第16話 夢と現実
このときは、琉生と勇次郎が、廊下で交わした会話など知らずに私は、父との再会がまるで夢の中なのではないかと、まだ信じられないでいた。
「お父さん、老けたね」
「藍子もな」
他愛もない会話だった。でもこれが夢ではなく、現実なのだと実感していた。そこへ、再び病室のドアをノックする音が聞こえた。
私は、一瞬、〈また勇次郎が戻ってきたのではないか?〉と緊張した。お父さんが、ドアを開けると、また夢なのではないかと思える光景があった。
「よっ!」
そこにあったのは、お父さんの次に逢いたかった顔だった。
「琉生?」
本物なのか、確信が持てないほど貫禄のある男性。でも声や雰囲気は、間違いなく琉生そのものだった。
「おう!藍子、老けたな」
琉生は、あの日(といってもまだ1週間しか経っていないが)と偶然逢った駅の改札で『どんくさいな』と言ったあの声で、あの日と同じように目がなくなるくらいの笑顔で、今、目の前に立っているのだ。
「琉生は…貫禄ついたね。もういじめられないな」
私は、また過呼吸を起こさないように、静かに言った。そして、
「やっぱり、これって夢?」
とお父さんに向かって尋ねた。
「琉生がここまで送ってくれたんだ。夢じゃない。現実だ」
お父さんに言われ、心臓が急に高まってしまった。涙が再び溢れて、呼吸もリズムが崩れそうになった。
「ゆっくり吸ってくださ~い。はい、ゆっくり吐いてくださ~い…って看護師、さっき言ってたよな」
琉生はそう言いながら、私のそばに来て背中をゆっくりとさすってくれた。琉生の手から温かさを感じ、夢ではないことを実感した。
その手は、看護師の手より温かくて優しかった。
「バカ…それ…聞いてた…なら…入ってこ…いっての…」
私が言うと、
「ごめんな。ホントは逢わないつもりだったんだ。また藍子を困らせるかな?って思って」
と背中をさすりながら琉生は言った。優しいところ、いつも私を心配してくれるところ、何も変わってないことが嬉しかった。
呼吸は、少しずつ落ち着いてきて、過呼吸にならずに済んだ。
「緊張したら、喉が渇いた。廊下に自販機あったよな?父さん、なんか買ってくる。琉生、コーヒーでいいか?藍子は…飲んでもいいのかな?」
お父さんが、聞いてきた。
「私は、水分調整してるから飲めないの。お父さんと琉生の分だけでいいよ」
私が答えると、
「俺、ブラックがいい♪」
琉生が注文を付けた。お父さんは、指でOKを作り、病室を出て行った。
琉生とふたりきりになるのは、『もう逢えない』と報告した琉生の部屋以来だった。あれから20数年が過ぎているというのに、私たちの間に、変な緊張感もよそよそしさもなかった。
「あの日、倒れたんだってな」
琉生が言ったあの日とは、琉生と偶然改札であった日のことだ。あれからまだ1週間しか経っていないというのに、もうずいぶん逢っていない気がしていた。
「うん…」
私は、小さく頷きながら短く答えた。
「俺、声、掛けなければ良かったかな?ってずっと考えてたんだ。俺が声かけなかったら藍子は倒れずに済んだんじゃないかな?って」
琉生は、ベッドの横にある椅子に座りながら、頭を掻いて言った。琉生が困った時によくする仕草だ。ベタだが、琉生の行動は分かりやすくすぐに感情が分かる。
「違うよ。それは関係ない。いろんなことが重なって、たまたまあの日に倒れただけ」
私が言うと、
「いろんなことが…か。藍子はどんな生活を送ってたんだ?俺が聞いてもいいか、分からないけど…」
琉生がまた頭を掻きながら言った。
私は、そんな琉生の仕草が懐かしくて、ちょっとからかいたくなった。
「いろんなことは、いろんなことだよ。琉生には…言いたくないな」
「えっ?聞いたらダメなやつ?」
琉生は、驚いた顔をしてさらに頭を掻いた。
「うそ!でも話し始めたらすごく長くなるやつ」
私がそう言うと、
「全部聞く!今日で足りなかったら、また来るし、それでも足りなかったら帰って来たらじっくり聞く!一晩中でも二晩中でも聞く!」
今度は、頭を掻かず、身を乗り出して言ってくれた。
〈帰って来たら…か。そうだ!私はもう鎌倉の家に帰らなくていいんだ〉
琉生の言葉に、ふと離婚届に目をやりながら思った。私の視線の先を琉生も見た。
「何これ?もう準備してんの?マジであの家、おかしいだろ!」
琉生は離婚届を手に取って眺めながら言った。
「おかしいのは、最初から分かってた。でもこれでやっと自由になれるんだから、もういいよ」
私が言うと、
「何がいいの?」
琉生が離婚届を持ったまま尋ねてきた。
「もともと、子供が就職するまでって話しだったし。それがちょっと早く自由になれたんだから、ラッキーだったかな?って思って」
私が言うと、
「藍子…お前、最後に笑ったの、いつだ?」
突然琉生が聞いてきた。
「えっ?」
私は驚いて、言葉が続かなくなった。
「ずっと笑ってなかっただろ?顔が硬い!」
琉生は、自分の頬を両手で上下に動かしながら言った。その顔があまりにブサイクで凝り固まった口角が自然と上に上がった。
「ダメダメ!全然笑ってないよ。…あ、酸素マスクがあるからか?」
ちょうど両手が頬を下に動かした瞬間にそう言った琉生を見たら、顔の緊張がほどけていくのを感じ、私はさっきより口角が上がったような気がした。
そんな私を見ながら、
「ま、これからはその表情筋をもっと柔らかくしてやる!」
と言い、今度は、左右の手を交互に上下に動かして見せた。
「ブッサイクな顔!」
私は、笑っているように見えなくても心の底から笑っていた。
こんなに穏やかな気持ちになれたのは、何十年ぶりだろう?ってくらい懐かしく感じた。
私は、琉生が好きなんだ。あの日、『もう逢えない』と告げた日、琉生に腐れ縁として好きだと言われてショックだったことは、この先も多分琉生には言わないと思うけれど、私は幼い頃から琉生が好きだった。
好きだから、琉生に彼女ができれば素直に応援したくなったし、私の恋も応援してほしいと思っていた。でも心のどこかで、琉生の隣りは私の指定席だという気持ちがあったのも確かだ。
〈そういえば、琉生は結婚してるんだろうか?〉
私は、まだ顔に乗っている琉生の両手に目をやった。左手薬指に指輪がないことを確認して、
「琉生、結婚してないの?」
つい、心の声が外に漏れて焦った。私の質問に、琉生は、
「してないよ。結婚って相手がいないと出来ないんだよ。知らなかった?」
と即答した。
「…知ってるし!」
私は、思わず琉生がいる反対側に顔を向けて言った。
「おぉ!知ってたか!なら優秀だ!」
そう言いながら琉生は、顔に置いてあった両手を合わせて拍手をした。
「バカ琉生!」
そうは言ったが、こんな他愛もない会話ができることにホッとしている自分がいた。
私は、廊下で私たちの会話を黙って聞いていたお父さんの存在をすっかり忘れていた。
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