第二話 あこがれ
梅の木に青々とした実がなる頃、梅雨入りした。
まとわりつくような、湿気も何故か心地いい。その湿気を感じると心まで雨にぬれる。
「どうしたの? 暗い顔して。気分でも悪い?」
能天気な森田先生の声で我に返る。
リノリウムの床を見て思い出す。今は予備校に来ていたんだ。
「いえ、最近雨ばっかりなんで、気分も沈みがちなだけです」
「そうかな。沈んでるようには見えない絵だけど」
珍しく、森田先生がなぞな事を言う。
「どう言う意味ですか?」
「最近有賀さんの絵変わったよね。前まではすっごくキレキレな絵だったのに、今はお花畑みたいに明るいよ」
「お花畑って……幼稚って事ですか?」
少々、怒りを含んだ声で言った。
「俺うまく表現できないんだけど、華やかさが出たというか、つまり恋してる絵なんだよね」
私も感じていた、絵が変わったって。
「恋の相手はひょっとして俺?」
「違います」
秒で、否定する。
「そりゃそうだ、デートも断られたし」
「好きな人っていうか、憧れてる人がいるだけです」
何とか、自分の気持ちの落とし所をさぐって言う。
「憧れか……憧れって言うなら、まだ俺にも望みがあるよね?」
その言葉の意味がわからず、ゆでたまごのように、つるんとした森田先生の顔を振り仰ぐ。
「憧れなんて、所詮絵にかいた餅っていうか、自己完結した思いだろ。そこに発展性はないと思うんだよね。まっ気長に待つよ俺」
それだけ言うとさっさと教室を出て行った。
自己完結した思いってなんだろう。そもそも、憧れと恋の違いって?
*
予備校が終わり、地下鉄に乗ろうと、人々が行きかう京都駅の地下道を歩いていた。
「有賀さんやん。今予備校の帰り?」
聞き覚えのある声に呼びとめられた。振り返ると島田さんが、まじめそうな男の子と、手をつないで立っている。
「うん、今から地下鉄に乗るとこ。島田さんはデートしてたん?」
この言葉にはにかんで、男の子に笑いかける。その姿がすごく初々しくて、私の胸がキュンとなった。
「うん。地下鉄の改札まで送ってもらうねん。彼は、宇治に住んでるから、近鉄に乗るし」
えっ近鉄から地下鉄の改札って、すごく離れているのにわざわざ?
地下鉄の改札まで、二人のラブラブムードから逃げ出したかったけど、方角がいっしょなので逃げ切れなかった。
改札の前で、手を握り合って寂しそうにバイバイって言っている二人を、私はこっそり盗み見した。
離れがたいっていう雰囲気が、私にまで伝わってくる。無機質な構内で二人の周りだけ甘くて淡い空気が流れていた。
「島田さんの彼氏、やさしそうな人やな」
ホームにおり、二人で電車が来るのを待っていた。
「うん、すごくやさしいねん。今日は彼、予備校ない日やし、ゆっくりできてよかった」
「どこでデートしてたん?」
「京都駅の駅ビルでブラブラしてただけ。さっきまで駅ビルの屋上にいてん。夜景がきれいやった」
ここまで言って島田さんはなぜか、うふふっと含み笑いをした。
「夜の屋上ってカップルばっかりやねん。薄暗いし、いい感じで物影もあるし」
笑いの意味がわからず、キョトンとしている私を、じれったく思ったようで、
「物陰に隠れていちゃいちゃしてるって事。私もさっきキスしててん」
と親切にも教えてくれた。
「外でキスすんの?」
私の裏返った声が、ホームにこだまする。周りを見渡すと、他の乗降客の視線が痛い。
「キスぐらいするよ。おさわりまでならOKかな」
おさわりって、どこさわるんだろう? 今どきカップルの生態なんて、まったく知らない私には、わからない事だらけ。
「有賀さんも先生と行ってみたら? すごい、いい雰囲気になんで」
「なんで、先生と行く必要があるん?」
また私の声が裏返る。
「えーばればれやん。こないだも、クラブの時間二人で見つめ合ってたし。付き合ってるんやろ?」
「そんな付き合ってない! ただ私が先生に憧れてるだけ」
「そうなん? 先生もまんざらでもないって感じやと思うんやけど」
「クラブのみんな、私達が付き合ってるって思ってんの?」
「私が勝手に思ってただけ。みんな先生の事見ても、有賀さんの事見てないし」
先生の事を思ってほっとした。
「でも、憧れってなんなん? 好きとどう違うん?」
ストレートに聞かれ、困惑する。
「こうなりたいって理想の人の事違うの?」
「それやったら、同性だけにある感情違うの? 異性で憧れって言うのは、恋を誤魔化したい時だけやろ。憧れてる間は、失恋せんでいいやん」
島田さんの言葉が、私の心に土足で侵入し、無遠慮に踏み荒らしていった。
*
予備校のある日は、帰宅が九時をまわる。着替えて食事はとっていると、母が話しかけてきた。
「コンサートのチケットが一枚あまったんやけど、いっしょに行かへん? 六月最後の金曜日、予備校のない日やろ? 曲はメンデルスゾーンのバイオリン協奏曲。いっしょに行く予定のお友達が行けなくなったんよ。美月、メンデルスゾーン好きやったし」
そうだっけ? と不思議に思っていたら、
「最後のピアノの発表会にメンデルスゾーンの狩りの歌弾いたやんか。あの時好きって言ってたで」
思い出した。あの事があるまで、ピアノを習っていた。大好きだったピアノ。狩りの歌は先生が選曲してくれたんだっけ。
美月ちゃんにはちょっと難しいけど、この曲のイメージにぴったりだから、がんばってみて。と言われたんだった。
明るく勇壮で、オクターブの和音が狩猟の角笛を思わせる軽快なメロディー。
あの頃の私は勝気で、元気があって一点のシミもない、明るさを持った女の子だった。
私も忘れていたのに、母はよく覚えていたな、そんな昔の事。
「わかった。行く」
母の喜ぶ顔を見たくなかった。それだけ言って、ピアノの置いてあるリビングから出て行った。
*
東棟の屋上、雨はふっていない。
「今日のおかず何?」
春日先生が俺の弁当箱を覗きこむ。
「じゃがいものキンピラです」
「ちょっとちょうだい」
と言いつつ、遠慮なく弁当箱に手をのばす。ボーっとしている俺は無抵抗だ。
「うまい。料理もできるイケメンて、どんなけいやみなん自分」
「つまんでおいて、文句言わないで下さい。自炊してるんで、弁当ぐらい持ってきますよ。節約もかねて」
春日先生はまだ、何か文句を言っていたが、そんな言葉は、霞の向こうに消えて行く。
霞の中に、彼女の赤面した顔が浮かんだ。
今まで彼女は学校で、俺に見向きもしなかった。理事宅での、親しい関係を隠しておきたいのか、恥ずかしいのか、わからない。
でも、先日のクラブの時間、目があった。見つめ合った、たった一秒。彼女は顔を赤らめ、あわててそっぽを向いた。
その意味するところは?
たとえ、その意味がおれの期待する感情であっても、その先に進める訳もなく……
「有賀美月の事考えてるん?」
ずけずけと、心を見透かされたような事を言われ、咀嚼していた玉子焼きにむせてしまった。
「何言ってるんですか」
「まーあの美貌にはクラクラするよな。若者は。あれは理事の孫やし、ガード硬いで。でも、どことなく影背負ってるよな、あの子。小学部の時確か、一時不登校になってたみたいやわ」
不登校? 初めて聞く。
「真壁先生もてるんやから、道ならぬ恋におぼれんでも、なんぼでも楽な恋愛できるやん」
「だから、違いますって」
そう言っても信じてもらえそうになかった。
この間の随求堂での出来事。暗闇の中、少しぶつかっただけでもわかった、異常な震え。
調子に乗って、手をつないだ。たしかに、つかまえたと思った。でも、俺は本当に彼女をつかまえていたのだろうか?
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