第六話 返答

「お受けする事はできません」


 祖父はあきらかにうれしい顔をして、先生は驚愕と言う言葉がぴったりの表情になった。


「美月ここは、流れ的に恥じらいながら、はいって言うとこやろ」

「真壁君の一方的な思い込みやったんやろ?美月はなんとも思てへんかったんやな」


 佳代ちゃんと祖父は、同時に言いたい放題言いだした。


「違う、先生の事好きや、大好きや、愛してる!」

 私がそう言うたび、祖父のりっぱな眉毛がピクピク震え、眉根がどんどん下がっていった。


「先生、本当は画家になりたかってん。でも、奨学金かえさなあかんから、教師になった。画家はあきらめたつもりやけど、本当はちがうやろ?」


「君何言い出すんだ。村山先生に会った時なんか言われたの?」


「村山先生は関係ない。私は将来、先生が画家の夢を叶えようとする時、足かせになりたくない。私と結婚の約束してたら、先生絶対安定した職業の方を選択するやろ? 私は先生に画家になってほしいだけ。先生はそれだけの才能があると思う」


 私は自分の言いたい事を一気に吐き出し、はーはーと荒い息をついた。男二人はボー然としているが、やはり頼りになるのは佳代ちゃん。


「ほな、結婚前提だけ条件からとればいいん違う? 生徒と教師の関係やなくなったら、付き合うの誰も文句言わへんて」


「わしは、反対や」

 すかさず祖父が横やりを入れる。


「おじいちゃんは誰でも反対やろ」

 祖父の意見はあっさりスルー。先生はなんか言いたそうだったけど、私はうなずいた。


「真壁君、しょうがないからみとめるけど、在校中はくれぐれも生徒と教師の関係を逸脱しないように」


 祖父はしっかり釘をさし、先生は、また祖父に向かって深々と頭を下げた。一本締めのように、佳代ちゃんが手を打ち鳴らす。


「はい、この話はこれでお終い。ほな、ちょうどみんなそろってるし。先生あれを仏間に運んでください。移動しましょう」


 佳代ちゃんも知っているのか、先生が私にみせたい物の事。 


「何なん? 先生私に見せたい物って」

「正確にはあんたとおじいちゃんかな」


 仏間にはイーゼルが二つならんで立てられていた。ひとつにはあの桜の絵が修復を終え、新しい額縁におさまっておかれていた。もうひとつのイーゼルには何も置かれていない。見せたい物って、あの裸婦像?


 先生が絵を抱えて仏間に入ってきた。私は絵を見たくなかったので、ぎゅっと目をつむり、下をむく。新しく修理を頼んだ絵って裸婦像だったの?


 先生は私の横に座った。先生の顔を見たら、大丈夫だよって目で教えてくれた。私は先生に背中を押されるように、視線をあげる。


 やはりあの裸婦像だった。


「あの時は平気なふりしてたけど、たぶんあんたの性格では、ぐじぐじ悩んでるやろなと思って。すっきりするために、裸婦像も先生に修理をお願いしてん。七月から頼んでたから、ちょうどお盆前に終わってよかったわ」


 修理をされ、画面からシミとカビがなくなり、クリアになった裸婦像。若くて美しい祖母が、寂しそうに微笑んでいる。この間見た時は表情までわからなかった。


 けして恋人にすべてをゆだねて幸せな顔はしていない、画家の恋人の目に映ったさびしい祖母の姿。


 祖父は、ほうけたように絵に見入っていた。

「美月は裏切ったて言うたらしいけど、わしは何にも裏切られてなかったで。恋人がいるのは知ってたしな」

 私を振り返って、ニヤリと笑う。


「静子とはお見合いで知りおうた。実家の呉服屋が傾いててな、そこにうちの親父が援助するっていう裏取引のある縁談や。わしは見合いで初めて静子におうて、天女みたいに綺麗な女の人や、こんな人と結婚できたらしあわせやなあって舞い上がったわ」


 昔見せてもらった事のある、祖父母の白黒の婚礼写真。祖父の笑顔が印象的で、祖母の顔は思い出せない。


「見合いの後、二人で会った時にきっぱり言われたんや。自分には好きな男がいるけど、家のためにこの縁談を受ける、それでもええかって。なんちゅう気のきつい女か思たけど、わしはそんなん気にせんて、あっさり受けた。結婚したら別れるやろうと安易に考えてたんや。でも、その後もなかなか縁がきれんかったみたいやな。わしも若かったし、嫉妬したり、静子につらく当たったりしたけど」


 再び、祖母の絵に向き直り、朗らかな明るい声で言った。


「この絵、たぶん恋人が描いた絵やろうて、薄々わかってた。真壁君に調べてもろて、もしこの画家が生きてたら会ってみたかったんやけど、もうええわ。もうわしもこの年や、昔の事なんてきれいさっぱり忘れたわ。四十年も文句ひとつ言わずいっしょにいてくれたんや、それだけで十分。静子は静子や」


 何時も静かに微笑んでいた、祖母の顔が今思いだされた。

 長い年月が、すべて洗い流してくれる。恨み、嫉妬、疑念を。後に残るのはなんだろう?


「おじいちゃんはすごい。最高にかっこええわ」


 昨日から泣き通しの私の涙腺は緩みっぱなしで、子供みたいにえーんえーんと泣きだした。


 そんな私を先生は優しく肩を抱いてくれる。それを見た祖父が、こら、それは教師の立場を逸脱してるって怒りだしたので、私は舌をだし、先生に抱きつき思いっきり泣いた。


 ますます逆上する祖父を、まーまーと佳代ちゃんがなだめている。祖父は、気がきつい女が三代も続いたと、誰に向かってか文句をたれていた。


 理事の前で、抱きしめる訳にもいかず、先生は両手を上にあげ、お手上げのポーズをとっていた。


                *


 佳代ちゃんに家でお母さんが待っているからはよ帰り、とせかされ二人で帰ろうとしたら、祖父に引きとめられた。


「今日は送り火や。高藤君も夜来るし真壁君も来なさい。紹介するわ」


 顔は怒っているが、なんとか先生の事受け入れてくれたって事かな。

 祖父の家を出て、人通りを確認し、そっと先生の手を握った。松ヶ崎は、夕方になれば送り火の準備や観光客でにぎわうが、朝のうちは何時も通り静かな様子。


 松ヶ崎西山と東山にそれぞれ妙と法の字がくっきり浮かび上がっている。この文字が今晩炎に包まれるのだ。


「ごめんなさい断って」

 先生は、心配そうに見上げる私の顔を見た。


「すごくがっかりした。昨日一晩考えて出した答えだったし。やっぱりこそこそせずに堂々としたかった。でも、美月の答えは、俺の想像の斜め上を飛んでいったね」


 そういって笑い、私の頭をクシャっとした。


「だって、颯人さん器用な人と違うし。婚約したからって、おじいちゃんに援助してもらおうと思わへんやろ? それどころか、私のためやったら、夢あきらめそうやもん。もっと芸術家は自己中にならな。たとえば」


「ピカソとか」


 二人で声が揃って出てくるほど、ピカソは女の人を踏み台にして、のし上がってくるような自己中な人なのだ。男としては最低な人だけど、芸術家としては最高の人。


「うち、母子家庭なんだ。親父が中一の時死んで、お袋が看護師しながら育ててくれた。お袋が頑張って働いてたから、貧乏ってわけでもなかったんだけど、大学進学の時仕送りと学費を、両方出してくれとは言えなかった」


 もうすぐ夏が終わる。そんな気配のする、涼しい風が吹いた。


「俺は、奨学金の返済って口実つけて、絵から逃げ出したんだ。本当はずっと、描き続けたかった、でもそうしたらしんどくて、辛くなるのがわかってたから、楽な方に流れてしまった」


 私は、握っていた手をもっと強く握った。


「でも、颯人さんの思いは消えてないよ。もっと描きたい、描き続けたいって絵が私に教えてくれた」


 私の笑った顔をじっと見て先生は言った。


「キスって教師の立場から逸脱してるかな? 欧米じゃあ挨拶だし。いいかな? ていうか、したい」


「うーん、ここは日本やし微妙かな」


 残暑厳しい京都の夏、一向に弱まる気配のない太陽は、天頂に達しようとしていた。手をつないだ私達の足元には、短くて濃い影が差す。その影がひっつく事は残念ながらなかった。

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