第20話 勇哉との別れ

 しばらく病室を行ったり来たりしていた勇哉を私は黙って見つめていた。勇哉なりにいろいろ考えているのだろうと思ったからだ。そんな私の視線に気づいているのかいないのかは分からなかったが、勇哉はふと立ち止まりドアの方に視線を移した。


私も反射的にドアを見た。ドアに窓などはないが、そこに人がいる気配は感じたのだ。病室に一瞬緊張が走った。ドアの向こうにいるのは、愛川なのか、それとも愛川から連絡を受けた勇次郎なのか、この状況をどう説明すればいいのか、勇哉に不利になることはないか、私の頭はフル回転していた。


 勇哉はゆっくりとドアに向かって歩いて行った。そして、ドアを開けようとした瞬間、ノックをする音が聞こえた。


「はい」


これまた反射的に私は答えた。ドアはゆっくりと開き、


「そろそろ消灯ですよ。さすがにこれ以上は面会を許すわけにはいかないので」


そこにいたのは、看護師だった。


勇哉も私も一瞬にして緊張がほどけた。


「すみません。もう帰りますので」


勇哉は看護師に軽く会釈しながら伝えた。私も、


「もうそんな時間だったんですね。すみませんでした」


と伝えた。看護師は、ニッコリと微笑んで、


「愛川先生が様子を見に行くとやきもきしていたのですが、親子の時間の邪魔をしないようにと私が来ました」


と言って、悪戯っぽく舌をペロッと出した。それを見て思わず、私も顔が緩むのを感じた。笑顔が出来ていたかは分からないけれど。


「詳しい事情は分かりませんが、藍子さん、もうすぐ退院ですものね。勇哉さんと話したいこともあるかな?って思って。何となく、愛川先生が来たらいけないような気がして…」


詳しい事情は知らないといいながらも、その対応はある程度知っている対応だ。入院した時からこの病院の看護師はみんな勘が鋭く、優しい対応ばかりだった。


「ありがとうございます」


私は看護師にもう一度お礼を言うと、勇哉に向かって、


「こんなに遅くなってるの、気付かなくてごめんね。暗いけどひとりで帰れる?」


と尋ねた。


「一人じゃ怖いって言っても、一緒に帰るわけにはいかないだろ?大丈夫だよ、俺、いくつだと思われてんだ?」


勇哉はそう言って笑った。


「ねぇ、看護師さん」


勇哉は笑いながら看護師にも同意を求めた。看護師も笑いながら


「ほんとですよね」


と同意してくれた。


こんな穏やかな時間があったことすら私は忘れていた。なんてことない会話が、こんなにも心を温かくするものなのだ。


「では、早めにお帰りくださいね」


看護師はそういうと、その場から去って行った。

それを勇哉は廊下に出て見送りながら、深々と頭を下げていた。人を敬う気持ちもちゃんと育ってる…私は勇哉の姿を見ながら、胸がいっぱいになった。


「俺も時計見るの、忘れてたわ」


勇哉は笑いながらそういうと、


「また来るよ。退院までもう少しあるもんな?」


と言いながら、持ってきた自分のカバンに手を伸ばしていた。


「もう来ない方がいい。今日が最後だよ」


私の言葉に一瞬動作が止まった勇哉に、


「お父さん、勇哉がここに来ることは望んでなかったと思う。勇哉は、鎌倉家に残る者なんだから、居心地を悪くしちゃダメだよ」


と続けた。勇哉から落胆を感じたが、


「最後に、これから忘れてほしくないことを伝えておくね。『心を閉ざさないで』、『人の気持ちが分かる人になって』、『人に感謝したら、ちゃんと言葉で伝えて』、『自分が我慢すればいいとは思わないで』、そして『その人を知りたければ、しっかりと話し合って』私が鎌倉家に嫁いで感じたこと。んで、私が鎌倉家では出来なかったことだからこれから勇哉が出来るかは、分からないけど」


と一気に伝えた。


ここに来たことを勇次郎が知らないはずがない。となればもう勇哉をここに来させることはしないだろう。私が勇哉と逢えるのは、きっと今日が最後だと直感した私は、これだけは伝えておかなければいけないと感じていたのだ。


 勇哉はその言葉を、カバンを持ち上げようとしたところで止まったまま聞いていた。私が言い終わった後もしばらくは動けなかった。


「勇哉。聞いてた?」


私は恐る恐る尋ねた。


「・・・・・」


勇哉は何かを言ったようだったが、聞き取れなかった。


「ん?何?」


私が聞くと、


「お母さんの覚悟ってやつなんだよね。もう俺と逢わないって」


その声は震えていた。それに気づいていたが、


「うん。そういうことかな。それが鎌倉家のやり方だと思うから」


と気づかないふりをして答えた。


「分かった!もう辛い思いしなくていいんだから…元気になってくれよ。…もう我慢しなくていいんだから…長生きしてくれよ!」


勇哉は、カバンを持ち上げ、私の方を向きながら時々言葉に詰まりながらではあったがそう言った。その顔は、とびきりの笑顔だった。


私はその笑顔を見た瞬間、涙が溢れてしまった。泣いてはいけないと思っていたのに、抑えきれなくなってしまった。勇哉が笑って言ってくれた優しさに応えることが出来なかったのだ。


「せっかく笑顔で帰ろうと思ったのに、ダメだろ?」


勇哉はまだ笑顔のままだった。そして、私の方に近づいてくると私を抱きしめてくれた。


「俺、お母さんの子供で良かった。お母さんが俺のお母さんで良かった。ありがとう。俺、絶対に鎌倉家を変える!お母さんみたいな辛い思いをする人をこれ以上、増やさないって約束するよ」


背中から聞こえたその声は、震えていた。勇哉も泣いているのだと分かった。私も思いきり勇哉の背中に手を回し抱きしめた。


勇哉の幼少期にもこんなにしっかりと抱きしめた記憶がなかったくらい強く抱きしめ返した。


 しばらく抱き合った後、勇哉の手の力が抜けるのを感じ、私も自分の手の力を抜いた。離れる直前に、


「…約束してくれよ、長生きするって」


と勇哉は言うと、そのまま私に顔を見せないように走って病室を出て行ってしまった。


ひとり残された病室で、


「一方的すぎだよ…私から別れの言葉、言えなかったし…」


とつぶやいた。その言葉は誰の耳にも届かず、いつまでも部屋を漂っていた。

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