第四話 月夜の晩に先生と
注文していたお寿司も届き、海老しんじょのお吸い物に茶碗蒸し、サラダに煮ものなどの料理がお座敷に運ばれ、ようやく先生の歓迎の宴が始まった。
佳代ちゃんが先生にビールを勧めると、
「今日はバイクで来てますから」
と先生は断った。すると普段一人で晩酌している祖父が、せっかくの相手を逃がすまいと言った。
「今日は、泊まっていきなさい。村山さんが真壁君はいける口やて言うてたから、今日は楽しみにしてたんや。とことん相手してもらうで」
祖父の気迫に負けて先生は恐縮しつつも、佳代ちゃんからお酌をしてもらい、一口おいしそうに喉をならした。
私は同じ屋根の下に、先生が泊まるのかと思うと、羞恥心から赤面した。
「私は、今日帰るから」
即座に祖父に訴えたが、
「美月も今日泊まる予定やったやろ。最近ちっとも遊びに来てくれへんかったんやから、今日ぐらいゆっくりおじいちゃんの相手してえな」
泣きの一言で片づけられた。
「まあ美月、理事の許可が出たんやから泊まっていきなさい。先生も旅館やと思って気兼ねせんといて下さいね」
家がいくら広いからって年頃の娘と若い先生を同じ屋根の下に泊めるなんて、どういう神経してるの。
祖父と佳代ちゃんにさんざん脳内で毒づいていると、ふと先生の反応が気になり、顔色を窺った。
先生も私に負けないくらい赤面していた。
先生は話どおり、お酒にめっぽう強く、祖父の方が先に酔い潰れてしまった。
お座敷の片づけを佳代ちゃんとしていると、
「やっぱり、私は今から地下鉄で帰ります」
ちらっと私を見て、先生がきり出す。
「先生遠慮せんといて下さい。お風呂の支度もできてますから、どうぞお先に。着替えは用意して脱衣所に置いてますから」
先生は佳代ちゃんに背中を押されるようにお風呂場に案内され、部屋を出て行った。
一人お座敷に残された私は、縁側にでて庭を眺めた。
このお屋敷の庭には四季折々の花が植えられている。春の枝垂れ桜から始まり、アジサイ、真夏の百日紅。八重咲きの芙蓉の花。甘い香りの金木犀に椿。
今は藤が見ごろだ。藤棚には薄紫の大きな無数の房が垂れ下がり、風が吹くたび優雅にゆれている。
今日は満月。鏡のような月が、東の空に昇っていた。
*
祖父の家には私の部屋が設えてある。布団に入って早々に寝ようとしたが、なかなか寝付けなかった。
今日の事がいろいろと思い出された。祖母の絵、先生の赤い顔。寝るのをあきらめ布団から出た。
私は暗闇では寝られない。枕元のライトを消し、お座敷に向かった。眠れない夜に庭のスケッチでもしようと思ったから。
お座敷の襖をそっと開けると、空気の流れを感じだ。
縁側の戸が開けられ、そこに腰かけている後ろ姿が目に入った。
先生が月の光に照らされそこに座っていた。
開け放たれた戸の輪郭が額縁のように、風景を切り取っている。正面に見える藤棚と、後ろ姿、月光に照らされ縁側に落ちる先生の影。一幅の絵を見ているようなうつくしさ。
このまま見ていたら、何かに取りつかれてしまう。逃げ出そうと、一歩足を進める。すると、古い廊下の板がギーと悲鳴をあげた。
ここは、鴬張りの廊下かと、廊下に文句を言っても、もう悲鳴がかき消されるわけでもなく、先生が振り向いた。
「ここにきていっしょに月を眺めない? 今日は満月だよ」
その言葉に従わず、部屋に帰ればよかったのに、足は先生の方に向かって歩いていた。
「庭のスケッチに来たの?」
先生は来客用の浴衣を着ていて、なかなか様になっている。私はスケッチブックに視線を落とす。
「はい」もう、スケッチする気など失せているが、そう答えた。
月は天頂まで達し、冴えわたる青白い光で闇夜を照らしていた。
先生は、ぶしつけに私の顔をしげしげと見る。
「きれいだ」
息が止まりそうなほど心臓がはねあがり、体が硬直した。私の衝撃が伝わったのか、クスッと笑って、「月が」と月を振り仰ぐ。
子供みたいにからかわれたんだ。羞恥と怒りで頭に血がのぼる。
「そんなに、月を眺めてたら、かぐや姫みたいに月からお迎えが来て、拉致されますよ」
本当にお迎えが来て、今すぐ先生を月に連れて行ってほしかった。
「かぐや姫か、雅でいいね。でも、俺は男だから姫じゃなくて、かぐやの君かな。そして、君はさしずめ、桜の精だね」
心地良い風が吹き、私の洗いざらしの髪や庭の藤の花をゆらす。
やっぱり先生は私に気づいていたんだ。でも、このタイミングで言うなんてずるい。
「何時から気付いてたんですか?」
非難がましい声が夜のしじまに響く。
「最初から。君が筆箱落とした時に」
月の光は人を狂わせるというけれど、今の先生は本当に、月に見せられた様な表情をしている。魂が体から抜け出し、月に向かって飛翔しているよう。
「気付いたんなら、早く言ってくれたらよかったのに」
「言える訳ないよ」
どうして? と言おうとしてやめた。私をじっと見る鳶色の瞳に、心をかき乱されたから。その感情が、私を飲み込もうとする。私は必死でもがき、息をしようとするが、うまくいかない。
先生の手が何かに操られたように、すっと持ちあがり私の方に差し出された。表情のない顔とその姿が、昔見た母の姿と重なり、私はギュッと硬く目を閉じた。
緊張と夜気にあたって冷たくなった頬に、先生の手が躊躇いがちにふれた。
暖かな手のぬくもりが、頬から私の冷え切った心に伝わる。
そっと目を開ける。私を見つめる瞳の奥に、青い炎がゆらめいている。怖くなり、ふたたび目を閉じた。
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