第二話 大階段の片隅で
気がつけば、何時の間にか古典の授業は終わっていた。次は美術だ。行きたくないと思っていたら、
「有賀さんも、美術やろ? はよ美術室に行こう。週一回、真壁先生に会える貴重な時間やで」
五人グループの内三人が美術を専攻していた。ここで、断ってサボる事はゆるされない雰囲気。しぶしぶ、立ち上がり美術室に移動した。
「真壁先生やばいぐらいかっこええわ」
「そうそうやばいよな。うわさで聞いたんやけど、二年の子が告ったらしいで」
「えーあほ違う? 告ったって付き合えるわけないやん。死ねって感じ」
彼女達の中では、死と言う言葉も軽く、質量を伴わない。死と言う言葉に現実感がもてないのだろうか? 死ぬってそんなに、簡単じゃないよ。
「ほんまほんま。有賀さん美術部やったやろ、なんかうわさ聞いてない?」
「最近、クラブ行ってないし、その話初めて聞いた。でも、先生が生徒相手にする訳ないやんな」
自分で言った言葉に、グッサリ傷ついた。
佳代ちゃんがもうちょっと遅くノックしていたら。先生の思いを唇に受け、私も好きだと言葉にしていれば……先生を信じられただろうか?
乾いた笑いがもれる。何調子にのって、浮かれていたんだろ。私なんて恋愛できるような子じゃないのに。私なんて誰にも愛されない子なのに。
あの甘い記憶を消してしまいたい。
半袖のカッターに縞のネクタイ姿。背が高いので幾分腰をかがめ、先生が入ってきた。
教師の顔をして、クールな表情を見ると、この間のすねていた顔や、心の底から出た満面の笑顔が、時間の地平線に吸いこまれていく。
でも、何度も抱きしめられた肌の感触や、私より少し高い体温を振り払う事が出来ない。
これ以上占領されないよう、視線を窓の外に泳がせる。
授業は来週の期末に合わせて、美術史の講義だった。
「期末は、今日やる授業から七割出題するので、しっかり聞いていてください」
先生の低くて落ち着いた声が、四〇人程の生徒を押し込んだ空間の隅々まで、届く。
だめだ、姿を見なければいいと思っていたけど、声にも反応してしまう。あの声で好きだと言われた事を思いだす。首すじにかかった息の生温かさが、私を非情にもなめる。
「先生サービスよすぎー」
「サービスではなく、親切です」
教室中が、私を残し笑いに包まれる。
授業は淡々と進み、私はひたすら窓の外を見ていた。校内の木々は若葉の頃をすぎ、雨を十分取りこみ青さをましていた。
授業の内容は受験対策でほぼ理解している。ぽつぽつと雨が降り出した。今日は七夕なのに、また雨だ。旧暦の七月七日は梅雨も明けていて、晴れる確率が高かっただろうけど、新暦では梅雨の盛り。雨の日がほとんどだ。
織姫と彦星は、今年も天の川をはさんで会えないだろう。かわいそうに。
「有賀さん、窓の外に黒板も教科書もないですよ。教科書はここ」
何時の間にか、先生は私の横に立っていて、机の上の教科書を指でたたいていた。
相変わらずきれいな爪だな。なんて見とれていたら、教室中からクスクス笑いが起こる。
あーやっぱりあの時振り切って、さぼればよかった。
先生の手が教科書からはなれると、くしゃくしゃに丸まった小さな紙が、忘れ物みたいにぽつんと置かれていた。慌てて、手でかくす。
そっと広げてみると、「今日の放課後準備室で待っている」と書かれていた。
会えるわけない。今日は雨も降っていて、織姫と彦星は会えないのに、二人を差し置いて私達が会える訳ない。
紙を先生の心を握りつぶし、スカートのポケットに押し込む。また雨の降る外に視線をもどした。雨足は激しくなり、地面を容赦なくたたきつけていた。
*
もうすぐ梅雨明けなのに、連日の雨。すべてが腐りそうなほど、鬱々とし、肌にまとわりつく湿気が不快だ。
準備室も、じめじめしている。絵の具や粘土、古い木の臭いがごたまぜになり、嫌な臭いがただよっていた。
彼女は来るだろうか?
あの絵を早く処分していればよかった。理事に断りもなく処分できない、と思っていた自分がはがゆい。
あの日、気を失った彼女を抱きかかえ、部屋まで運んだ。ベッドに横たわった青白く生気のない顔を見ていると、二度とふれられないのではないかと怖くなった。
動かない俺を見て、佳代子さんが言った。
「この事は内密にお願いします」
この事とは、彼女が倒れた事なのか、虐待の事なのか……
彼女と母親の事は、この家では隠さねばならない事。決して口外できない事。
虐待。彼女の口から出た言葉に耳を疑った。
虐待がおこるような家庭は、貧困家庭だとばかり思っていた。この学校の生徒からは、かけ離れた家庭環境。俺の周りで起こった事もなく、テレビのニュースでしか、耳にしない言葉。
彼女を包み込んでいた、もやの正体はこれだったのか。
理事宅からの帰途、本屋により児童虐待の本を買った。家に帰りすぐに読み始めたが、途中で気分が悪くなり、本を捨てた。
虐待の事例がいくつも載っていた。
食事をあたえられない、がりがりにやせている、気を失うまで殴られる、真冬に戸外に裸足で放置される、熱湯をあびせられる、手足を縛られる。
それらすべての被害者の顔が、長屋門の部屋で見た写真の彼女にすりかわった。
そして鬼のような加害者がすべて、やさしく彼女に手を添えほほ笑んでいた、彼女の母親になった。
*
期末テストも終わり、後少しで夏休み。梅雨も終わり、うだるような夏がやってきた。梅雨空は綿菓子みたいな入道雲が浮かぶ、夏の空へと変わった。
今日は祇園祭の宵々山。京都の街はお囃子がながれ、観光客でにぎわい、そわそわと落ち着かない、祭り特有の空気に包まれている。
私は、何事もなかったかのように、毎日を過ごしていた。ただ、砂羽ちゃんと先生を避けている以外は。
最近、疲れているのになかなか寝付けない。
前なら、眠れない夜は絵を描いて過ごしていたが、今は絵も描けない。
受験生にとって、受験の合否にかかわる正念場の夏休み。
ここで頑張らないと、京美大に受からない。そう思っても、焦る気持ちもわいてこない。もう、すべてがどうでもいい。
「最近、どうしたの?」
森田さんが、珍しく心配そうに私の顔をのぞきこんでいる。
デッサンの成績が、上位に食い込んでいたのに、あっという間に落ちていった。
「失恋したからかなあ、あはは」
明るく笑い飛ばし、何でもないように、よそおう。
「えーまじで! じゃあ今度、俺とデートしてよ。明日の宵山とかどお?」
「いいですよ」
迷いもなく答えていた。
「えっそんなあっさりと。どうしたの有賀さん? 今までの反応と全然違うじゃん」
森田さんは、すぐにでも明日の予定を立てるかと思ったら、腕組みして考え込んだ。
「うーんやっぱりやめとこ。なんか引きずってるみたいだし」
そう言って私に背を向け、教室から出ていった。
私なんて、誰にも相手にされない。そうだよね、こんな暗い子みんな嫌だよね。消えた方がいいよね。
*
予備校が終わっても、家に帰る気分になれなかった。
こんな私は生きている価値が、あるのだろうか?
鉄骨ガラス張りの巨大な京都駅の中をさまよい歩いていた。帰宅を拒否した足は、駅構内の百貨店の中を分断する、大階段へ向かった。
百貨店のそそり立つ壁に挟まれた、屋外の一七一段続く階段を目の前にすると、迫力に圧倒された。端には親切にもエスカレーターが設置されている。普段運動なんかめったにしない私は、迷わずエスカレーターに乗った。
夜に来るのは初めてだった。夏の夜の蒸し暑い空気が漂い、ライトアップされ屋上まで続く長い長い階段は、昼の日の光を浴びて明るく健康的な場の姿とは一変していた。
駅の喧騒から離れ、通路としての機能をもたない大階段は、構内に存在する異世界のようだ。
九時をとっくに過ぎているが、人々はグループやカップルで階段に腰掛け、夏の短い夜に、夜風に吹かれひそひそ話をしている。
その薄暗がりの中、ぽつんと一人壁に押しつぶされそうな隅っこに座った。地上高くから豆粒みたいな人々が行きかう姿を見下ろしていた。
きっと段ボールに入れられ捨てられた子犬も、こんな気持ちなんだろう。こんなに大勢の人がいるのに私はたった一人。ずっと一人。それでいいと思っていた。
本当に? 自分にウソをついているのかな? 何がウソで本当か、もう自分でも、わからなくなっているのかな? こうやって私も母のように狂っていくのかな?
引かない波のように、次々押し寄せ、追い詰める、自分に対する不信感。何も信じられないのに、生きている意味があるの?
消してしまいたい。こんな醜い自分を消してしまいたい。
「なあ彼女一人? 俺ら暇なんやけど、どっか遊びにいかへん?」
男のくせに妙に甲高い声が、膝を抱えて丸まっていた私の頭上から、拡声器張りの大音量でふりそそぐ。顔を上げると、チャラそうな三人の男が私の目の前で、体をゆらしながらニヤ付いている。
「めっちゃかわいいな自分。それにすげー女学院の制服やん。お嬢やん。俺らと遊ぼうや」
やっぱり、私捨て犬に見えるんだろうな。そしてこの人達に拾われるのか……
捨て犬に選択肢はない。拾った人について行くだけだ。私は無言で、犬がお手をするように右手を差し出した。
それなのに、この鈍い三人組は手をとらない。女性をエスコートした事もないのだろうか? しょうがないので、よっこらしょと重い腰を上げ、立ち上がった。
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