第34話 やはり病魔は身体を蝕んでいた
藍子が退院してから1年半が過ぎた。
琉生との関係は、今まで通りのまま。お互い、相手を思いやっているにも関わらず、一緒になることはこの先もないのだが、それでもこの関係が、今のふたりには理想的だった。
いや、正確には、琉生はまだ納得していなかった。藍子が退院してきたら、プロポーズをして、藍子もそれを受けてくれると信じて疑わなかったからだ。あの日、藍子にプロポーズを断られた時、「いつまで人のことばかり考えてるつもりだ?もう自分のことを考えてもいいのではないか?」と、内心では思っていた。
しかし、これが藍子の性格なのだとも理解していた。結局、藍子は一生人のことを考えて行動する運命を変えることが出来なかった自分の不甲斐なさにもイラついていた。
ちょうどこの頃、藍子は、寝ていることが多くなっていた。やはり病魔は確実に身体を蝕んでいるのだと現実を突きつけられていた琉生は、結婚しなくても藍子を一生支えると心に決めていた。
「ただいま」
琉生はいつものように清川家に帰宅した。いつもなら藍子の父親か藍子が応えてくれる。しかし、この日は誰の声もしない。様子がおかしいと感じ、すぐに藍子の部屋に行くと、ちょうど愛川が往診をしているところだった。
目の前の藍子は、意識がもうろうとしているようだった。酸素チューブが取り付けられ、心音計も取り付けられている。昨日までは、夕飯を作れていたというのに、目の前の藍子は別人だ。顔は真っ青…いや、真っ白で琉生は一瞬ギョッとした。
琉生の存在に最初に気づいたのは、父親だった。
「おぉ、琉生。おかえり」
父親の顔は、落胆の表情だ。
「どうした?」
琉生が尋ねると、
「昼頃に、台所で倒れたんだ。父さん、2階にいて、すごい音がしたから降りてきたら倒れてて…」
父親が答えた。
「なんで倒れたの?」
琉生は、誰に聞いたのか、ボソッと呟いた。それに反応したのは愛川だった。
「この病気は、急変する病気です。理由なんてない。そういう病気だからです」
この頃の愛川は、藍子が入院していた頃とは態度も違い、勇哉の良き理解者で、藍子の通院時も勇哉の様子を教えてくれるようになっていた。通院に付き合っている琉生とも気心知れた関係になっていた。
「このまま、状態が落ち着かない場合には、一度入院して様子を見る方がいいと思いますが、どうしますか?」
愛川は、父親に尋ねた。父親は、少し考えたが、
「ここで見られるなら、あまり無理に動かして藍子の負担になるよりいいと思うのですが…」
と答えた。
「確かに、移動は藍子さんの体に負担をかけることになります。では、今夜は、こちらに看護師を泊まらせますので、明日の状態を見てからもう一度今後のことを決めましょう」
愛川がそう提案してくれ、父親は了承した。そんなやり取りをしている間、藍子はずっと眠り続けている。苦しそうではないが、逆に静かすぎて琉生の不安は、大きくなっていた。
「大丈夫…なんだよな?」
つい、呟くように声が出てしまった琉生に、
「正直、今はなんとも言えません。あとは、藍子さんの生命力を信じるしかありません」
愛川が答えた。医師と言えども、患者の生命力までは診断できないのだ。それは琉生にも分かっているが、不安な気持ちを落ち着かせてくれる言葉をどこかで望んでいた琉生にとっては、望まぬ答えとなった。
**********
ちょうどその頃、鎌倉家では勇哉が大学卒業を1ヶ月後に控え、内定した会社の近くに引っ越しをする日を迎えていた。藍子の状態は、愛川の判断で、鎌倉家には伝えていない。勇哉がこの頃、引っ越しをすることを愛川も知っていたからだ。
勇哉は、卒業前に内定した会社の研修が始まる大事な時期でもある。愛川の判断で、現段階では伝えない方がいいと決めたのだ。
鎌倉家は、まだ何も変わっておらず、勇哉の結婚相手候補の調査も始まっていた。内定した会社の独身女性の情報などを、勇哉の祖母が調査させ、勇哉と同じく4月から入社予定の女性の情報などもすべて調査するという、今までと何も変わらないことが行なわれていた。
勇哉はそんなことをされていることも知らず、無事、引っ越しを終えていた。
大学には、もうほとんど行かないこの時期に引っ越しを済ませ、4月からの生活に備えていたのだ。
既に始まっている研修中、勇哉は他の内定者と共に同じことをしていたが、会社の人間はやはりどこか勇哉だけ特別視していることに気付き、「他の人と同じ扱いをしてほしい」と懇願していた。ここから変えていかなければ、自分の目指す理想へは向かえないと考えていたからだ。
しかし、そう簡単に、扱いが変わることはなかった。もちろん勇哉もそんなことは想定内。そこは、地道に変えていくしかないことくらいは覚悟していた。
引っ越しが終わり、ある程度部屋を片付け終わると、勇哉は藍子へ連絡を入れた。久々に藍子の声が聞けると胸が躍っていた勇哉だったが、電話に出たのは…
**********
今日は藍子の様子を見るということで話しが決まった清川家は、ちょうど愛川が病院に戻ろうとしていたところだった。残る看護師に指示をし、藍子の部屋から出ようとした時、藍子の電話が鳴った。
相手を見ると勇哉だった。一瞬、その場にいた藍子以外の全員が顔を見合わせたが、最終的には、琉生が電話を取ることになった。
「もしもし?勇哉か?どした?」
琉生は、できるだけ普通の声で電話を受けた。
「あれ?琉生さん?お母さんは?」
「今、風呂入ってて。俺が来た時にちょうど入ったって言ってたからしばらく出ないと思うけど」
「そうなんですね」
「何か伝えとくか?」
「あ、じゃあ、俺、今日鎌倉の家を出て一人暮らしすることになって。今、もう引っ越した先の部屋なんです。お母さんに来てもらえるわけにもいかないと思うけど、一応報告したくて」
「そうか!一人暮らしするって話しは聞いてたけど、今日だったんだな」
「はい。お母さん、お風呂から出たら電話もらえますか?声も聞きたいし」
勇哉にそう言われ、琉生は思わず声が詰まってしまった。
「琉生さん?」
答えが返ってこない琉生に勇哉が名前を呼んだ。
「あ、ごめん。分かった。伝えとく」
琉生は、ついそう言ってしまったが、藍子がすぐに意識を取り戻す保障はどこにもない。琉生は「しまった」という顔をしたが、ここはそう言うしかないとも思った。
「よろしくお願いします。じゃあ、まだもう少し片付けもあるので、片付けながら待ってますね」
「おう」
電話はそれで切れた。
「風呂から出たら藍子から電話しろって…」
琉生は、その場にいた全員に伝えた。しかし、誰もが「どうするんだ?」というような顔で琉生を見た。
「…だって、どういえば良かったって言うんだよ…」
琉生は、頭を掻きながら呟いた。すると、
「…勇哉…からの電話…?」
わずかな声が聞こえた。全員が藍子を一斉に見た。藍子は酸素マスクを外して、尋ねてきたのだ。
「藍子っ!」
父親がすぐに駆け寄り、声をかけた。愛川もすぐにベッドへ戻り、診察をする。呼吸は不安定だが、意識は戻った藍子に対し、
「どこかおかしいと感じるところはありませんか?」
と尋ねると、藍子は、
「…ちょっと…苦しいけど…他は…だいじょう…ぶ…です」
と答えた。
「今日は、看護師が泊まりますので、何かあればすぐ私も来ますから、ゆっくり休んでください」
愛川にそう言われた藍子は、
「はい…あ、でも…勇哉から…電話…」
そう尋ねた。愛川が、勇哉が今日引っ越したことをお母さんに報告したくて電話をくれたこと、勇哉がお母さんの声を聞きたいから折り返し電話をくれと言っていたことなどを伝えた。
「…そうですか…どうしよう…こんなんじゃ…喋れない…」
「えっ?電話する気だった?」
藍子の言葉に琉生が思わずツッコんだ。藍子は、琉生を見るとニヤリとしていた。
「なんか、企んでる顔!」
琉生がさらにツッコむと、周りは一気に和やかな空気に包まれた。
「今、風呂に入ったばっかりって言っておいたから、電話できるようならすればいいし、無理なら、俺、また電話して『ちょっと疲れたから寝ちゃって勇哉からの伝言伝えそびれた』って言っとくから」
琉生が、そう言うと、
「それ、勇哉に直接さっき言えば良かったんじゃ?」
ツッコんだのは、愛川だった。その意外なツッコミに、看護師も父親も思わず噴き出した。
「確かにそうだな、琉生、さっき思いつくんだったな、それ」
父親にもツッコまれ、琉生は、深くため息をつきながらその場にしゃがみ込み頭を抱えた。そのしぐさに、一同から笑いが漏れた。
藍子の意識が回復したことで、緊張感に包まれていたその場の空気が一気に和んだが、今後、このようなことが増えてくる可能性は高いと愛川は思っていた。
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