第三話 いつわりの夜空

「こら! そこ何してるんや」

 見回りのお巡りさんの声が大階段に響き渡る。


「やっべ、逃げろ」

 決まり切った陳腐なセリフをはいて、チャラ男たちは、階段を勢いよく駆け下りていった。よく、転ばないなと感心した。


 私はその光景を、自分にまったく関係のない現実感のないまま眺めていた。自分は、逃げる必要がないと、のん気に考えていた。


「君、一人でこんな時間まで何してんの。おまけに女学院の生徒やないか。ちょっと交番までおいで」


 強面のお巡りさんに、これまた威圧的な態度で言われたらついて行くしかない。これが、世に言う補導ってやつ?


 補導された経験なんかない私は、いまいち事の重要性がわかっていなかった。ただ話を聞かれ、その後は解放してくれるものだとばかり思っていた。


 駅ビル一階の交番に入ると、パイプ椅子に座らされ、氏名や住所を聞かれた後、質問攻めにあった。


「こんな時間に何してたん?」

 生きる意味について考えていました、なんて言える訳ない。


「予備校が終わってから、なんとなく疲れてあそこに座ってました」

「予備校は何時で終わったん?」


「八時半です」

「ほなあそこに一時間以上も座ってたんか。制服着てうろうろする時間違うで」


「すいません」

「女の子が夜一人でいるから、あんな連中に声かけられるんやで。ついて行ったら何されるかわかってたんか?」


 具体的に何をされるか教えてくださいって、言おうとしたが、話がややこしくなりそうなので、すなおに謝った。


「最近の女学院も質が落ちたんやな、ナンパで補導される生徒がいるなんて。君このまま帰したら、またふらふらどっか行きそうで危ないから、親御さんに迎えに来てもらうわ」


 親という単語にびくつく。こんな事が母にわかったら、また病院に行こうと言われるだろう。せっかく平静を装っていたのに。


「家に親はいません。出張中です。だから寂しくて家に帰りたくなかったんです」

 お巡りさんに、とびきり悲しそうな目線を送って、小学生のような言い訳をした。なんとかして同情を得ないと、連絡される。


「えっそうなん? しょうがないなーほな、他に親戚の人とか大人で連絡つく人いる?」


 佳代ちゃんにも連絡したくない。どうしよう他に大人の知り合いなんていない。こんなに蒸し暑いのに、体が緊張で冷たくなっていった。


 掌にかいた冷たい汗を、無意識にスカートで行儀悪くもふいた。ポケットの中に入っていた何かが、カサっと音をたてた。ポケットからそれをとり出す。

 掌を開いてみると先生にもらったあの時の紙が、申し訳なさそうにちょこんとのっていた。


「学校の先生でもいいですか?」

 私の回答にお巡りさんは驚く。普通教師には絶対連絡したくない事だ。


「かまへんけど」

 校外写生の時もらった、先生の携帯番号を教えた。お巡りさんはなんの疑いもなく、電話をかける。一通りの事情説明が終わり、受話器を置いて私を見た。


「ほんまに学校の先生なん? いやにうろたえてたし、声もずいぶん若い感じがしたんやけど?」

「クラブの顧問の先生です」


 私とことん最低な女だ。先生の誘いにはのらなかったのに、自分の都合で呼び出すなんて。これで、先生も私にあいそをつかすだろう。


 それから、二十分程たって先生が交番に駆け込んできた。お風呂にでも入っていたのか、髪はぬれていた。Tシャツにラフなジーンズ、足元はサンダル。およそ、教師に見えないいで立ちで、上着は着ずに、小脇に抱えていた。


「おたくほんまに先生なん? えらい若い先生やな。この子の彼氏違うやろな?」

 お巡りさんはもっともな感想をのべた。


「女学院の美術教師です。身分証も持っています」

 学校の身分証を見せて、ようやく納得してもらえた。


「補導するほどでもなかったんやけど、この子なんかしょんぼりして、悩みでもありそうな雰囲気やったし。先生、よう話聞いたげて下さい」

 見た目と違って、以外に親切なお巡りさんだった。


「ご迷惑おかけしました。今後このような事がないよう、十分注意しておきます」

 先生は深々と頭を下げ、私の腕をつかんで交番を出た。無言でタクシー乗り場に行くと、私に上着を着るようにうながした。


「制服でいると目立つから、俺のコートで悪いけど着て」

 ベージュのスプリングコート。春に先生が毎日着ていたものだ。袖を通すと煙草の臭いに包まれ、先生にすっぽりと、抱きしめられている気分になってクラクラした。

 私この臭いから逃げていたのに。


 男性用のコートは案の定ぶかぶかで、先生が袖口を折り返してくれた。

「すごく早かったですね」


「うん。慌ててタクシーに乗ってきた。電車より早いと思って。さっ早く帰ろう。お母さんが心配してるよ」

 ウソつき。母が心配なんかしている訳がない。先ほどの先生に対するあきらめを、もっと確実なものにしたくなった。


「いや、帰りたくない」

 先生は、困った子を見るような眼をして肩をすくめる。


「じゃあ、どうやったら帰りたくなる?」

「いっしょに、屋上に行って」

 彼氏に寄り添って、幸せそうな島田さんの顔が浮かんだ。


「いいよ。でも、その後は帰るんだよ」

 さっき私が補導された大階段は、人も少なくなり、エスカレーターが止まっていた。


 これは大誤算。運動オンチの私はそびえ立つ階段を目の前にして自分が言い出し

たのに、帰ろうかと思った。先生はそんな私を見て、手を繋いで引っ張ってくれた。


「体育の成績悪いもんな」

 そう言って、意地悪く笑う。


 さすがに夜とはいえ、コートを着ての階段上りは、暑かった。息が切れ、私はまったくしゃべれない状態でやっと屋上についた。先生は全然息が乱れていない。


「先生全然平気なん?」

「俺、中高とテニス部だったから」

 そんなもてスポースしてたんだ。それで顔もよくて絵もうまいって、どんなけリア充なんだ。それに比べて私は……


「暑い、コートぬぎたい」

 肩で息をしながら言う。


「じゃあ、こっちおいで」

 屋上は薄暗く、竹にライトがあてられ、燈篭が灯り、照明が抑えられている。


 島田さんが言うように雰囲気満点だった。

 ほとんど人はいないが、ベンチに座っているのは、カップルばかり。確かに、こんな暗がりだったら、キスをしていてもわからない。


 昼間は、太陽の光を遮るものが一切ないので、かなり暑いだろう、でも、日の落ちた夜ならすごしやすかった。


 北側には、巨大なロウソクみたいな京都タワーのてっぺんだけがのぞいている。

 先生は南側に私を真っすぐ連れていき、大きな排気口の影でコートをぬがせた。ここならベンチに座っている人からも見えない。汗ばんだ体に夜風が心地いい。


 南側には新幹線のホームが川のように細長く光り、駅前のホテルの光が輝いている。京都盆地の南側、宇治まで続く夜景は、無数の星がちらばった夜空のよう。

 足元に広がる、無機質な虚構の星空から目が離せない。作り物の星空は酷薄で美しい。


「きれい。光にすいこまれそう」

 排気口の壁にもたれて、アクリルガラス越しに夜景と対峙する。


 先生も私の隣で壁にもたれ、まっすぐ前を向いている。ぬれていた髪もすっかり乾いて、風が吹く度、涼しそうになびいている。薄暗がりに浮かび上がるほど、白い横顔を見ていると、心が焼けつくようにひりひりした。


「先生ここ初めて違うやろ。彼女ときたん?」

「前付き合ってた大学の同級生と来た」


「ふーん。先生もてるもんな」

「何をもって、もてるって言うかわからないな」


「ふふっ。いっつも女の人から付き合って、って言われるやろ?」

 先生は私の顔をみない。


「そう。で、付き合いだしたら何時の間にかふられてる。絵ばっかり描いてるって言われて。俺が自分から好きだって言った人は、君が初めてだ」


「ずるい口説き文句やわ」

 こんなくだらない事はしゃべるのに、肝心な事は何も聞いてこない。なんで遅くまで駅にいたのかとか、なんでナンパについて行こうとしたのかとか。


「なんで、何にも聞かへんの?」

「君を信じているから」

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