第三章 風待月
第一話 闇の中
中間テストもようやく終わり、校外写生の日は青空が広がる絶好の写生日和となった。
五条駅で待ち合わせをし、清水寺までの長い道のりを歩く。
「今日は暑くなりそうやな。日焼け止め塗るの忘れた、どうしよう」
隣を歩く島田さんは、日差しを気にしている。今日は本当に日差しがきつい。もうすぐ、梅雨に入ろうかというのに。
私はバックから日焼け止めをとりだし差し出した。
「私持ってきたから使う? これでもいいかな、一応低刺激の肌に優しい日焼け止めやけど」
「ありがとう。私アレルギーとかないし大丈夫」
お土産物屋さんが並ぶちゃわん坂の先に、朱色の三重塔が見えてきた。
仁王門を通り、清水の舞台で有名な本堂の手前にある
随求堂の胎内めぐりは有名だ。お堂の下の暗闇を、願い事を何でもかなえてくれる菩薩の胎内に見立ててある。数珠の形をした手すりを頼りに闇の中をめぐる。本尊の真下にある随求石に願い事を念じながら回すと、その願いが叶うと言われている。
生徒達は毎回ここに入りたがる。最近スピリチュアルスポットとして有名になったからだろう。
しかし、時間がかかるので前任の先生は生徒達に流される事なく、スルーしていた。
何時もここは大行列ができているのだけど、今日の行列は短い。
「今日の行列短ない?」
三年生の誰かが言った。三年の私達は、二回、行列を横目に先を急いだのだ。私はその度ほっとした。暗闇は嫌いだ。
「先生、私達三年生は今日の校外写生、最後になります。なので、最後の思い出にここに入らせて下さい」
先生の情に訴えかける作戦に出たようだ。先生もそこまで言われると、否とは言えないらしく、希望者だけ行ってよいという許可をだした。
私は、入らずに待っていようと思ったら、
「やった! やっと念願かなって入れるな。願い事が何でも叶うんやって、何お願いしよう。有賀さんは何お願いするん? やっぱり受験?」
テンションマックスの島田さんに、入る事を前提にせまられた。入らないと言いだしにくくなってしまった。おまけに、周りを見ると、美術部員全員が列に並んでいた。この状況で、一人出口で待っている勇気はない。しぶしぶ、最後尾に並んだ。暗闇と言っても自然光ぐらい入ってくるだろう。自分に言い聞かせ覚悟を決めた。
「先生も入るんですか?」
島田さんの陽気な声に、はっと後ろを振り返ると先生が立っていた。
「私も入った事ないんで、一回入ってみたかったんだ」
先生がすぐ後ろから付いてくるかと思うと余計、心臓に悪い。
学校という場では、先生と気軽にしゃべれない。祖父宅では、あんなに打ち解けられるのに。眼鏡をかけた先生は嫌いだ。
私が黙りこんでいるのが気になったのか、
「有賀さん、どうしたん? ひょっとして暗いとこ怖いとか」
島田さんが一応気を使ってくれた。
「怖いというか、苦手やねん。でも、願い事叶うんやったらがまんするわ」
ひきつった笑いを浮かべて返事をした。
私達の集団の前に親子連れがいた。幼稚園ぐらいの子供を連れたお母さんが、入口にたっている係りのおじさんに注意されている。
「お母さん、子供さんの手は右手に握って途中で、絶対はなさんといて下さいね」
おじさんの強い口調に、関係のない私が勝手に恐怖する。
「お嬢さん達も、絶対手すりをはなさんで、しっかり握っててや。お願い事を一つ唱えて、胎内から出てくると生まれ変われますよ」
順番がきておじさんに参拝料百円を渡し、中へ恐る恐る足を踏み入れた。
中に一歩入ると、ひんやりとした冷気が体をつつむ。外の陽気で汗ばんだ肌が、薄いブラウスの下で一気に総毛立つ。
数歩進むと入口の光もとどかなくなり、完全な闇が広がった。前方の人影が見えるどころか、目の前の自分の手さえ見えない。
視覚が全く効かない空間では、手すりを持つ感覚だけが頼りだった。
私は恐怖を感じ、ぎゅっと強く目をつぶる。しかし、目を閉じてもこの闇は消えない。目を開けても閉じても、同じ闇が広がり、自分でもどちらなのか、もうわからない。
美術部員達の明るい悲鳴がこだました。
私はこの闇を知っている。九歳の時に私を覆い尽くした闇。その中で私は無力感と絶望感を抱えて、震えていた。
全身から冷汗がどっと噴き出し、震えが止まらない。あの頃の思いに絡めとら
れ、もう一歩も足が動かなかった。
「あっごめん」
先生の体が私の背中にぶつかったようだ。体の感覚がマヒしているのか、ぶつかった事にも気付かない。
進まなくては後ろに人がつかえてしまう。すぐ後ろにいる先生に不審に思われる。手すりをしっかりとにぎりしめる。
進んでも進んでも、目が慣れると言う事はなかった。人の列は慣れない闇の中、ゆるゆると進む。一つ目の角を曲がった。
ガシャン!
「やばい、携帯落とした」
笑いを含んだ声がしてぴたりと歩みが止まった。
この音と共に、闇の中、何も見えないはずなのに。私の目の前に、般若の能面をつけた鬼が静かに現れた。
閉鎖された空間特有のよどんだ空気が私の肺に瞬く間に入り込む。悲鳴をあげそうになったが、恐怖にひきつり一言も声が出なかった。
*
九歳のちょうど今ぐらいの季節。その日は雨が降っていた。夜眠ろうとしたら、久しぶりに父が帰ってきた。この頃仕事が忙しく、事務所に寝泊まりする事が多かった。
私はうれしくて父にまとわりついていると、母にうながされ、しぶしぶ自分の部屋へと向かった。
愛される事が当然の権利で、当たり前の事と思いこんでいた、この頃の私。そんな私が無邪気に座っていた愛情なんて脆い物だった。
じめじめとした湿気と生ぬるい空気が寝苦しく、布団に入ってもなかなか寝付けない。すると、階下から、ガシャンという物音が聞こえてきた。
母がお皿でも割って怪我をしていないかと心配になり、階下にそろそろと下りていった。
リビングの扉から明りがもれ、母の叫び声が響いていた。普段の声とはかけ離れたヒステリックな声。私は耳を疑った。
よせばいいのに、怖々リビングの扉をそっと開き、その隙間から中を覗き込んだ。
そこには、道成寺の般若の能面をつけた清姫が立っていた。長い髪は乱れ目はつり上がり、口元はいやらしくめくれ上がり、口汚く父を罵っている。安珍を呪い殺した、嫉妬に狂う美しい鬼。
その鬼はくるりと横を向き、つり上がった目で私をとらえ、呪いの言葉を吐き捨てた。
「誰にも、言うな!」
氷のような冷たい声は、耳に響くのではなく、心に響いた。
私ははじかれたように走りだし、自分の部屋へと逃げ込んだ。頭から布団をすっぽりかぶり、恐怖に震えた。
母だったのだろうか? 普段の優しい穏やかな表情を浮かべた母とは、似ても似つかぬあれは。
夢であってほしい。嘘であってほしい。朝、起きたら何時も通りの優しい母でありますように。
私の願いは空しく、父はもう二度と家には帰って来ず、母は日に日に狂っていった。
私の心から感情が一つ一つ滑り落ち、消えて無くなりそうな程、透明になっていった。
母に何が起こったのかわからず、夜になると布団をかぶりその暗闇の中、ひたすら爪をかんだ。
爪は指の肉に食い込むほど短くなり、指先は赤黒くはれ上がった。でも、爪を噛む事をやめられない。爪からは血が噴き出し、その痛みだけが、透明な自分を存在させるすべてだった。
呪いの言葉のせいで、助けを求める事はできなかった。私がひたすら心の中で助けてと叫び続けても、誰も気づいてはくれない。そんな日々が一年ほど続いた。
*
昔の記憶が私の中にどっと流れ込み、その感情の波に私はずるずると引きずり込まれた。
心臓は体の中をのたうちまわり、頭はガンガンとわれるように痛みだす。ハッハッハッと犬のように浅い息を繰り返す。驚くほど息が早くなり、過呼吸の発作を起こしそうになっている自分に気づく。
このまま息を吸い続けると死んでしまう!
恐怖から決して離すなと言われた手すりを思わず離し、両手で頭をかかえこんでしまった。
もう、あの日々は終わったのだ。今は平穏な毎日を過ごしている。父は家に帰って来ないが、母は大量の薬を飲んで落ち着いている。何も恐れる物はない。
そう自分に必死に言い聞かせても、鼓動は治まらず、呼吸はどんどん早くなり、意識が薄れてゆく。
もうだめ、誰か助けて!
そう心の中で叫んでも、誰も助けてはくれない。自分の体を支えきれなくなり、足元から崩れ落ちそうになった瞬間、誰かの手が力強く私の両腕をだいた。
「大丈夫、怖くない」
先生の暖かい息と共に、低く落ち着いた声が、耳元でささやいた。
その声を聞くと、ふっと全身を縛り付けていた緊張から解放され、深く息をはいた。不思議な事に震えもとまっている。
先生は私の左手をさぐり、力強くにぎりしめ、歩きだした。緊張と恐怖で凍えていた私の手に、先生の暖かなぬくもりが伝わる。
まだ、先ほどの発作から抜けきれない私はボーっとして、小さな子供のように先生の手にひかれるまま、したがった。
誰かに身をゆだねられる安心感。こんな気持ちになったのは何時以来だろう。
前方に小さな明かりが見えると、先生の手はするすると離れていった。
「有賀さん、大丈夫やった? なんか遅かったし心配したで」
島田さんが待っていてくれた。
私は大丈夫と伝えたくて、笑顔で島田さんを見た。
「石にお願い事すんだ?」
「もちろん」
石はひんやりと冷たく、さっきの手のぬくもりを思い出す。ぬくもりに包まれながら、石をまわした。
石から離れるとまた、出口をめざして暗闇の中を歩く。もうさっきのように立ち止まらなかったが、手すりを持つ私の震える左手を、先生の大きな手が包み込んできた。
闇の先に一条の光が見え、私を包み込む暖かな手は離れて行く。その手を失いたくなくて、指に力を入れた。心臓が一回鼓動する一瞬の間、指と指がからみあった。瞬く間に、私の心はその手に、そっと寄り添うように体をおいてぬけだしていった。
残された体は、離れていった心を求め思い初める。
出口に立っている、おじさんが言った。
「願いは叶って、生まれ変われましたよ」
外に出て、空のまぶしさに目を細める。
雲ひとつない、ぬけるような青空を見つめていると、この広い空の下のどこかに、私にも帰る場所があるような気がした。
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