第四話 夕立のあとで

 ずぶぬれにぬれた。ぬれ鼠みたいな最低な気分で、マンションの非常階段の隅っこに、丸まって座っていた。このマンションにはエレベーターが付いているので、階段を使う人はめったにいない。


 その暗がりで先生を待っていた。スマホも何も持たず家を飛び出したので、時間がさっぱりわからない。先ほどの夕立は私の希望とは裏腹に、あっさり降りやんだ。先生が帰ってくる前にやんでよかったと、少しポジティブに考える事にした。


 足音がするたび、顔を膝からあげ姿を確認するが、私の待っている人ではなかった。


 真夏とはいえ、濡れた髪が背中にはりつき、どんどん体温を奪い、スカートから出た脚はサンダルをはいているので、つま先から寒さが伝わり、私は震えた。


「美月! どうしたそのかっこ」


 待ち人の、素っ頓狂な声を聞いて思わず笑いそうになった。階段からダイブして、その胸にとびこんだ。私の肩を抱いた先生はあまりの私の冷たさに、驚いていた。でも、私の心は、体の冷たさに反して暖い。


 大きな帰省の荷物をかつぎ、胸にしがみつく私を半ば引きずるようにして、部屋まで連れて行ってくれた。


 初めて入る男の人の部屋。もっとうれし恥ずかし恋せよ乙女的な、甘酸っぱい気持ちで入りたかった。


 三日間締め切っていたので、むっとした空気が部屋を漂う。奥にのびる廊下の右手に小さなキッチン、左にユニットバスの1Kの間取り。


 慌てた先生にタオルと着替えを押しつけられ、ユニットバスに押し込められた。

 雨に濡れ重くなった服は、体にまとわりつく。その枷をはぎとり、裸になり熱いシャワーを浴びた。しびれていた足や手が生気を取り戻し、凍えていた感情が動き出す。


 貸してもらったTシャツを着たら、ワンピースのようになり、思わず笑った。その下に、短パンをはいて奥の部屋へ入った。


 クーラーの冷気が、シャワーを浴びほてった体に心地いい。つんと、絵の具の臭いが鼻をくすぐる。八畳ほどの部屋は綺麗に片付いていて男の一人暮らしという感じがしない。


 そう言ったら、普段はもっとちらかっているって先生は答えた。

 家具はベッドと本棚、ローテーブル。必要最低限のものしか置かれていない。テレビは床に置いてあった。イーゼルやカルトン、スケッチブック、絵の具などは部屋の隅によせられている。蛍光灯の青白い光が、どこか寂しい。


「濡れた服乾燥させるから、洗濯機に放り込んで」


 そう言われて、キッチンの横にあった洗濯機に入れた。後ろから先生の手が伸びてきてドキッとしたけど、乾燥コースのスイッチを押しただけだった。


 ローテーブルに熱いコーヒーの入ったマグカップが二つ置かれていた。ムーミンの柄だったので、思わずかわいいと言ったら、友達にもらったって下を向いて答えた。たぶん女の人だろう。


 先生の隣に座って、私が熱いコーヒーを一口飲んだら、安心したように言った。


「服が乾いたら、家まで送るよ」

「嫌だ、帰りたくない」


 何回目だろうこのセリフ言うの。自嘲気味な気分をふり払うように、しゃべりだした。


「今日お父さんが、彼女に子供ができたから、離婚してくれって言いに来てん。新しい家族ができたから、私達捨てられた。お母さん昔みたいに、キレるかと思ったらあっさり承諾して、それでおしまい。お父さんに何にも恨みごと言わんと、養育費もいらんって。お父さんひどい事したのに、なんのペナルティーもないんやで。ほんまお母さんあほや」


 先生はじっと私の目を見つめ黙って聞いていた。その視線にたえられず、ムーミンの愛きょうのある顔に意識を集中させた。


「なんか、お母さんのかわりになって、怒ってるみたいだよ、美月」


「違う。私はお母さんやない。違う! あんな子供を虐待するような人と違う。あんな最悪な親なんて、いらん、いらん!」


 私と母は、あまりにも二人でいすぎた。二人だけの空間に閉じこもり、私は母ばかり見ていた。そこにいるのが、母なのか、自分なのか分からなくなるほど、ずっと。


 思わず爪をかもうとし、口元に手を持っていくと、その手を強く握られた。


「たしかに、美月とお母さんは違う、でも、重ねている。恨んでも、許せなくてもいいんだよ。そう思うのはあたりまえだ。でも、自分と重ねている、お母さんを否定したらダメだ。自分を否定する事になる」


 先生は、私の震える顔を両手で包みこみ、おでことおでこをくっつけた。先生の鳶色の瞳に私が映り込む。


「俺は美月のお母さんに感謝してる。美月をこの世に産んでくれたんだから。お母さんがいなかったら、俺は美月に会えなかった。そんなのは、嫌だ」


 何それ、最強の殺し文句。先生は相変わらずキザだなと笑おうとしたら、私の思いに反し、のどの奥から嗚咽がもれた。


 先生の体温を感じたくて,強く抱きつき、心の奥から絞り出すような声を出して泣いた。先生が着ている白いポロシャツが、みるみる私の涙と鼻水と熱い息がかかって湿っていく。背中を丸め、小さな子供みたいに泣き続ける私の背中を、先生は何時までもやさしくなでてくれた。


 今まで何度神さまに、助けてとすがったかわからない。でも、神さまは意地悪でちっとも私を助けてはくれなかった。


 今日初めて神さまに感謝できる。この人に出会えてよかったと。この人に巡り合わせてくれて、ありがとうございますと。


 あの時、母に求めた手は、先生の手となり私をやさしく抱きしめる。小さい私が、笑ったような気がした。


                  *


 シャワーの水音が静かに響く。その音は心地よく、私を眠りに誘う。今すぐベッドに入りたいと、視線を投げた。すると、顔から火が出るほど恥ずかしさが込み上げてきた。

 ガチャリと音がして、先生が頭からタオルをかぶり入ってきた。私は慌てて背中を向ける。


 帰りたくないっていった時は、何にも考えてなかったけど、男の人に自分から泊めてって言う事は……


 腰に残る、三角の傷跡がずきりと痛んだ。こんなの見たら引くかな? 見せる勇気が私にあるだろうか?


「疲れたろ? 早く寝なさい。明日朝送っていくよ。うち布団一組しかないから、悪いけど俺のベッドで寝て」


「颯人さんどこで寝るん?」


「床で寝る」

 その言葉にほっとしたけど、思いとは違う言葉がこぼれる。


「いっしょに、寝よう」

 振り向いて、先生の目を見る。一瞬怪しく目が光ったけど、何事もないように、


「だーめ。いい子は寝なさい」

 子供扱いして言う。


 しぶしぶ、ベッドに入った。

 しぶしぶ? 私先生としたかったの? いやいや、そんな。

 二つの相反する乙女心がぐるぐる頭の中をまわる。布団からは先生の臭いがするし、こんなんじゃ眠れないよ。子供扱いするんだったら、子供っぽい事言ってやる。


「寝るまで手を繋いでて」


 思いっきり甘えた声で先生の手をとった。なぜだか、すごく冷たい。その手をほてった私の頬にあて温めてあげようとしたら、先生はあわてて手をひっこめた。


「やめなさい。理性がふっとぶ」

 そう言って、真っ赤になってそっぽを向いた。かわいい。


 煙草吸っていいかと聞いて、ベランダの戸を少し開け、深く息を吸い込み、煙をはきだした。


 煙草やめたんやないのって聞いたら、今は無性に吸いたいと言った。ほんとに美月は俺を弄ぶ小悪魔だとか、ぶつぶつ文句を言っている。


 私は先生が煙草をくゆらせる姿をクスクス笑って見ていたら、瞼が重くなってきた。目をつぶると煙草の臭いと先生の声が遠ざかり、優しさだけが私を包んでくれた。

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