第29話 勇次郎と今後について
症状も落ち着いた翌日。
昨日の苦しさが嘘のようになくなった私は、朝から通常通りの生活をしていた。ここに居られるのもあと6日だ。待ち遠しい6日というものは、本当に長い。
もしかしたら、昨日息を引き取っていたかもしれないというのに、気持ちは退院に向けてワクワクしていた。いくつになっても入院生活というものはイヤなものだと誰かが言っていたが、本当にその通りだと思った。
朝食を済ませ、食器を廊下の配膳ワゴンまで持っていきたい衝動に駆られた私は、ゆっくりとベッドから降りた。
立つことはできるし、ふらつきもない。まずは、1歩ずつ足を前に出してみた。
行けそうだ。
そう確信した私は、食器を両手に持つとゆっくりドアに向かって歩き出した。あと少しで、ドアというところでノックする音が聞こえた。
「はい」
私は、一度立ち止まり返事をした。
ドアが開くと、そこには勇次郎が立っていた。
「何をしてる」
相変わらず冷たい言い方だ。
「食器を片付けようと思って」
私が答えると、無言で食器を取り上げると廊下まで持って行ってしまった。自分でやってみたかったのにという私の気持ちは黙っておこうと思った。
すぐに戻ってきた勇次郎に、
「ありがとう」
と一応お礼を伝えたが、それに対しての返事はなかった。
「ベッドに戻りなさい」
代わりに返ってきた言葉がそれだ。私は、仕方なくベッドに戻ろうと回れ右をした。少しふらついたが、勇次郎が手を貸すことはなかった。
これもリハビリだと私はゆっくりとベッドへとひとりで向かった。ほんの少しの距離だというのに、人を待たせてると思うと気が競る。しかし、これ以上早く歩けば、転ぶことは目に見えていた。それほど、私は入院してから歩いていないのだ。
ようやくベッドに戻ると、勇次郎もベッドの横に椅子を持ってきて座った。そして、
「昨夜のことは聞いた。それで退院が先延ばしになることはないそうだ。予定通り来週には退院になる」
なぜそんなことを主治医でもない人物に言われなくてはいけないのかと思ったが、勇次郎にはすべて症状報告が言っているのだろうから、仕方がないと思って聞いていた。
「退院後は、月に一度の検査がある。もちろんその費用は心配しなくていい。自宅からここまでの足がなければ、鎌倉で車を出す。離婚届は退院の前日に出しておく。退院の日は清川藍子だ」
イヤな言い方だ。もう少し言い方がないものかと思ったが、やはり私は何も言わず聴いているだけにした。
「退院の日は、鎌倉で車を出す。鎌倉家は、離婚の場合、表向きは死別と公表するから、今後は鎌倉の家に来ることはもちろん、自分が鎌倉の人間だったことも他言しないでほしい」
勇次郎は淡々と説明した。しかしこれは前に愛川から聞いていたことなので、さほど驚かなかった。
「何か質問はないか」
初めて、私に喋る権利がもらえた気分だったが、
「ありません」
と一言だけ伝えた。
「説明は以上だ。では帰る」
勇次郎はそう言うと、椅子を片付け病室から出て行ってしまった。
これが20年以上連れ添った夫婦の会話なのだろうか?勇次郎は最後まで冷たい態度のままだった。
**********
翌日。退院まであと5日。この日は、面会時間にお父さんと琉生が来てくれた。日曜なので、面会時間は午後一からで、ふたりは面会時間と同時に来てくれた。
「よぉ!生きてるか?」
琉生のジョーク、今日は笑えなかった。なんせふたりが帰った夜に実際死にかけたのだから。
「死んでるかもね。私、ゾンビかもしれないよ。触ると琉生もゾンビになるよ」
私がそう言うと、
「じゃあ、俺、ここにいるわ」
とドアから離れず、立ち止まっていた。
「バカ言ってないで、中、入れ!邪魔だ」
お父さんは、琉生の背中を押しながら言った。
「へいへい」
琉生は仕方なさそうに病室に入ってきた。椅子を自分で持ってきて座るのは、なんだかもう何回も見舞いに来ているみたいに慣れたものだった。
私は、午前中に勇次郎がきて、退院日の前日に離婚届を出すと言われたことなどを報告した。
「相変わらず、変な家だよな。家が変なのかあいつが変なのか分からんが」
琉生は本当に思ったことをストレートに言葉にする。私は、琉生の前ではそれができるが、結局勇次郎の前では出来ないまま夫婦関係が終わることになる。本来、夫婦とはお互いの気持ちを抑えず、ストレートに言葉にし、意見が食い違えば話し合う…そういうものだと思っていたが、最後までそういう関係は築けなかった。
「あ、それからさ!退院の日、俺が迎えに来るから!鎌倉の車でなんて帰らなくていいよ」
「だって、退院の日、金曜日だよ!平日だし」
「俺さ、これでも一応有給取得できる勤続年数なんだけど?」
「あら?そうだったの?まだ新人かと思ってた」
「とりあえず役職もあるんだけど?」
「社員数少ないのかしら?」
「そうだな、5人くらいかな?」
「やっぱりね」
「バカにすんなよ!医療の進化にも貢献してんだぞ!」
琉生と話してると、次から次へと言葉が溢れてくる。このやり取りを黙って…いや、呆れて聞くお父さんの顔もまた昔から変わらない光景だ。
「バイオなんちゃらの研究だっけ?」
「なんちゃらはいらん」
「そうなんだ」
「知らんくせに、知ったかぶりすんな」
「すみませんね、世間知らずで」
「帰ってきたら、一から世間ってやつを教えてやらなくちゃな!」
「一番世間を知ってるのはお父さんだからお父さんに教えてもらう」
「お父さんより琉生の方が、何でも知ってるぞ」
突然、お父さんも会話に参加してきて、琉生も私もほぼ同時にお父さんの顔を見て、吹き出した。
笑われたお父さんの「なんで笑ってんだ?」みたいな顔に、私たちはさらに吹き出してしまった。
「藍子。まだ表情硬いな。でも最初に見た時よりだいぶ柔らかくなってきたな。この調子なら、帰ったらすぐに元通りに笑えるようになるな」
やはり琉生はすごい。みんなが言わないでいることを、ちゃんと言ってくれる。しかも琉生に言われるとイヤな気持ちにならない。私は両手で頬と唇の両端をつまみ、上に押し上げた。
「なにやってんの?笑ってるつもり?バカなの?ブサイクだし」
琉生は急に真顔になってツッコんできた。
「…うるさい」
ブサイク~!!!と言って笑い飛ばしてくれるのかと思ったら、そんなツッコミで来たかと、なんだか負けた気分になったが、これもまた心地よかった。
あと、5日したら、こんなバカみたいな会話も普通にできるようになるのかと思うだけで、心が躍っていた。ふたりは、結局、2時間ほどで帰って行った。次に逢えるのは金曜日だ。それまでに、どうか体調が悪化しないことだけを今は祈っていた。
実は、ふたりが面会に来た1時間ほど前には、病院に到着していた。愛川に呼ばれていたのだ。そして、金曜日の夜の症状悪化を伝えられていた。伝えなくていいと言われたが、やはり主治医判断で伝えることにしたということだったが、そういうことなら私にはその事実を知らないことにして面会に行くと言い出したのは琉生だった…ということがあったなんて、予測もしていなかった。
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