第2話 高校受験と主婦と一人暮らし
お母さんが寝込むようになって、お父さんはあまり家に帰ってこなくなってしまった。たまに帰ってきても、大量の洗濯物を置いていき、新しい着替えを取りに来る程度。時間にしてわずか1時間ほどだったらしい。
食事は外食オンリーになったのか、会うたびに一回りずつ大きくなっていたお父さんを黙って見ながら、藍子は心の中で〈家に帰ってくれば栄養だって考えて食事を作るのに〉と思っていた。
その話を僕はよく聞かされていたが、気の利いたアドバイスも励ましも何も浮かばず黙って聞くことしかできなかった。
いよいよ、志望校を決めなくてはいけない時期にも、お父さんは三者面談には来なかった。もちろんお母さんだって動ける状態ではないので来られない。
藍子は、担任との二者面談で志望校を決め、後日担任がお母さんに報告に訪れてくれた。その時ですらお母さんは起き上がることができず、横になったまま、
「お金の心配はいりません。高校だけは行かせてあげたいので」
と、か細い声で担任に伝えた。担任は、静かに頷き、家を出る時に、
「大変だろうが、俺も高校だけは出ておいた方が将来のためにもいいと思う」
と藍子に伝えて帰って行った。
志望校は、まだ定員に満たない公立校だった。新設校のため、全学年がまだ揃っていない高校で、今年も定員以上の受け入れをするとの情報が担任には入っていたからだ。
僕はその話を聞き、別に行きたい高校もなかったから、藍子と同じ高校を受験することにした。どうしても高校で藍子と離れることが出来なかったからだ。なぜなら、藍子は、こんなに辛い環境ですら、親を恨んだりせず、一人黙々とお母さんの介護をしながらの生活を続けていたからだ。
藍子の環境を分かっている僕がそばにいなくては…。そんなふうに思ってしまっていた。藍子の口から出てくる愚痴は、家事が辛いとか、介護が辛いとかではなく、いつだって、〈お母さんが食事をあまり摂らなくなってしまった〉とか〈お父さんの身体が心配だけど帰ってきてくれないから食事を作ることも出来ない〉など誰かのために何かをしたいのにできない自分への愚痴ばかりだった。僕は、
「たまには、誰かの悪口でも言えば気持ちがスッキリしないか?」
と尋ねたことがあった。
藍子は、
「思いもつかないこと言えないでしょ?
といたずらっぽく笑うだけだった。
ちなみに
みんなが必死で受験勉強をしている中、藍子は塾にも行かず、お母さんの介護の合間に担任からもらった問題集を解いていた。もともと勉強が苦手なタイプなので、受験勉強は苦戦していたようだが。
そんな毎日を過ごし、季節は秋から冬にかかろうという時。
お母さんが施設に入ることになってしまった。二番目の姉が亡くなったあとからずっとうつ病を患っていたのだが、それに伴って認知症にもなっていて、この頃になると昼夜逆転の生活になり、夜中、藍子が寝ている間に家を出て、戻れなくなることが頻繁にあったのだ。
この時ばかりは、お父さんも家に帰ってきて、お母さんを病院に連れて行くと、担当の医者と相談して、施設療養にすると決めたらしい。
藍子は、広い家で一人で暮らすことになってしまった。普通に考えたら、まだ中学生の、しかも女子がひとりで暮らすなんてありえない話だ。でもお父さんは、職場の近くに部屋を借りていて、今更自宅から通うのはイヤだと自宅に戻ることを拒否したのだ。
児童相談所の相談員がきて、藍子を児童養護施設に保護するという話になりそうになったのだが、あと少しで受験であること、もう少しで義務教育は修了することなどを考慮して、僕の家が保護者として名乗りを上げ、そのまま自宅で暮らせることになった。
ちなみに僕の家は藍子の家の隣りだ。一気に何棟も建てた住宅街で、住み始めたのも同じような時期だった両家は、昔から家族ぐるみでの付き合いをしていた。そのへんの付き合いなども保護者になれた理由だったのかもしれない。
藍子の家が住宅街の一番端で、僕の家がその隣り。同じ並びには全部で10棟あり、道路を挟んで向かいも10棟。計20棟が同時期に建てられた家だった。20棟中建てられた当時から住んでいるのは18軒。幸いにもみんな仲がいい。
今回の藍子の件を知ったみんなも協力してくれると言ってくれたのは嬉しかった。
僕は、以前より藍子の家に入り浸ることが多くなった。塾で習ったことを藍子に教えたり、自分の宿題を藍子の家でやったり。
普通ならここで恋愛感情でも芽生えるところなのかもしれないが、僕たちの間には芽生えることはなかった。おそらく種すらなかったのだろう。
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