第五話 美術予備校

 お祭り騒ぎのような京都のゴールデンウィークも終わり街は日常生活へと戻った。


 私は週四日のペースで美術予備校に通い始めた。平日は五時半から三時間。日曜日は九時半から夕方六時まで。

 クラス分けされ京都美大コースに入ったが、予想通りハイレベルなクラスだった。


 入試の実技課題「描写・色彩・立体」に向けた勉強が主で、デッサン、写生などの平面造形、物を作る立体造形などの実技。図学、色彩学講義など幅広いカリキュラムが組まれている。


 デッサンの授業では、短時間で作品を仕上げ、その場で講師ができ具合を判断し、順位をつける。私の順位は何時も後ろから数えた方が早い。これが今の私の実力。

 ギリシャ彫刻の石膏を前にして、時間を決められデッサンをする。時間配分を計算し、形をとり、影をつける。機械的に絵をかく。何枚も何枚も。


 あの後、どうやって自室に戻ったか覚えていない。朝まで眠れなかった事は覚えている。

 あの日から、先生のふれた頬が熱い。

 無機質な予備校の教室で、リノリウムの床を見ながら、鉛筆をナイフで削っていると、ひょろっと背の高い男性に声をかけられた。


「マーク模試の結果が帰ってきたよ」

 アルバイトの講師、森田先生だった。


 予備校に入ってすぐ、学科の模試を受けた事を思い出す。

「はい。京都美大、A判定出てるよ。よかったね」

 ありがとうございます。と固く言いつつ結果を受け取る。


 学科は取りあえず安心したが、京都美大の学科配点は四割だ。やはり実技に重点が置かれている。


「あれっ、せっかくA判定出てるのに喜ばないの?」

 無表情の私を見て森田先生は言った。


「私、実技が悪いんで喜べないです」

「何暗くなってるの? まだ通い出したばっかじゃん。ここのクラスの連中は、浪人生もいるし、予備校に二,三年通ってる奴ばっかなんだから。気にしない、気にしない」


 そう言われて、本当に気にしなくなるほど、私はおめでたくない。


「俺も、一浪して京美大入ったし、高三の時なんて君より描けなかったよ。予備校に通い出したばかりで、これだけ描けたら大丈夫。俺が保証するよ」

 と言って無神経に笑う。森田先生は現役の京都美大生だ。


「有賀さん、専攻はどこにするか考えてる?」

「日本画です」

 もうすぐデッサンの授業が始まる。他の人がちらちらこちらを、窺っていた。


「ファイン系か。就職難しいけど有賀さん関係ないよね」

 女学院の制服を見つつ森田先生は言った。


 ファイン系とは、絵画、彫刻などの作品をつくる学科。反対に紙面、空間、建築、映像などのデザインを扱う学科をデザイン系と言う。

 森田先生の言葉にはっとした。就職の事なんてなんにも考えてなかった。明確な卒業後のビジョンを見据えて、進路は考えないといけないという事か。


 ただ漠然と絵の仕事をしたいと思っていたけど、具体的にと言われると思い浮かばない。最近決めなくてはいけない事が増えたと思う。それも、将来にかかわる大事な選択。


 大人になるまでに、いくつ選択しないといけない事が出てくるんだろう。それを間違えずに選択できるだろうか、間違えてしまったらどうすればいいんだろう? 溜息が出た。

 その溜息を聞いてなのか、


「俺はデザイン系だから、就職の心配はないんだ」

 あっけらかんと言う。


「有賀さん日本画興味あるなら、今度文化美術館で浮世絵の展覧会あるの知ってる? チケットただでもらったから、いっしょに行こうよ」

 デッサンの先生が教室に入ってきたので、はっきりと断る時間がなくなった。


                  *


 土曜日、長屋門の部屋で、彼女を待っていた。来ない事をうすうす感じながら。

 自分の感情を、うまく隠せると思っていた。なのになんであんな事を してしまったのだろう?


 一、彼女の頬が汚れていたから、ふいてあげるつもりだった。

 二、頬に蚊がとまったから、とろうとした。

 三、月に照らされる姿を見て、彼女に対する気持ちが抑えられなかった。

 四、酒によって、しらふではなかった。


 明らかに、答えは三番だ。

 あの日どうかしていた。客間に通され、寝床に入っても、眠れなかった。


 りっぱなお屋敷、豪華な調度品。先祖代々の美術品の数々。京都の旧家の威厳が伝わってくる。

 俺もこんな家に生まれていたら、絵をあきらめなくてもよかったのかもしれない。

 そんなあさましい考えが浮かんだ。


 父は早くになくなったが、母が看護師として働き、不自由はなかった。でも、絵と言う物を続けていくには、それ相応の金がいる。大学を出てまで、親のすねをかじって、絵にしがみつくわけにはいかなかった。


 単純に彼女がうらやましかっただけだ。

 教師の立場を超えた好意。それプラス、彼女に対する身勝手な羨望。

 自分の卑しさが、心の澱となって沈んでいく。恥ずかしく、いたたまれなかった。


 そんな気分で月を眺めていたら、彼女がやってきたのだ。

 ひきょう者の俺は、今日もし彼女が来たら、四番の答えを言うつもりだ。姑息でもかまわない。


 そんな事をえんえん考えて絵の修理を始めると、思いもかけない物が、出てきた。これは、隠さないと。部屋の隅に寄せられた、大量の荷物の山をさぐる。


 段ボール箱の下敷きになって、一枚の写真が落ちていた。

 子供と彼女によく似た女性の写真。二人とも、着物を着て笑っている。裏をかえすと、美月六歳、七五三。と書かれていた。


 こういう写真は写真立てに入れて、かざっておくものじゃないんだろうか。何で、こんなところに、落ちているんだろう。


                 *


 私の気分とは裏腹な五月晴れした空を忌々しく眺めていた。

 午後一番の古典の授業は、最高に眠気を誘う。クラスの何人かは完全に机につっぷして寝ていた。


 みんな夜遅くまで受験勉強していたのかな。私も昨日遅くまで色彩学の勉強をしていた。でも、眠気には襲われなかった。決して古典の授業に集中しているわけではない。


 三年生の教室は西棟3階にあり、反対に東棟3階には、美術室がある。私の窓際の席から美術室の中がよく見えた。今美術室の中も授業中だ。真壁先生の姿が視界に入った。


 月夜の晩から、祖父の家に行っていない。土曜日、絵を見せてもらう約束をしていたが、結局行かなかった。クラブにも行っていない。


 あれから、先生に会うのが怖い。何が怖いのかわからないけど。

 教室の砂羽ちゃんに目をやる。古典の教科書に隠して、数学の問題集を見ていた。

 砂羽ちゃんには、何も話していない。


 チャイムが鳴り、睡魔との闘いの場古典の授業が終わった。みんなチャイムには気付いたようで、大きく伸びをして眠気を覚ましている。

 次は選択授業で、私は美術を選択している。


「いい授業やったわ。集中して勉強できた。あの先生声がいいねん」

 砂羽ちゃんが皮肉たっぷりに言った。


「砂羽ちゃん数学の勉強してたやん」

「あたりまえやん、私には古典関係ないもん」


 医大志望の砂羽ちゃんの入試には確かに関係ない。

「美月、次美術やろ。はよ移動したら? 私は帰って勉強するわ」

 砂羽ちゃんは本来なら書道の授業があるが、それをさぼって帰るつもりらしい。


 女学院は他大学への進学率が悪い。それをなんとか改善したい学校側は、外部進学クラスの生徒に期待している。入試に関係のない芸術系授業をさぼってもお咎めなし。その時間に予備校に行くなり、入試科目を勉強してもらった方がいいから。

 大人の事情はさておき、私は非難がましく言った。


「ずるい、私もサボって帰ろうかな」

「何言うてんの、さっき愛おしそうに美術室眺めてたやん」


「いっ愛おしそうになんか眺めてない」

 私がうろたえる姿を見てニヤニヤ笑っている。もうほんと、意地悪なんだから。


「ほな、久しぶりにいっしょに四条いこ」

「えっ勉強いいの?」

 私が驚いて聞くと、砂羽ちゃんは、カラリと笑って言った。


「こっちの方が大事」

 私はうれしくて砂羽ちゃんの腕に飛びついた。今日は予備校も休み。


 二人でかばんをかかえ、後ろめたい気分で職員室の前を通る。廊下の掲示板には雑多に、ポスターが貼られていた。

 ふと、一枚のポスターの前で、私の足がとまった。


「道成寺って能のポスター? こんなもん、ここにはったって、誰がいくねん」

 砂羽ちゃんが、ポスターを見て真っ当な意見をのべた。

 そのポスターは学校の近くにある能楽堂の宣伝ポスターだった。今度の演目が道成寺なのだろう。


「道成寺って元祖ストーカーの話やで。嫉妬に狂った清姫が、僧の安珍を呪い殺すねん」

「美月見た事あんの?」


「昔おばあちゃんにつれていってもらった。話はさっぱりわからへんかったけど、怖かった事だけ覚えてる」

 へーと砂羽ちゃんは一応あいづちを打つ。


「昔、うちの家に清姫がいてん」

 砂羽ちゃんが怪訝な顔をして、私に話しかけようとしたら、島田さんにばったり出くわした。


「えっ有賀さんさぼり? 珍しいな」

 私のかばんを見て言う。


「昨日メールしたけど、真壁先生に追加の志望校、提出した? クラブの時間にわざわざ私に伝言頼んできたんやで、先生」

 そう言えば、昨日島田さんからメッセージをもらっていたけど、返してなかった。


「ごめんね、予備校に行ってて。まだ提出してないけど、近いうちに出すから」

 最近クラブにいっていない事と、メールの返信を忘れた事をすまなく思い、頭を下げた。


「いいよ、気にせんといて。それに、先生に話かけられてうれしかったし。予備校で忙しいやろうけど、クラブたまには来てな。有賀さん来んと寂しいわ」

 先生に話しかけられた時の事を思い出したのか、ニマニマしながら行ってしまった


「島田さんええ人やな」

 砂羽ちゃんが島田さんの背中を見つつ、ぼそっと言った。

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