第36話 勇哉の結婚と別れの時

 勇哉と咲良が清川家を訪ねていて来てから1年が過ぎた。勇次郎の母親の一周忌を終えたタイミングで、ふたりは結婚式を挙げた。藍子は、結婚前に退職したが、咲良はそのまま仕事を続ける選択をした。


勇次郎にも相談し、子供が出来るまでは仕事を続けたいという咲良の希望を受け入れてもらっていたのだ。これだけ、たったこれだけでも勇哉は鎌倉家の長いしきたりを変えることが出来た。


 勇次郎は、勇哉から今までの疑問を告げられ、自分が疑問にも思わなかったことを勇哉に気付かされることになるとは思っていなかったが、よく考えれば、学生時代、何度か疑問を感じていたことを思い出した。そして、その時、自分の力で変えようとは思わなかったことを悔いた。


結果的に、藍子に苦労をかけ、病気になった藍子を捨てることになったことも後悔し続けていた。


 結婚式には出席出来なかった藍子だったが、勇哉はちゃんとそのことも考えていた。式と入籍を済ませたあと、清川家で再度祝いの席を設けたのだ。これには勇次郎も参加した。藍子とは、久々の再会だ。離婚後、数回逢うことはあったが、時間にして30分にも満たないほどだった。


藍子は、勇次郎を見てももう呼吸を乱すことはなくなっていた。というより、普段から酸素吸入がなければ、自力呼吸も出来なくなっていたので、突然のことで酸素不足になることもなかったのと、祝いの席で何かあってはと、無意識に気を張っていたのかもしれない。


「えぇっと、今日は場所をお借りして私たちの結婚式を開くことが出来、嬉しいです。ありがとうございます」


勇哉は、藍子と勇次郎の様子を見て、空気を変えようと突然の挨拶を始めた。


「えっ?今?」


そうツッコんだのは、琉生…ではなく、咲良だった。その鋭すぎるタイミングのツッコミに、


「えっ?今?」


と琉生も真似して言った。咲良は琉生を見て、ニヤリとした。琉生も親指を立てて、咲良に向けてニヤリとした。

その様子を見た、藍子も藍子の父親も思わず笑ってしまった。


ただひとり、その空気に乗れないのがやはり勇次郎だった。藍子の笑顔に一瞬、戸惑ったような、驚いたような顔をした。勇次郎と一緒にいる時の藍子は、常に緊張した顔だったからだ。「こんな表情をするのか」という顔をしていたのだ。


その様子を見た勇哉は、


「お母さん、お祝いの言葉、言えそう?」


と藍子に尋ねた。藍子は、コクリと頷くと、


「勇哉、咲良ちゃん。ご結婚おめでとう。これからふたりでどんなことも相談して、乗り越えてね…」


そう言うと少し、深呼吸をして再び、


「咲良ちゃん。勇哉を選んでくれてありがとう…」


再び深呼吸をし、


「勇哉。咲良ちゃんを大切にしてね…」


藍子がそう言うと、勇哉は、藍子のもとに行き、両手で藍子の手を握りしめ、


「うん。ずっと大切にする」


と伝えた。その様子を、その場にいた全員が見守っていた。勇次郎は、藍子と勇哉の様子を見て、改めて自分のしてきたことは、とんでもなく間違っていたことだったと感じていた。もちろん、それをその場で声に出すことはしなかったが。


 その後、それぞれが自由に談話しながら時間は過ぎていった。この頃になると、藍子の父親は、リビングのソファーに座り込み、居眠りをしていた。時々、眠りながら咳き込んだりしている。藍子は琉生に視線を送り、琉生は、


「おじさん!もう自分の部屋で寝な」


と父親を軽くゆすった。それに気付いた父親は、


「…お…そうさせてもらうか」


と半分寝ぼけたように言うと、そのまま自室へと向かった。それを見ていた勇哉が、


「おじいちゃん、なんか最初から調子悪そうだったけど、大丈夫なの?」


と藍子に聞いてきた。藍子は、


「調子、悪いみたいだけど…『年だから』の…一点張りで…今度、愛川先生が来たら…相談して…みようと思ってる」


と答えた。勇哉は、その言葉に「そうした方がいい」と答えながら、階段の方を見つめていた。


 清川家でのお祝いもそろそろ終盤という時。


「では、時間もそろそろなので、最後にお父さんから、ひとことお願いします」


そう言ったのは、咲良だった。勇哉はそんな段取りを聞いていなかったから、驚いた。咲良は、勇哉を見てペロッと舌を出した。


勇次郎も予想外の振りに、戸惑っていたが、持っていたグラスをテーブルに置き、口を開いた。


「今日は、勇哉と咲良のために、こんなお祝いの席を設けてくれてありがとうございました」


突然振られた割には、さすがだ。勇次郎はさらに続けた。


「私が、こんなことを言える立場ではないのですが、鎌倉家が他の家と違うことを分かっていて、勇哉と結婚を決めてくれた咲良には、感謝しています。そして…」


勇次郎は咲良に軽く会釈すると、次に藍子の方へと視線を移した。これには、琉生も少し構えた。


「そして、藍子…さん。勇哉を立派に育ててくれて、ありがとうございました」


勇次郎の口から感謝の言葉が出たのは、これが初めてではないか?と藍子は思った。それは、藍子だけでなく、琉生も同じ気持ちだった。もちろん、勇哉もだ。


勇次郎はそう言うと、深々と藍子に向かって頭を下げたのだ。

これが、かつてDNAにこだわっていた人と同一人物なのだろうかと、藍子は思っていた。何か言わなくてはと思いながら、言葉が出てこなくなった。この勇次郎の行動で、今までの苦労が一気に溶けていくのを感じていた藍子は、気付くと大粒の涙が溢れては零れ、とめどなく流れた。


 その場にいた全員が、勇次郎と藍子を交互に見ながら、それぞれがふたりの過去についてを思い出していたのだ。

しばらく、頭を下げたままだった勇次郎が頭をあげると、


「気付くのが、遅いんだよ」


そう言ったのは、琉生だった。勇次郎は、琉生の方を向くと、やはり深々と頭を下げ、


「今まで、藍子さんを支えてくれてありがとうございました」


と言った。これには、さすがに琉生も自分がさっき言った言葉を後悔していたが、


「俺は、藍子が好きだから、支えるとかじゃなくてそばにいたかっただけだ。お前と別れて良かったって思ってるくらいだからな」


とさらに後悔するのが分かっている言葉を投げた。それに対して、勇次郎は何も言わなかった。心の中では、何度も琉生に対して申し訳なかったと思っていたが、口に出すことはなかった。


「まぁ、その…あれだ。お前もこれからは勇哉と一緒に鎌倉のしきたりってやつを変えるのに協力していけば、藍子も喜ぶだろうから…な、藍子」


勇次郎に伝えた言葉の同意を藍子に向かって求めた。藍子は、うんと頷いた。そして、


「家族に…頭を下げられる人に…なってくれて…嬉しいです…こちらこそ…ありがとう…ございました」


藍子は、勇次郎に向かって言った。勇次郎は、頭を上げ、


「ありがとう」


と藍子に伝えた。形式的な「ありがとうございました」ではなく、心からの「ありがとう」という言葉に、藍子は心から嬉しかった。


 藍子と勇次郎の間に、鎌倉家の跡継ぎを産むための結婚をしてからの20数年間の関係が、ようやく終わりを告げた瞬間だったのかもしれない。


「これからは…勇哉を…支えていってくださいね」


藍子は、勇次郎に頼んだ。勇次郎もそれに頷いた。こうして、勇哉と咲良の清川家での結婚お披露目会は終了した。


 勇次郎は、先に家をあとにした。残った勇哉と咲良は、初めて見た勇次郎の姿に力が抜けていた。もちろん、藍子や琉生もだ。4人は、何かを話すわけでもなく、それぞれが座ったままの状態でいた。


 それから、1ヶ月もしないうちに、藍子の父親が他界した。あの日、愛川に相談すると言っていた藍子だったが、自身の定期検診の前に、父は他界してしまったのだ。朝、起きてこない父親を心配して、琉生に連絡すると、琉生が父親の部屋を見に行き、そこで父親は亡くなっていた。


その後、あちこち内臓に不調があったことが分かったが、直接的な死因は、老衰による多機能不全だった。おそらく、寝ている間に苦しむことはなかっただろうという愛川の言葉が、藍子にとってはせめてもの救いだった。


 葬儀やその他のことは、平塚家がすべてやってくれた。喪主は、勇哉がつとめてくれたが、藍子はそれらの式には参加することは出来なかった。ただ、年老いた父親に苦労をかけてしまったことが父親の死期を早めたのではないかという気持ちに押しつぶされそうになり、心が壊れそうなくらい、痛んだ。藍子の父親は90歳でその生涯を閉じ、やっと妻のもとへと旅立って行ったのだ。

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