第二章 雨月

第一話 おばあちゃんの絵

 ゴールデンウィークが始まった。京都の街は観光客でごった返している。受験生の私は、どこに遊びに行くわけでもなく、家にひきこもって絵を描いていた。

 階下から母の声が聞こえた。

「美月、佳代子から電話や」


 佳代子とは、母の妹で私にとっては叔母にあたる。まだ独身で祖父といっしょに暮らしている。

 佳代ちゃんたら、携帯に電話してくれたらいいのに。わざわざ家電にかけなくても。

 心の中で文句を言いつつ、下におり電話に出た。


「久しぶり美月。元気やった? お休みやけど、家に引きこもってるんやろ。今日おじいちゃん、夕方から時間あるから泊まりにおいでって。私も今日は一日だけ休みにしたから」

 久しぶりに聞く佳代ちゃんの声は元気いっぱいだ。


「佳代ちゃんお店休んでも大丈夫なん? 今忙しい時期やろ」


 佳代ちゃんは、北山通りに面した祖父のビルの一階で、雑貨屋さんを経営している。ヨーロッパのアンティーク雑貨もおいてある、おしゃれな雑貨屋さんだ。

 北山通りには、ゴールデンウィークになると観光客が沢山訪れる。お店はかき入れ時のはず。


「今日夕方から、うちにお客さんが来るんよ。お店は従業員の山口さんに頼んだし大丈夫。今日来るん、来ないん?」

 せっかちな佳代ちゃんは私の返答をせかす。


「分かった行く。でも、お客さん来るのにいいの?」

「もーいらん事ばっかり気にせんでもいいの。今日はごちそうや。今からはよおいで」


 それだけ言って佳代ちゃんは、電話を一方的に切ってしまった。

 私が家でブラブラしているって決めつけて……もうちょっとナーバスな受験生に配慮があってもいいのに。


 とぶつぶつ頭の中で文句を言ってみたが、結局は佳代ちゃんの強引さが嫌いではない。内向的な母とは対照的な佳代ちゃん。昔から年の離れた姉のように慕っている。


 お泊りの用意に一応スケッチブックを入れて、お昼すぎから出かけた。

 地下鉄の北山駅から乗って、ひと駅の松ヶ崎駅でおりた。松ヶ崎駅は静かな駅で乗降客も少ない。何時もは自転車だけど、今日は電車に乗りたい気分だった。

 地下の改札口を出て階段を上り、一番出入り口から出ると、北側に五山の送り火の「妙」と「法」の文字が山肌に見えた。


 毎年、五山の送り火は祖父のお屋敷から眺める。暗闇の中かがり火の連なりが、文字となる様は幻想的だ。何時も夏休みももうすぐ終わりだな、という焦った気分がちりちりと胸にくすぶる。


 駅から十分ほど歩いて、堂々とした風格のある長屋門が見えてきた。長屋門とは、門の両脇に長屋(部屋)が、くっついている門の事。祖父の家の長屋は、昔住み込みのお手伝いさんが使っていたが、今は物置と化している。


 長屋門をくぐり母屋の玄関へ入り、こんにちはと一言いって、勝手に上がりこむ。

 外は初夏の陽気なのに、母屋の中はひんやりとして、静まり返っていた。

 古い家屋特有の、すべての物が色あせたにおい。私はこのにおいを嗅ぐたび、懐かしさが込み上げる。


 靴下を履いていても、伝わる板の冷たさ。長い廊下を進む。昔の土間を、改装してつくられた台所。そこに入って行った。

 中には、通いのお手伝い雅恵さんがいた。雅恵さんは私に気付くと、にっこり笑って、


「いらっしゃい、お座敷で佳代子さんがお持ちかねですえ。美月さんしばらく見んうちに、またきれいにならはったんと違う?」


 何時も会うたび、雅恵さんは同じ事を言う。私は適当に返事をして、座敷に向かった。

 書院造のりっぱな座敷に、佳代ちゃんは座っていた。


 佳代ちゃんの目の前にはイーゼルが置いてあり、その上に額装された六号程の大きさの日本画が立てかけてある。

 イーゼルは祖母が使っていた物。日本画は祖母のお気に入りだった桜の絵。桜の季節になると何時も蔵から出して、自分の部屋に飾っていた。


「美月、いらっしゃい」


 佳代ちゃんは私に気付いて振り向いた。年齢のわりに、若く見られる顔立ち。短い髪が意志の強そうな顔立ちに、よく似合っている。雑貨屋さんを経営しているだけあって、おしゃれだ。今日はリネンの白のチュニックに、ワイドパンツを合わせてナチュラルに仕上げている。


「この絵、どうすんの?」

 祖母が亡くなってから、この絵は一度も出されていない。


「修理してもらうらしいわ。突然おじいちゃんが言いだしたんよ。今日修理してくれる人が来はるって」


 佳代ちゃんは、やれやれという感じで言った。祖父は、思い立ったらすぐ行動する人。大概佳代ちゃんが振り回される事になる。祖母の生前は、その役割を祖母がしていた。


 私は絵に近付いてじっくり見る。薄墨色の背景に、枝垂れ桜が描かれていた。左下には作者の落款が押されている。たしかに、全体に無数のしみが浮き出ていた。


「昔からうちにある絵なん?」

「さあ、おばあちゃんがよく飾ってたなくらいしか、知らんわ」


 佳代ちゃんは興味無さそうに答えながら、私を見た。

 何か含みがあるような顔をしている。こういう顔をする佳代ちゃんを、私は経験的に歓迎できない気分になっていた。


「そこで、美月にお願いがあるねん」

 そらきた、やっぱり早くおいでと言ったのには裏があったんだと、瞬時に理解した。


「長屋の掃除手伝って」

 にっこり笑って軽くお願いされた。


                  *


 長屋門の部屋の戸を開けると、締め切った室内は埃っぽく、ムッとした空気が漂っていた。もうイグサの臭いがしない畳には、うっすらほこりがたまっている。

 佳代ちゃんは窓をすべて開けながら、掃除をする理由を教えてくれた。


「おじいちゃんたら、絵の修理を家でしてほしいってお願いしたらしいわ。それでこの部屋が空いてるから、ここでという事になった訳」


「普通、修復工房にあずけるやろ? またなんで家でしてほしいんやろ」

 私は掃除機を運び入れながら言った。


「そうやろ、あずけた方が部屋の掃除もせんでいいのに。わざわざ通いで来てくれはる人にも迷惑や。ほんま、おじいちゃんは何考えてるかわからんわ」


 ブツブツ言いながら、あたりに散乱している物を片づけ始めた。

 この部屋には、とにかくいろんな物が押し込まれていた。八畳の和室にダンボールがうず高く積み上げられ、衣装ケースも洋服を詰め込まれた状態で数多く置かれている。賞状ケース、昔の雑誌、地球儀、たぶん二度と使わない物ばかりだろう。


「二人暮らしやのに、荷物多すぎと違う? とりあえずここに置いとこ思うから、物がふえるんや」

 私は、年齢を超えて説教する。


「だって、忙しいしまた使うかもしれんやろ。いちいち分別してられへんわ」

「佳代ちゃんがおしゃれな雑貨屋さんをしてるっていうのが不思議やわ。お店すごく片付いてるやん」


「それは、山口さんのおかげやろ」

 しれっと言う。私は心底山口さんが気の毒になった。


「ところで、美月。美大受験するんやって? 姉さんがうれしそうにうてた」

 私はかかえていたダンボール箱を、半ば落とす勢いで床に置いた。額に浮き出た汗をぬぐう。


「お母さんが受験する訳でもないのに、なんでうれしそうなん?」

「そら娘が、将来について目標をたてたら、応援しようって思うのが親心やん。がんばってる娘を見るのがうれしいんやない?」


 私が不機嫌な顔でだまりこんだので、佳代ちゃんは何かさっしたらしい。

「お母さんが美月の事、大事に思ってるのは本当よ」


 私は佳代ちゃんの言葉なんか、聞こえなかったように、片づけに忙しいふりをした。

 今さら私の事を大事に思っている、とか言われても。冷たい笑いがこみあげてくるだけだ。


 無言のまま、もくもくと作業を続けた。ダンボールや荷物を部屋の半分によせ、なんとか長机をおくスペースが確保できた。


 私が掃除機をかけていると、外からバイクの音が聞こえた。佳代ちゃんはこの重苦しさが充満した部屋から逃れるように、「誰かな?」と言いつつ、足早に外へ出て行った。


 部屋に残された私は、嫌な空気を吸い取ろうと汗をかきかき、部屋の隅々まで掃除機をかける。

 窓の外は、薄暗い室内と対照的に、初夏の輝く日差しがまぶしく、目を細めた。

 私は、重い掃除機をかかえ、明るい戸外へと出ていった。


 門に佳代ちゃんの姿はなく、白いスクーターが一台停まっていた。クラッシックなデザインのおしゃれなスクーター。それを横目に、母屋の玄関へと向かった。

 玄関から佳代ちゃんの声が、聞こえてくる。


「わざわざありがとうございます。父はまだ帰宅していませんが、どうぞあがってお待ちください」


 玄関には、すっきりとした後ろ姿の男性が立っていた。白のデニムにコットンのジャケット。以外に若い服装だけど、修復工房の人だろう。と思ったが、その後ろ姿には見覚えがあった。

 佳代ちゃんが私に気付いて声をかけた。


「美月掃除ありがとう。あんたもお座敷に来て」


 修復工房の人は私を振り返り、持っていたバックを落とした。

 眼鏡をかけてない真壁先生が、驚いた顔のまま玄関に立っていた。

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