第35話 勇哉、社会人生活スタート

 結局、勇哉の引っ越し当日は藍子は電話が出来なかった。琉生が、「疲れたから寝ちゃった」と再度電話をし、終了したのだ。勇哉は琉生の言葉を信じた…ふりをした。


勇哉だって、藍子の病状が不安定で、いつ悪化してもおかしくない状況は分かっている。しかし、ここで「何かあったのか?」と詰め寄れば琉生が困ることも察していたからだ。本当はすぐにでも藍子のもとへ行きたい気持ちだったが、そこは必死に抑えた。


藍子は、病状が落ち着きはしたが、この頃を境に悪化し始めたがこれ以上の治療はないため、入院はせず、自宅で療養することに決めた。


 そして、4月。勇哉は社会人としての生活をスタートさせた。スタートと同時に、祖母から女性を紹介された。こんなに早く段取りされるとは思っていなかった勇哉は戸惑ったが、女性と会う時の鎌倉家のルールでもある「鎌倉家の事情を最初は言わないこと」というものを、初っ端から破った。


初めてふたりで会う時に、鎌倉家のしきたりを伝えることで、相手から去ってもらう作戦に出た。勇哉は、結婚する意志などまだなかったからだ。

最初は、みな「それでもいい」と答えるのだが、妻候補にだけ行われる試験が始まるとたいてい女性の方から去って行った。


いったいどんな試験があるのか、勇哉は藍子からも聞いていなかったので、分からなかったが、藍子がその過酷な試験にクリアして勇次郎と結婚したのだということだけは理解した。今どきの女性にそこまでの忍耐がある女性が、果たしてどれほどいるのだろうかと、勇哉は思っていた。実際、自分だって同じ試験を受けて耐えられる自信はなかったから。


 勇哉が社会人になると、周りが少しずつ変化していった。

まず、藍子。6月頃になると、病状が悪化と危機脱出を繰り返すようになっていく。その悪化はいつも突然で、琉生の母親が清川家に入り浸るようになっていた。年齢的には藍子の父親より少し若いくらいだが、幸いにもとにかく元気な琉生の母親は、常に藍子の力になってくれていた。


藍子の父親も時折、体調不良になるが、この時はまだ病気が進行していることに気付かない。それは藍子だけでなく、父親自身もだった。「年のせい」という呪文にも似た言葉のせいで、誰もが見落としていたのだ。


 勇哉は、時々清川家を訪れるようになっていた。就職した会社には車で通っていたため、帰る時にちょっと清川家に寄ることが出来るようになっていたからだ。

藍子が弱っていく姿も見ているため、余計に頻繁に立ち寄っていたのかもしれない。


調子がいい時には、ちゃんと会話も出来るのだが、不調の時には勇哉が来たことすら気付けないこともあった。眠っている藍子のそばで勇哉はただ、藍子を見つめているしか出来なかった。それでも勇哉は、藍子のもとへと通い続けた。


 勇哉の嫁候補も3人目となっていた。この女性は、雰囲気が藍子に似ていることもあり、今までの2人より、勇哉は心が穏やかでいられた。しかし、同じように最初に鎌倉家のしきたりを説明し、それで離れてしまえばそれでいいと思っていたのには変わりない。


ところが、この女性は、「それでもいい」といい、さらに厳しい試験にもクリアした。勇哉に「試験の内容は、勇哉には話すなって言われたけど、言っちゃう♪」と、さらっと伝えてくれる女性だ。


勇哉は次第に、彼女に惹かれている自分に気付く。そして、彼女も勇哉のことを単なる子孫を残すための相手という見方ではなく、人として尊敬してくれていた。勇哉は、彼女と交際することに決めた。彼女にも、この先鎌倉家を変えていきたいから一緒に協力してほしいと伝え、彼女も賛同した。


勇哉が入社して、1年後のことだ。

彼女は、咲良さくらという。勇哉と同期入社で、年齢も同い年だ。ふたりは、互いを思いやる、いわゆるを始めた。これだけでも今までの鎌倉家とは違う。ようやく、勇哉は少しずつ鎌倉家を変える第一歩を踏み出したのだ。


 時を同じくして、少し前から寝たきりになっていた勇次郎の母が他界した。勇哉に相手が見つかったことに安堵し、旅立ったような時期だった。


勇哉は、祖母の葬式後の5月、藍子に逢いに来た。そして、咲良も連れてきたのだ。藍子の体調もこの日は良くて、といってもこの頃には、自力で立つことも出来なくなっていたため、ベッド上ではあるものの、咲良を見た藍子は、とても感じがいいことに安心した。


「勇哉のどこがいいの?」


藍子は咲良に尋ねた。すると、


「いいところ、言い始めたら夜になっちゃいますけどいいですか?」


咲良はニコニコしながらそう言ったのだ。これには、同席していた藍子の父親も琉生も噴き出した。もちろん、藍子もだ。ただひとり、勇哉だけは分かりやすく照れているのが分かった。藍子はそんな勇哉を見てもまた安心できたのだ。


病院に入院中、「俺が鎌倉家を変える!」と宣言した勇哉の有言実行が嬉しかったのだ。素敵なパートナーとの出会いに心から「良かった」と藍子は思っていた。


「泊って行ってもいいから聞きたいな」


藍子が言うと、


「ホントですか?!ホントに泊まっちゃいますよ!私、お母さんともっといろんなこと話したいと思っていたので♪」


咲良は、屈託なく言った。


「おい。明日は仕事だろ?」


勇哉がツッコんだ。


「えぇ!車だし、問題ないんじゃない?だって、せっかく逢えたのに…」


咲良が言うと、


「2人で同じ車で行くのはさすがにまずいだろ?」


勇哉は、照れながら言った。そのやり取りが、藍子をまた安心させる会話だった。


「じゃあ、結婚したら泊まりに来てね。その時に、たっぷり勇哉のこと、話すから」


藍子に言われ、咲良も仕方なく引き下がった。


「絶対ですからね。私、楽しみにしてますからね♪…こういうとこ、固いんですよねぇ」


咲良は、勇哉を睨みながら言った。


「固いって…」


勇哉はそれ以上の言葉が出なかったようだ。そして、思い出したように、


「そうだ!お母さんに聞きたいことがあったんだ!」


と言った。


「何?」


藍子が聞くと、


「俺ね、咲良と結婚するにあたり、お母さんが鎌倉家に来て感じたことで、変えたい、改善すべきってところを聞きたかったんだ」


と答えた。藍子は、すぐに


「私はね、食事は家族みんなでしたかった。鎌倉家の女性は、食事の時間がほとんどない。あるじが起きている時には食べられないし、あるじと一緒に食べることなんて出来なかったから」


と伝えた。勇哉は、


「うん。それは、俺も感じてた。お母さん、いつご飯食べてるんだろうって。でもそれを聞くことも出来なかったんだ。それは真っ先に変える!お婆様もいないし、お父さんも俺が家を出る前までは、結構会話も出来るようになってたから、結婚したら鎌倉に戻って、一緒に暮らそうと思ってて、改善のこと、ちゃんと伝えるよ」


と言ってきた。結婚後は、鎌倉家に戻る意思がある勇哉の優しさも嬉しくて藍子は、「うん、うん」と声には出さず、頷いた。


「他には?」


と勇哉に聞かれ、「子育ては勉強を見るだけではなく、最後までしたかったこと」「子供には敬語ではなく普通に話してほしいこと」「嫁は自由に外出するチャンスを作ってほしいこと」などもあわせて伝えた。


勇哉は、真剣に聞いていた。その横で咲良も真剣に聞いているのが印象的だった。その後、親子の団欒は、結局夜近くまで続いたが、


「父さん、ちょっと眠くなったから先に休ませてもらうよ」


と藍子の父親が、立ち上がりながら言うと、


「あ、そろそろ、俺たちも帰ります」


と勇哉が言った。父親が立ち上がろうとした際、少しよろけたのを見逃さなかった咲良は、咄嗟に手を貸し、


「大丈夫ですか?ホントに夜まで居ちゃって、すみませんでした」


と声をかけた。この行動も藍子にとっては、嬉しかった。勇哉が出会えたのが咲良で、本当に良かったと改めて感じていたが、父親の最近の様子も気になっていた。このところ、調子が悪い日が多いのだ。本人はすぐに「年だから」というが、本当にそれだけなのだろうかと疑問に思っていたのだ。


 その後、勇哉が藍子の父親を自室まで連れて行ってくれたあと、ふたりは帰って行った。にぎやかだったせいか、琉生と二人だけになった途端、藍子は、


「楽しかったね。なんか、みんないなくなっちゃって急に寂しくなっちゃった」


と呟いた。


「俺、いるけど?」


琉生は、そう言うと、突然、藍子を抱きしめた。予想外の行動に藍子は驚いたが、なぜかすぐに受け入れた。そして、自然な流れでふたりはキスをした。


「勇哉、いい子を見つけたな。ふたりを見てたら急に藍子が愛おしくなっちゃったよ」


琉生は藍子の耳元でそう囁いた。藍子も頷いた。

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