第三話 夕立
―今日は親戚が集まって宴会だった。今終わった所。お腹がくるしい。
先生は今、お盆で実家の山口に帰省している。人の気も知らないで。のん気なメールに少々腹がたったが、そんな事メールにかける訳もなく。
―明日帰ってくるんだよね。早く会いたい。
ーなんか、あったの? 美月から会いたいなんてメールはじめてだね。うれしいけど。
まさか、たった三日の帰省で不安になったなんて言えない。
今日父に言われた言葉「何でも言い合える関係って相当難しい」が身にしみて理解できた。
―今日、親戚との修羅場があったり、お父さんが会いにきたりいろいろあったから、大変やったの。
―明日京都駅に夜八時二分着の新幹線だから。家には八時半ごろ帰れると思う。
―家を抜けられそうだったら、マンションまでいくね。
―俺も会いたい、おやすみ。
明日どんな言い訳をしてその時間家をでよう。はやる気持ちを抑えながら、理由を考え始めた。
*
お盆ぐらい勉強を休もうと砂羽ちゃんが言い出したので、四条まで映画を見に出かけた。
エンドロールが流れ始め映画館をでる。外は夕立を降らす黒い雲が空を覆い始めていた。雨の臭いが鼻をくすぐる。ぬれたくないのでいそいで家に帰ると、またベンツが家の前に停まっていた。
そう言えば明日の予定を父に聞かれた事を思い出した。でも、今まで二日も続けて会いに来た事はなかった。ベンツの運転席を覗くとそこに人影はない。
まさか、家の中にはいったのだろうか?
夕立前のよどんだ湿気と、まとわりつくような生ぬるい空気。この不快な空気を一掃するように、さっさと激しい雨が降ればいい。何もかもきれいさっぱり、洗い流せばいい。たとえ洪水になっても。
家に入り、リビングをのぞく。冷えすぎたクーラーの風がもろに私を直撃した。
「ただいま」
そこには、ぎこちない夫婦が、向かい合って座っていた。
「おかえり、お父さんから話があるって言うから、座って美月」
ひょっとしてこの二人、私が帰るまで会話がなかったの? こんな冷めきった夫婦の姿なんて、今ラブラブの娘に見せないでほしい。怖くなる。
「今日ここに来たのは、これを渡すためなんだ」
そう言って、父は離婚届を母の前に出した。母は顔色ひとつ変えず、「そう」と一言つぶやいた。
「今付き合っている女性に子供が出来て、どうしても結婚しないといけないんだ。二人には本当に申し訳ない。美月の養育費は大学を卒業するまで、払うよ」
「いらない。これ書いてどうすればいいの?」
「事務所に送ってくれたら助かる」
そう言って父は私を見た。
「美月はどうする、お父さんの所に来るかい?」
何言ってんのお父さん、私あなたとまともに暮した事ないのに。
私は力なく首を横にふった。父はうなずいて、あっさり家を出ていった。私が帰ってから、たった五分の出来事。
これが、神の前で永遠の愛を誓った二人のなれの果て?
母はさっさと立ち上がり、何事もないように、夕食の用意をはじめた。取り残されたのは私と、机の上に置かれた紙きれ一枚だけ。
「なんで」蚊の泣くような小さな声で問うた。母が気付いたのか、振り向く。今度は大きな声で。
「なんで!」
「なんでってなにが?」
私は答えない。答えたくない。
「お金の事やったら心配せんでも大丈夫や。お母さんこう見えて収入あるんやから。おばあちゃんから相続した株や不動産の賃貸収入とか。だから今まで通りの生活できるから、心配せんでええ」
「そんなんどうでもいい。なんで、お父さんに何にも言わへんの? 前みたいに、なじればよかったやん。離婚なんかできひんって言えばよかったやん」
「だって、もう子供ができてるんやし、その子が私生児にでもなったらかわいそうやろ」
「かわいそう? 私はどうなんの。気が狂うほど、好きやったんやろ? お父さんへの思いを私にぶつけるぐらい好きやったんやろ?だから、離婚できひんかったんやろ?」
私の言葉に動揺するわけでもなく、母は淡々と言う。
「あの時、お父さんに対する愛情だけで、おかしなったんやないような気がする。それに、もう愛情なんてなくなってしもた」
その言葉が、私の心臓をえぐる。
「何それ! 私先生の事好きになって、お母さんの気持ち少しだけわかる気がした。愛が深いから、おかしなったんやろうって。それで、虐待された事を納得しようとした。ほな、私何のために虐待されたん、なあ?」
母はシンクの淵を強く握り、眉間に深いしわをよせた。
「私もあの時、つらかった。誰にも相談できひんかったし。婚約破棄までして結婚したのに、離婚したら親に会わせる顔がないって。自分で自分を追い詰めた。私の弱さがあんたに向いたんやと思う」
「私今でも苦しい。お母さんがどんどん私の知らん人になっていく。それを見てるしかできんくて、怖くて怖くて。私を見てほしかった。やさしく頭をなでてほしかった。お母さんの手で抱きしめてほしかった。私の事愛してほしかった! 虐待されたんは、一年だけやけど、その間私は大事なもんをいっぱいなくした。なくしたもん返して! 私の苦しんだ時間を返して!」
私は情けないほど、涙を流していた。その涙がクーラーで冷やされ、熱いはずなのに冷たく頬を伝う。
「お母さんは忘れたかもしれんけど、小学三年の娘に消えてって言うたんやで。ほんまに私、あの時消えてしまいたかった」
心の奥底に沈んでとぐろを巻いていた思いが、今私の口からはきだされる。母の目を見た。その目には私が映っていたから、安心して言う事ができた。
「お母さんみたいな最低で、弱い母親なんかいらん! 私の前から消えて!」
投げつけられた言葉が、母は凍らせる。ざまあみろ。
家から飛び出すと、悪いタイミングで雨が降り出した。私はぬれるのもかまわずゆっくり歩き出す。お天気お姉さんがよく言う、バケツをひっくり返したような雨にうたれた。頭から何杯もバケツの水を掛けられ、水責めにあってるようだ。
私、なんにも悪い事してないのに、なんで?
足は自然と先生のマンションへと向かう。
今日家を出る口実を考えなくてもすんだなと、皮肉に唇の端がつり上がった。
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