向きに捉え、自分ではなく、そのあとの世代が少しでも暮らしやすいような環境をと考えていたのだ。


 内定といってもまだ大学3年だ。本格的に就職活動が始まるのは4年生になってからなので、勇哉は友人に内定が決まったことは伏せておいた。その上で、残りの大学生活を過ごすのだ。


勇哉は、残りの課程をこなしつつ、独学で経営学や心理学などを学んでいた。「鎌倉家を変える」という野望があっても、そのやり方などは一切イメージできていない。人の心をもっと知り、その上で経営学も学び、自分なりの経営方針にいずれ変えられたらと願っていた。長年、同じような方法で大企業になってきたのだから、もしかしたら自分の代で何かを変えることにより、衰退していく可能性もある。


そんなことも考えつつ、そうならない方法を見つけなければいけないのだ。しかし、鎌倉家にいては、ほぼプライベートはない。自室はあっても自由に出入りが出来るため、自分がない間に父親や祖母が入っても何も言えないのだ。


自室に余計なものを置いておくわけにもいかない。そこで、考えたのは、”鎌倉家を出て一人暮らしをする”ことだった。


 内定が決まった日。勇哉は、父、勇次郎に家を出たい旨を伝えた。

藍子がいなくなった後、勇次郎は昔ほど威圧感のある冷血人間ではなくなっていた。正確には、勇次郎自身は以前と変わらないように振舞っているが、勇哉から見ると、どこか心ここにあらずだった。


「もしかしたら、お父さんはお母さんと離婚したくなかったのでは?」と勇哉は考えた。鎌倉家のしきたりに沿って、子供が成人したのち、離婚か継続かを決めることになっていたため、余命わずかの藍子を自由にしようと考え、一方的に離婚を決めたのではないか?と推測したのだ。


 勇哉の推測は、正しかった。勇次郎は、藍子が倒れる数年前から、藍子への感情が愛情に変わっていたことに気が付いていた。しかし、藍子は勇哉が社会人になったタイミングで自由になりたいことも充分理解していた。そこで、自分の感情を封印するため、敢えて藍子に冷たく当たっていたのだ。


自分の感情の変化に気づけば、藍子の決心が揺らぐことも分かっていたからだ。


「お父さん。今後のことをひとりで考えたいので、卒業前にこの家を出たいと考えています」


勇哉との時間を作ってくれた勇次郎にそう告げた勇哉を見ながら、


「この家では考えられないというのか?」


勇次郎が尋ねると、


「この家にはプライベートがありません。俺は、ひとりでじっくりと考えたいと思っています」


勇哉は、まっすぐ勇次郎を見ながら伝えた。


「何を考えたいというのだ?」

「これからの鎌倉家についてです。今までの鎌倉家は、異常です。俺が見る限り、お父さんも異常です。この先、俺はこの家のしきたりに従うつもりはありません。どこかで変えなければ、お母さんのような不幸な女性が続くことになります」

「お前ひとりで何が変えられるというのだ?」

「それを含めてじっくり考えたいのです。お父さんだって、一度くらいはこの家のしきたりに疑問を抱いたことはないですか?」

「…ないな」

「そうですか。では俺が何を言っても理解してもらえないと思いますので、それは求めません。ですが、俺は今後鎌倉をまとめなくてはいけない立場になれた時には、今のようなスタイルを引き継ぐつもりはありません。それでは跡を継がせないというのなら、それはそれで構いません」


勇哉は、勇次郎がしきたりに疑問を抱いたことがないかと尋ねた時の一瞬の”間”を聞き逃さなかった。おそらく勇次郎にも疑問を抱いた時期はあったのだと直感した上で、敢えて自分の考えを伝えたのだ。


勇次郎は、勇哉の言葉を聞いても、表情こそ変えなかったが、何かを感じていたのは間違いなさそうだ。


「好きにすればいい。跡を継げるかどうかはまだ先の話だ。決定でもないから跡を継がせるのにふさわしいかどうか、今は分からない。ひとりで何ができるか知らないが、お前がやりたいようにすればいい。結論が出たらまた話を聞いてやる」


反対すると思っていたが、勇次郎はあっさり家を出ることを了承した。


「ありがとうございます。それではさっそく部屋を探します。家を出るに当たり、今後は、鎌倉家の支援は必要ありません。俺が勝手に出るので、支援してもらえる立場ではないですから」


勇哉がそう言うと、


「学費は親の義務だ。そこは支援ではない。しかし、部屋を借りる支援は一切しない。それでいいな」


勇次郎はそう言った。勇哉も必要以上の拒否は無駄だと感じ、了承した。


「一人暮らしをするために必要な資金はどうするつもりだ?」


勇次郎は、やはり親なのだ。そこは心配だったのだろう。実際、ひとり暮らしなどしたことがない勇次郎にとって、どれくらい必要なのか、検討もつかなかった話だ。


「大学入学時より、学内でアルバイトのようなことをしておりましたので心配いりません」


勇哉から予想外の言葉が出たのか、勇次郎は一瞬驚いた表情をした。親子で話しをしていても勇次郎の表情が変わることは滅多にない。怒りの表情に変わることはあっても驚愕の表情は、勇哉が覚えている限りの記憶の中にはない。


 勇哉は、学内の管理システムを確立するプログラムを作っていたのだ。プログラミングが得意になったのは、大学に進学する前からだったが、それを知っている鎌倉の人間は、藍子だけだった。プログラミングは鎌倉グループに職種ではなかったからだ。そんなことが得意でもなんの利点もないと罵られることを藍子は分かっていた。


だからこそ、勇哉にも敢えて伝える必要はないと言っておいたのだ。このプログラムシステムが完成したのは大学2年の頃。その際、報酬は支払われていた。さらに今後は、定期的にアップロードやメンテナンスなどもしていくため、定期的に報酬は入ってくることが確立していた。


 勇哉の決意を感じた勇次郎は、その後何も言わず、話しはそこで終了した。

それからほどなくして、勇哉は部屋を見つけ、鎌倉の家から出た。勇哉が家を出ることを後から知らされた勇次郎の母は、激高したが、勇次郎が何かを告げ、怒りは収まったようだ。何をどんなふうに告げたのかは、勇次郎と母親のふたりしか知らない。


 勇哉が鎌倉の家から出たあと、広い家には、勇次郎と母親だけになった。この頃から、母親はしきりに勇次郎に再婚を勧めるようになっていた。跡継ぎは既にいるため、再婚相手選びは、藍子を決めた時よりかなり粗雑なものだったが、勇次郎自身に再婚の意思がなかったため、難航していた。


 母親も高齢だ。家事をするにも限界があったのだろう。この頃から体調を崩しがちになり、寝込むこともあった。勇次郎の世話は、外部から雇った家政婦がやるようになった。母親が寝込んでいる時には、家政婦と看護師が鎌倉の家に泊まることもたびたびとなり、やがて、住み込みとなっていった。それほど母親の衰弱が進んでいたのだ。


 改めてひとりでは、仕事以外のことは何も出来ない自分を思い知らさせていた勇次郎は、藍子に戻ってきてほしいとさえ思うようになっていたが、表向き、藍子は死別だ。再び復縁することは叶わない。


しかし、藍子への愛情は日ごとに募っていった。

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