第15話 再会と対決
それから私は、24時間点滴の生活を続けることになった。点滴は1日4回ほど交換があって、寝ている間に新しいものに交換されることもあった。病棟看護師たちは、本当に頭が下がるほど患者たちのために日々働いてくれていると感謝していた。
入院生活が1週間を過ぎた頃、久々に勇次郎が見舞いに来た。この1週間で私は、食事は通常のものになり、呼吸困難になることもなく平穏な日々を送っていたが、勇次郎の顔を見た瞬間、過呼吸となり急遽酸素マスクを装着された。
いつの間にか、勇次郎のいない環境の心地良さを実感していたようだ。見舞いにこないことすら幸せを感じていたことに改めて気付かされた。看護師が、
「ご主人がきてくれて嬉しくなったのかもしれませんね」
と酸素マスクを装着しながら気を遣っていたが、勇次郎は顔色ひとつ変えず、
「ご面倒をおかけしてすみません。すぐに帰りますから」
と看護師に伝えた。
看護師は一瞬、声かけを間違えたかという顔をしたが、勇次郎に軽く会釈をして病室から出て行った。それを見届けた勇次郎は、
「ここを退院したら、実家に戻れるようにお前の父親には話をしておいた。ここも伝えておいたから、もしかしたら様子を見に来るかもしれない。結婚の条件は、すべて解除するから別に来てもらっても俺たちは文句は言わない。安心しろ」
と私に向かって言った。
「お父さんに逢ってもいいんですか?」
点滴のおかげなのか、この頃の私は声を出すこともできるようになっていた。今まで通りというわけにはいかないが、少なくとも入院したてのカスカスした息にほんの少し音がついた程度ではなくなっていた。
「退院が決まったら、離婚届を提出できるように必要なことを書いて持ってきたから、お前も必要事項を記入しておいてくれ。来週来た時に受け取るから。退院日が決まったらその日に合わせて提出しておく。お前の私物は、今週実家に届けておくし、退院日にはお前を実家まで送る」
勇次郎の説明だと、本当に私はもう鎌倉家には戻らないようだったので、一番気になっていたことを尋ねた。
「勇哉は?私はもう勇哉には逢えないんですか?」
私がそう尋ねると、
「もうお前の役目は終わったんだから、勇哉と逢う必要はないだろ?」
と顔色ひとつ変えずに答えた。
「今回のこと、勇哉には説明してくれましたか?」
なおも私が勇哉について尋ねると、
「勇哉ももう大人だ。事情は説明したし、納得もしてる。逢う気もないと言っていた」
勇次郎は、私の質問に淡々と答えていた。でも私が聞きたかったのは、どんな事情の説明をして、なぜ勇哉が逢う気がないと判断したのかだった。
でもそれは、呼吸が続かず断念した。
「そうですか…。お手数をおかけしますが退院の日も宜しくお願いします」
私はそう言うしかなかった。
勇次郎は、離婚届をサイドテーブルに置いた。勇次郎が書くべき欄はすべて埋まっていて、私の書くべき欄にはすでに押印されていた。ここにはハンコがないから、先に押印してくれたのだと分かったが、何の躊躇もなくきれいに押された印影を見ると、今までの結婚生活はなんだったのか、本当に子孫を残す為だけだったのかと人権をすべてを否定された気がして少し落ち込んだ。
自由になれる日を心待ちにしていたはずなのに、なぜこんな感情が湧いてくるのか、自分でも分からなかった。でも約束さえ果たせば、こんなにあっさり自由になれるものなのかと気が抜けた感覚にも襲われていた。
勇次郎が離婚届をテーブルに置いて、帰ろうとした時、病室のドアをノックする音が聞こえた。勇次郎が返事をするとドアが開き、お父さんが顔を覗かせた。
その容姿は、本当に自分の父親なのか?祖父ではないのか?と思うほどの変わりようだったが、間違いなくお父さん本人だった。私は、自然に溢れ出す涙を抑えることができなかった。
「ご無沙汰しております。この度は、お嬢さんの病気に気づかず悪化させてしまい申し訳ありませんでした。回復し、退院した際にはお嬢さんをお返ししますのでよろしくお願いします。先日もお話ししました通り、退院後の治療についても費用は鎌倉で持たせていただきますので、ご安心ください」
勇次郎は、お父さんを見るとそちらに向きを変え深々と頭を下げながら言った。それを見たお父さんは、同じように深々と頭を下げたあと、勇次郎を通り越し私のところに来てくれた。
「藍子。大変だったな。よく頑張ったな」
お父さんのその一言は、私の涙をさらに加速させた。あまりに涙が止まらないせいで、酸素マスクをしていても呼吸が苦しくなってしまった。
「藍子!大丈夫か?!」
お父さんは、慌てて何度も私を呼んでくれた。
そんな父を見ても、私が苦しそうにしていても、勇次郎は慌てることもなくナースコールを押すと、
「ちょっと苦しそうなので様子を見てください」
と伝えるだけだった。
お父さんの慌てる様を見て、申し訳ない気持ちでいっぱいになったが、自分ではどうすることもできないほど苦しくて、『大丈夫だ』と伝えることすらできない私を見ても勇次郎は顔色ひとつ変えなかった。いや、正確には私の方すら見ていなかった。
すぐに看護師がきてくれて、
「鎌倉さん、ゆっくり息を吸ったり吐いたりしてください。落ち着いてください。少し酸素の量を上げますから、ゆっくり吸ってください。…はい。ゆっくり吐いてください」
と背中をさすりながら指示してくれた。私もその指示に懸命に応えようとしたが、とにかく呼吸が合わない。吸おうとしても吸えず、吐こうとしても吐けず、このまま死んでしまうのではないかと思うほど息苦しくなった。
「慌てなくて大丈夫ですよ。鎌倉さんのタイミングでいいですからね」
看護師は、背中をさする手を休めることなく、指示を続けてくれた。私もなんとか呼吸しようとタイミングを計っていた。
しばらくすると、呼吸も段々しやすくなった。看護師の指示に従うこともできるようになった。
「もう大丈夫ですね」
看護師は、笑顔で私に向かってそういうと、勇次郎の方を向き、
「今日は、このくらいにしてください」
と帰るように促した。
「はい」
勇次郎は素直に返事をして、
「よろしくお願いします」
と伝え看護師に一礼すると、父や私に一言もなく病室を後にした。
残された父は、
「父さんも帰った方がいいな」
と私の肩を軽く叩き、ドアへと向かおうとした。すると、
「藍子さんのお父様ですよね。ずっと藍子さんは逢いたいと思っていましたので、お時間がありましたらもう少しいてあげてください。藍子さん、夜中に寝言で『お父さん』って何度も言ってたんですよ」
と看護師はお父さんに向かって笑顔で伝えた。
〈寝言で『お父さん』って言ってた?〉
そんなこと、言われたことがなかった私は、看護師の言葉に驚いた。驚いている私を見て、
「言ったら恥ずかしいかな?って思って今まで教えなかったんですよ。他の看護師も聞いてますから、多分相当お父様の夢を見ていたんでしょうね。言わない方が良かったかしら?」
看護師は、悪戯っぽい顔で微笑んで言った。
その顔を見て、私は驚くほど呼吸がラクになり、気持ちが落ち着いてきた。
「いえ。教えてくれてありがとうございます」
正直、寝言で父親を呼ぶ40歳半ばってどうなんだろう?とも思ったが、父親に逢いたかったのは本当のことなので、そこは素直に感謝を述べた。
**********
病室を出た勇次郎は、足早に出口に向かっていた。
ここから先は、私が実際に見ていたわけではないのだが、あとで琉生から聞いた出来事だ。
「初めまして」
聞き慣れない声に勇次郎は足を止めた。勇次郎は、目の前に立った男に見覚えがあったようで、急に目が吊り上がった。そして、
「藍子の幼馴染さん、たしか琉生さんですよね。どうしてここにいるんですか?」
明らかに、先ほど藍子に淡々と話していたトーンとは違い、威嚇を含めた口調で勇次郎は言った。
「お父さん、車の運転ができないんでね。送ってきたんですよ。何か問題ありましたか?」
琉生は、静かなトーンで答えた。
「いえ別に」
勇次郎は、そういうと琉生の横を通り過ぎようとした。
「どうだった?あんたたちが求めてたDNAとやらが子供に引き継がれたか?」
ちょうど琉生の真横に勇次郎がきた時、琉生は尋ねた。その言葉に勇次郎は足を止め、琉生を睨んだ。
「用が済んで、病気になったら『もういらないから返却する』って、藍子はレンタル品か何かか?俺はあいつを人間だと思って接してきたんだが、あんたは人間だと思わないで接してきたのか?あいつのこと、なんだと思ってんだ?」
琉生も勇次郎を睨みながら言った。
勇次郎は、琉生の質問に答えることなく、
「失礼します」
と言うと、再び足を前に出した。
「あんた最低な奴だな。子供もあんたのDNAが入ってるんじゃ、ロクな奴に育たないだろうな。人としていいものが半分しか入ってないんだもんな。そんで、そいつもいつか、結婚して、藍子みたいな不幸な女性を犠牲にするんだな。あんたんとこの会社は、そんな不幸な女性の犠牲によって成長する会社なんだろうな。立派な会社だな」
勇次郎の後ろ姿に向かって琉生は、続けたが勇次郎はそれに応えることなく病棟から立ち去った。
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