第八話 誕生日

 今日は夕方から雨の予報なので、地下鉄で、理事宅まで来た。

 長屋門をぬけると、玄関に彼女が立っていた。

 この年頃の女の子がよく着る、ファストファッションなど彼女は着ない。何時も、上質で上品な、自分に似合う洋服を着ている。


 とりわけ今日のワンピースは、とても似合っていた。


「誕生日おめでとう」

 と言うと、彼女ははにかんだ笑顔をかえしてくれた。


 長屋門の部屋に入る。額縁から出した桜の絵が新聞紙の上にのっている。部屋の端には刷毛や霧吹き、溶剤などが寄せてある。

 まだまだ、修理は終わりそうにない。うれしい事に。


 彼女が絵を覗きこんでいる。長い髪がたれ、顔にかかる。大きな形のよい目だけが見えている。俺が一つの巻物を、差し出すと、その目で俺をとらえた。


「俺の絵見たいって言ってただろ? 大学時代課題で描いた巻物なんだけど」

 声がふるえそうになるのを、必死でおさえる。


 それは、洛中洛外図だ。京都の景観や風俗を鳥瞰図で描く様式、戦国時代から江戸時代にかけて多く制作された。


 普通は屏風に描くが、現代では屏風に仕立てるのは大変なので、俺は絵巻物に仕立てた。

 春の京都から始まり、四季の移ろいを描いている。


「これって、現代風の洛中洛外図なんですか?」

 その絵には、現代の建物を所々紛れ込ませている。京都タワーや駅ビル。明治に建てられた博物館など。


「現代と江戸時代のミックスかな。ほら、人も現代人を入れてるんだ。昔流行ったウォーリーを探せみたいな感じで」

 Tシャツの現代人が洛中洛外図の中をうろついている。


「遊び心があっておもしろい。でも、技巧とかもすごくて、私四年間勉強してもこんな絵は、描けないような気がします」

「そんなたいした事ないよ、俺なんて。結局絵描きにはなれなかったし」

 俺の自嘲気味なセリフに、彼女は不思議そうな表情をした。


 今度は髪を耳に掛け、熱心に絵に見入る。

 その横顔を見ていると、あたりに落ちていた紙に、彼女の顔を描き始めていた。ほぼ、無意識に。


 鉛筆の走る音に気付いたのか、彼女がこちらを見た。

 思わず、紙をかくす。


 古今東西、画家が金銭のからむ契約以外に、頼まれもせず、自主的に女を描くという行為は、その女にそそられている、ということわりをかくすために。


 うまく誤魔化せるわけもなく。彼女は紙に気付き、興味からか見せてほしいと言った。

 俺がしぶると、彼女は紙をとろうと、前かがみになった。

 ワンピースの胸元から、胸の谷間がのぞく。

 ちょっとそれは反則だ、とどこにいるかわからないレフリーに、心の中で抗議する。


 抗議は聞き入れられず、腕をつかまれ、無理やり紙をとられてしまった。


「この絵私にください。誕生日のいい記念になるから」

 俺の気持ちに気付きもせず、無邪気に言う。


「これ、走り書きだし。もらってくれるのならちゃんと描くよ」

 芸術性を追求する画家ではなく、下世話な恋情を持つ画家には、罪作りな笑顔を残し、彼女は部屋から出て行った。


 急いだのか、息を切らして帰って来た。スケッチブックとパステルを俺の前に置く。

「このパステル今日プレゼントで佳代ちゃんからもらったんです。先生使ってくだい」


「すごいね百色セット。ほんとに使っていいの。有賀さんまだ使ってないんだろ?」


「いいです。先生の方がこのパステル使いこなせると思うから。パステルの使い方、私も参考になるから、使って下さい」


「なんかハードル高くなったけど、あんまり期待しないでね」

 彼女は、掌を開き俺の前に差し出した。掌には色とりどりの包み紙に包まれた、飴がのっていた。


「それと、飴どうぞ。絵を描く時のどかわかないですか? お茶だとこぼしたら大変やし。飴やったら大丈夫でしょ」


「なんか大阪のおばちゃんみたいだね」

「ひどい」

 すねて、掌を握ろうとする。俺は彼女の手首をつかみ、飴を一つつまみ上げ口に放り込んだ。


「甘くておいしい、ありがとう」

 俺がそう言うと、彼女も特大の甘い飴をほおばったように、笑った。


 彼女の視線を真正面から受け止めきれない、よこしまな俺は、横を向くようにポーズを指定した。


 視線を気にせず、彼女を存分に愛でる事ができる時間に、俺は夢中になった。

 何時の間にか雨が降り出し、静かな室内に、鉛筆が紙の上をすべる音と、雨音そして、微かな寝息が重なった。

 彼女は、壁にもたれ眠り込んでしまった。


 その無防備な寝顔に呆然とする。

 まったく、男として意識されていないという事実。胸がせつなくなった。

 そのせつなさのせいか、彼女にそっと近づく。まったく、俺に気付かない。

 気付いてほしいのか、気付いてほしくないのか、自分でもわからない。

 

 胸に垂れる、長い髪を一ふさとり、自分の唇にあてた。


                   *


「もういいよ」

 先生の声で、はっと目が覚めた。

 自分がどこにいるのか、わからなかった。

 先生の困った顔を見て、思い出す。


 そうだ、絵を描いてもらってたんだ私。

 寝顔を見られたというのも恥ずかしかったが、描いてほしいと自らお願いして眠りこけるなんて。どんだけ厚かましい態度だろう。


 先生はいたずらっ子のように、にっこり笑って、

「いい寝顔の絵が描けたよ」

 なんて言うので、慌てて先生の横に駆け寄りスケッチブックを覗きこんだ。


 寝顔ではなく、ちゃんと目を開けて幸せそうに微笑んでいる私がいた。

「もー違うやないですか。でも、すごくきれいに描いてもらって私やないみたい。ありがとうございます。あっそれとすいません眠ってしまって」


「昨日遅くまで勉強してたんだろ?」

 何でも、見透かしてしまうような鳶色の瞳にみつめられ、私はうつむいた。


「後は色をつけるだけだから」

 先生の手の動きをじっと目でおう。パステルは何層にも塗り重ねると、魔法のように立体感が出て美しく発色する。先生の手で私の顔に生気が宿る。


 私もこんな風に絵が描きたいと食い入るように見つめていたら、ふと先生の指先に目が止まった。

 爪が細くて長い、綺麗な指。美しい物を生み出す手。私の手とは全然違う。

 

「私、夕食の手伝いしてきます」

 先生と同じ空間にいるのがつらくなって、逃げ出した。


                *


「手伝いなんていいのに」

 台所に行くと、雅恵さんに言われた。


「今日おじいちゃんは?」

「最近、忙しいみたいで、今日も出張に行ってはります」

 祖父も、もう七十代なのだから、ゆっくりしたらいいのに、と思うが会社の後継者がいない。


 父が継いでいたら、母の人生も大きく変わっていたかもしれない。

 過去をふりかえり、あの時こうすればよかった、って思っても、時間は一ミリも後ろには動かないのに。


 夕方になり、雨が激しくなってきた。佳代ちゃんがレインコート姿で、ケーキの箱を下げて帰ってきた。


「ご飯できてる? お腹へったわ。ジジのケーキ買ってきたで」

 北山通りにある「ジジ」は私の好きなケーキ屋さん。夕食の支度はできているので先生を呼びに行った。


 先生は私がつくったハンバーグをきれいに残さず食べてくれた。空っぽのお皿を見て、こんなにうれしくなるなんて。普段私が食べ残しているお皿が、頭をよぎった。


 食後にケーキを食べたが、さすがにローソクは辞退した。ケーキを食べ終わると先生がスケッチブックを差し出した。


「誕生日おめでとう」

 開くと、パステルで彩られた私が瑞々しく浮き出るようにそこにいた。先生の目に映った十八歳の私。


「ありがとうございます。うれしい、大事にします」

 先生は、なぜだか寂しげにうつむく。


                *


 日が暮れるのが遅い季節。でも、雨のせいか外はもう暗くなっている。彼女を家まで送る。

 二人、傘をさして駅まで歩いた。雨は先ほどより小ぶりで、アスファルトの上にできた水たまりが、微かに振動していた。


「今日のワンピース似合ってるね」

 彼女が照れて俯く姿が見たく、俺は唐突に言った。


 案の定、俯く。俯いたまま話し始める。

「今日は私の絵を描いてもらったから、修理が進まへんかったんじゃないですか? すいません、無理言って」


「今日は雨も降ってたから、作業は進まなかったよ。気にしないで」

 地下鉄の構内は、外の暗さとは対照的にばかばかしいほど明るかった。


「予備校はどう? ついていけそう?」

 教師らしい、質問をする。


「みんなうまくて、最初はついて行くのに必死でした。今はなんとか、真ん中ぐらいのレベルは維持できるようにはなりました。一人熱心に指導してくれるバイトの先生もいるので助かります」


「京美大の学生?」

「はい、この間展覧会にも誘っていただいたんです」

 男だろう。

 俺は、彼女の事を本気で思うようになってから、女子高でよかったと心底ほっとした。


 共学であったなら、発情期まっただ中の男子生徒のいやらしい目線に、彼女はさらされる。そんな視線にさらしたくない。でも、そんな男どもと、自分はいっしょなのだ。


 俺は、彼女をさそうどころか、展覧会にいくなとも言えない。

 ジェラルミンケースを連想する、銀色の車体が、ホームにすべりこんできた。

 車内は混んではいなかったが、座席はすべて埋まり、立っている人が数人いる。

 

 並んで吊革につかまり、前を向き外の暗闇で鏡のようになったガラス窓を見る。ガラスには、俺と彼女の姿が映っている。二人の間には、他人以上友達未満の、絶妙な空間がむなしく存在していた。


 北山駅で降り、地上に出ると雨はもうあがっていた。雨上がりの清涼な空気はすがすがしく、俺は深く息を吸い込む。


「今度の土曜日の校外写生、参加する事にしました」

「ほんと? よかった。来週はお天気になるといいね」


 彼女の家まで後ちょっと。後すこし。

 お菓子の空き箱のような家が、見えてきた。


 彼女の体から突然、警戒音が発せられ殺気をおびた気配が放たれた。

 俺は戸惑い、彼女の視線の先を見た。


 玄関の前に、鍵を回している人影がある。あの写真に映っていた女性だった。時をへて、幾分しわがふえているが、まだうつくしさをたもっているその顔。しかし、表情は生気がなく、能面を連想させる。


「あら、美月」

 彼女の母親はこちらを見て、あきらかに俺を不審げに見ている。俺は誤解をとくべく、自分の素姓を明かし送ってきた事を説明した。


 母親は無表情に、形通りの挨拶を返す。

 彼女は先ほどの警戒音を、体中から発したまま、こわばった顔で俺に礼を言い、母親を押しのけるようにして家に入っていった。



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