第37話 ねぇ。私、笑えてる?

 藍子の父が他界してから、藍子の体調も急激に悪化していった。

愛川からは、急変に備えて入院を勧められ、藍子はそうさせてもらおうと思ったが、琉生はそれを拒否した。


最期が近づいていることは誰の目から見ても明らかだったが、それでも琉生は最期まで藍子を見守りたいと思っていたのだ。琉生の強い要望に、藍子も愛川も同意した。


 琉生は、しばらく会社を休むことにし、藍子のそばで過ごすことにした。藍子は、日によっては、話すことすらできないほど苦しそうにしている状態だ。

そういう日は、琉生は正直、挫けそうになる。自分が泣いてしまうことは絶対にダメだと思う反面、何もできない不甲斐なさに目が熱くなるのを感じ、それを必死で抑えていた。


********************


 この日、愛川が往診に来ていた。藍子は、ほとんど意識がない状態になっていた。静かに眠っているかのように見えると思うと、時々急に苦しんだりを繰り返していた。そんな状態を見た愛川は、琉生に対して、


「できるだけ、気持ちを穏やかにしてくださいね。今、藍子さんは敏感に琉生さんの気持ちを察しているはずです」


と言った。それは、直接は言えない言葉を愛川なりに伝えたのだ。琉生は、この日も目が熱くなっていた。それでも必死に涙が出ないようにこらえた。そして、ふと藍子の方を見ると、さっきまで意識がなかった藍子が琉生を見ていた。


「えっ?藍子?気が付いた?」


琉生はすぐに藍子のそばへと駆け寄った。琉生がそばに来ると、藍子は、


「ねぇ。私、笑えてる?」


そう言いながら、口角を上に持ち上げた。退院してから、よく見るようになった藍子の笑顔だ。


「すっごくいい笑顔だよ」


琉生は、思ったことを素直に伝えた。


「そう。良かった」

「そうだね」


 人は人生を終える瞬間にしている顔が、その人生に満足していたかどうかを表すといわれている。

藍子は、とびっきりの笑顔だ。


あんなに辛いことばかりだったのに…


あんなに人のことばかり考えていたのに…


あんなに愚痴っていたのに…


 今、目の前の藍子は、間違いなくとびっきりの笑顔なのだ。その笑顔は、〈これでようやく自由になれる〉と言わんばかりに輝いていた。


そう。藍子の笑顔は、人生に満足したからの笑顔ではなく、不自由だった一生を終えられる安堵感からだった。


 藍子の人生は、本当に波乱万丈だった。”事実は小説より奇なり”とはよく言ったものだ。藍子の人生は、下手な小説よりずっと人を惹きつけるものだった。


今、そんな人生に終止符が打たれようとしている。

お疲れ様。今までよく頑張ったね。藍子の一生を、俺は忘れないよ。忘れないように、物語をしたためることにしたよ。


 藍子が知ったら、怒るかな?

自分の一生がこんな形で残るなんて知ったら、どんな反応をするだろうか?


きっと、〈も~、やめてよね〉と言いながらも、にこりと笑って応援してくれるんだろうな。


藍子はいつだって誰かの笑顔のために生きていたんだから。

藍子はいつだって自分のことは後回しで誰かのことばかり考えて生きてきたんだから。


 俺は知ってるよ。君は心が優しすぎて、誰かのためにすることが当たり前になっていたんだよね。本当はそれって誰にでもできることじゃないんだよ。そんなに簡単なことじゃないんだよ。


それに気付いてなかっただろう。


藍子、君はよく言ってたね。

「私に出来ることは誰にでもできることだけ」

と。でもね。藍子が当たり前にしてきたことを、俺にやれと言われても出来ないよ。


 最期だから言っちゃうけど、

藍子がしてきたことは、藍子だから出来たことなんだ。他の誰にも出来ないことばかりだったんだよ。他の人なら、とっくに逃げ出していることにだって、藍子は逃げずに挑み続けた。


 まぁ、頑固者だったからね。俺や、友人がいくら「逃げろ」と言っても、いつだってにこりと笑って、挑み続けたよね。

逃げなかった結果がこれじゃ、報われない…

藍子。君はもっと幸せになってもいい人だったんだ。


 神様はどうして生きている藍子に、もっと最高の人生を送ってくれなかったんだろう?


神様なんて本当はいないのかもしれないな。

もし居るとしたら…

神様の正体は、藍子本人なのかもしれない。


 俺は、美しく微笑みながら旅立った藍子を見つけながら、そんなことを考えていた。不思議だな。涙が出ない。多分、実感がないんだろう。だって、これじゃ、気持ち良さそうに眠っているようじゃないか。


誰に何と言われようと、目の前の藍子は、ただ眠っているだけじゃないか。息してないなんて信じられないくらい綺麗な寝顔じゃないか。明日の朝になったら、「おはよう」って目を覚まして言いそうじゃないか。


 そんなことを考えていると、俺の目からは大量の涙が溢れ出し、止まらなくなってしまった。泣いたら、藍子の死を受け入れることになる!泣いたらダメだ!そう思えば思うほど、涙は溢れ続けた。


 清川藍子は、父親の他界から半年後、50年の人生に幕を下ろした。

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