第七話 明日へ
先生は、母に会って挨拶するって言ったけど、丁重にお断りした。
玄関の前で、先生と別れ大きく息を吸い意を決してドアを開けた。母は出てこない。リビングを覗くと、母がテーブルの上につっぷしていた。
死んでる訳はない。この人はそんな玉ではない。肩をゆすってみた。
「あーおかえり、佳代子からさっき電話あって、ほっとして寝てしもたわ。一晩中起きてたし」
「私心配かけたけど,あやまらへんで」
母はふふっと安心したように笑う。
「大きなったなあ美月。今あんたを初めてみるようやわ。もう、お母さんの前で震えてた子やないんやな」
「あたりまえやん、もう十八やで。好きな人もいるし」
「佳代子から全部聞いた。お母さんの懺悔ちょっとだけ聞いてくれる?」
リビングには壁に掛けられた時計の音が、コチコチやけに大きく響いている。私はうなずいて、母と向かい合って座った。
「何回謝っても、謝りたらんけど本当にあんたにひどい事してごめんなさい。美月をおばあちゃんに取られたくなくて、離婚を拒んだんや。あの時、お母さんと暮らす事を選択してくれてありがとう」
そういって、静かに頭を下げた。
「もう、母親の資格はないと思ってたから。後の人生美月の事だけ考えようと思てん。あんた、食が細いし、食べ物に気をつかったり。先生と別れたって言った後、やけ起こさんか心配して、行動チェックしたり」
「あの時はいったん別れたんやで。でも、重いわそんなん」
嘘をついていた、と思われたくなかったので、一応言い訳しておいた。
「そやな、あんたにとったら重いな、でも、お母さんにはそれが生きる意味やってん。美月が苦しんでる姿を、自分が犯した罪を、目を背けず見てるしかなかった。絶対側にい続けようって。そろそろ、その役目も終わりかもしれへんな」
そう言って、意味深に笑う。
「美月の誕生日に、家の前で先生と並んでる姿見た時、心臓が止まるかと思ったわ。美月が昔の自分にそっくりで、二人が私とお父さんに見えてん」
「えー先生お父さんみたいにふとってないし、もっとかっこいい」
私は非難の声をあげた。
「昔のお父さんは、やせててかっこよかってんで。今は見る影ないけど」
二人で吹き出していた。
「美月と自分の姿が重なって、その人と一緒になったら、不幸になるって思いこんでしもた。私の頭はまだちょっと、おかしいのかもしれへん。でも、美月にリセットするために産まれてきたんやないって言われて、我にかえったわ。この子と私は別の人間やって。ほんま、娘から教えてもらうなんて、なさけない母親やわ」
何時も青白く、生気のない顔をしていた母の顔。でも今は、なさけないと言うわりに、なぜかゆかいな表情を浮かべている。
「間違う事は誰にでもある。母親やから、間違いはゆるされんとか、おかしいわ。また、分からんようになったら私が教えてあげる。それでいいやろ。お母さん!」
母を許せない気持ちがなくなったわけではない。でも、母を許せないからと言って、すべてを受け入れられないという訳でもない。
母は母の前に、私と同じ罪をおかす人間。同じ人間と思うと、愛しさがわいてきた。
「あんたを産んでほんまによかったわ。産まれてきてくれてありがとう、美月」
毎年送り火の夜は、母に浴衣を着せてもらう。今日は身も心も最高にきれいな私だと思う。きれいな姿を、先生に見てもらいたい。
さっき、別れたばかりだけど、もう会いたくなった。
「何を今さら。そんな言葉でだまされへん」
すがすがしく笑いながら、捨て台詞をはいた。
先生が描いてくれた絵のような顔を、私は今きっとしている。母も心得たように笑う。
「もう先生との事、とやかく言わへんから安心し。ただ、ルールは守ってもらうけどな。それと、男の人はあほやから気をつけや」
母の忠告を聞いて即座に返答した。
「先生あほ違うもん、かわいいの」
冷静になれば超はずかしい、バカップル丸出しのセリフを言ってしまった。
「なんや、わかってるやん。あほで、かわいいって事が」
そう言って母は大人の余裕をみせ、ここ数年見た事もない様な晴れ晴れとした顔で笑った。
*
日が傾き、うだるような暑さが少しゆるんだ頃、先生が祖父宅にやってきた。
茄子紺にピンクの撫子柄の浴衣、麻の半幅帯を花文庫に結んでもらった私は、先生を出迎えた。
「すごくきれいだ」
そう言ってしげしげと私を穴があくほど見つめる。髪をアップにし、無防備なうなじが恥ずかしい。
腕をからめようとした瞬間。祖父がタイミングをはかったかのように、わってはいった。
「よーきたな真壁君。座敷に高藤君が来てるから、こっちおいで」
もー絶対わざとだ。祖父の後ろ姿を憎々しげに睨んだ。
高藤さんは結婚の挨拶をするべく、先ほどやって来たのだ。私もこんな場に居合わせることなんてめったにないと思い、好奇心から座敷に座っていたら、佳代ちゃんに追い出された。
座敷には、佳代ちゃんとネクタイ姿の高藤さんが並んで座っていた。結婚の挨拶は終わったのか、先ほどのこわばった顔が、今は佳代ちゃんの浴衣姿の横でゆるみっぱなしだ。
そして、少し離れて、浴衣ではなく夏の絽の着物を粋に着こなしている母が座っていた。
下座に二人で座り、祖父が先生を紹介した。高藤さんも、佳代ちゃんから話は聞いているのだろう、意味ありげに先生と挨拶をかわした。すると、母が珍しく突然話し始めた。
「昨日は美月がご迷惑おかけしました。先生の存在が、この子の支えになったと思います。私はふがいない母親なので、これからも美月の事よろしうお願いいたします」
そう言って頭を下げるので、先生もあわてて頭を下げた。母は、そんな先生の様子を慈愛のこもった表情でみている。しかし、その口から出た言葉は……
「ただし、あくまでも在校中は教師の立場をお忘れなく。卒業後も、未成年のうちは門限を決めます。もちろん外泊も禁止です。それだけ守っていただけたら、私は交際には反対しませんので」
有無を言わせぬ迫力がにじみでている。佳代ちゃんと高藤さんは私達二人を気の毒そうに見ている。祖父は完全に母の迫力に負けているが、当然という顔をして座っていた。
今どき門限に外泊禁止なんて……これが私を思う母の愛ってことだろうか? 重すぎるよ。私は深いため息をつき、隣を見た。
先生は雪の女王に睨まれ、凍りついた人のように、笑顔で固まっていた。ごめんなさい、母も娘もめんどくさい女で。
玄関から、雅恵さんの声が響く。
「伊津正さんから、仕出しが届きましたで」
佳代ちゃんと母がさっと立ちあがり、時間通りやな、何時も遅れるのに。とぶつぶつ言いながら、玄関に向かった。
絶妙のタイミングで配達してくれた伊津正のおじさんありがとう。と私は一人心の中で礼を言った。
あっという間に、座敷に仕出しのお膳が並べられ、今まで存在感の薄かった祖父が、何故か仕切りだした。
「今日は、佳代子の結婚が正式に決まり、めでたいかぎりや。式は三月という事でまだまだ先や。準備もいろいろあるさかい忙しなるけど、今日はゆっくりしていってや」
そう言って勝手に乾杯し、ビールを一気にごくりと飲み干した。祖父の両隣りは、先生と高藤さん。両手に花ではなく、両手に男子状態でご機嫌である。
そんなに、飲む相手がほしかったのか。それとも、黙って自分の話を聞いてくれる人がほしかったのか。
私も先生の隣で食べたかったのに、とひがんでいたが、祖父の楽しそうな様子を見ると、まあ今日ぐらいいいかと思えた。私も大人になったなと一人ごちる。
佳代ちゃんと母は、結婚式の話で盛り上がっている。母はもう、自分の衣装の心配をして「留袖つくらんと」と言っていた。
やっぱり白むくが着たいと言う佳代ちゃんに、あんなん身動きできひんロボットや、と母が花嫁の夢を無残にも壊していた。
いいなー私はやっぱり純白のウエディングドレスが着たいな、なんて一人想像しニヤついていたら、先生と目があった。二人で初々しく見つめ合っていると、祖父がすかさず、先生に話しかける。くそー絶対わざとだ。
八時の点火の時間がせまってくると、家中の電気を消して、北側の仏間に移動した。仏間には祖母の裸婦像が置かれていた。
母はその絵を縁側に移動させ、薄暗がりの中一言いった。きれいやでお母さんと。
開け放たれた縁側にみな腰を降ろし、闇の中浮かび上がる送り火を待った。庭の茂みから、虫たちの声がジージーと聞こえてくる。日中の暑さはまだまだ弱まる気配はないが、もう秋はそこまで来ている。
八時、この家からは見えないが、東山の如意ヶ嶽の大文字から点火される。続いて五分遅れて、松ヶ崎の妙と法が点火された。
闇夜に,かがり火が山の中腹に点々とつらなり、その点が線となりみごとな妙と法の字をつくりだした。炎の揺らめきで妙法の字が、山肌に息づく。幻想的で、どこか物悲しい死者を送る炎。
死者だけでなく、死者を思う心も送るから、こんなに物悲しいのかもしれない。
私の隣に座った母がつぶやくように言った。
「また、来年も帰って来てなお母さん」
その言い方が、本当にちょっとの間留守にする相手に掛ける、気楽な挨拶に聞こえた。
また来年になったら祖母に会えそうな、喪失感を伴わない声色。もう二度と会えないのに。
「おばあちゃんはどこにこれから行くの?」
母は私の顔を見ず答える。
「私らが、生まれる前にいた所かな。それとも未来かもしれへんな」
「未来でおばあちゃんに会えるって事?」
「生まれ変わって会えるかもしれへんな。そう考えたら、死ぬのもこわくないやろ?」
そう言って母はふふっと笑った。
死者を未来に送る。なくした人を思って涙する思いも未来に送る。未来の自分なら受け止められるから。
今の自分ではどうすることもできない思い。私も母や祖母に対する思いを未来の自分に送ろう。きっと未来の私には受け止められる。
「お母さん、私の事産んでくれてありがとう」
「どういたしまして」
私の感動的な一言を、母はあっさり受け止め、さらにつづけた。
「愛って形がかわるんや。お母さんの愛は、形がかわらんかったから、お父さんを苦しめたんかもしれんな。先生と何時までも仲ような。先生の所に行きたいんやろ、ええよ行っといで」
愛は形を変えて、永遠に消える事はないって事? 愛情なんかもうないって母は言ったけど、形をかえて、まだ存在しているって事だろうか?
お子様の私には、大人の女の心理なんて、わからない。時がたてば、私も母と同じ事を思うのだろうか? そう思うと、なんだか、少しさびしい。
先生の隣には少し離れて佳代ちゃん達、その横に、母、祖父の順番に並んでいる。祖父から一番離れている事を確認した。
みな、揺らめく送り火に思いを馳せている。祖父などは、完全に自分の世界で祖母と会話しているように、ブツブツ何かをつぶやいていた。
私は母を置いて、先生の横にそっと腰を下ろし、腕と腕をからめ体をよせた。
「きれいやな」
そう言って、先生を見上げる。先生の端正な顔が炎に照らされたのか、酔ったのか赤くほてっている。
「死んだ親父の事考えてた。あっちでじいさんに会えたかなと思って」
「おじいさんも亡くなったはるの?」
「親父が子供のころにアメリカに帰ったんだ。その後死んだみたい」
「えっ、アメリカに帰ったってどういう事?」
「あれ、言ってなかったっけ? 俺のじいさん岩国基地の海兵隊員だったんだ」
「えー! 先生、クォーターなん?」
はじめて知った事実。でも、それを聞いて納得できた。瞳の色が薄く、白い肌、端正な容貌。日本人では恥ずかしくて言えないようなセリフをさらっと言える所は、まさにアメリカン。
「四分の三は日本人なんだから、変わらないよ」
「だから、英語もしゃべれるん?」
「英語はちびの頃から、親父に教えられた。自分の血に誇りを持てって」
しばらく黙って、それぞれの思いにひたりながら送り火を眺めていると、先生がすごく真剣な声で言った。
「俺、卒業まで美月に何にもできないなんてたえられるかな。それがすごく心配」
こんな時に何を考えているんだ。ほんま、あほやなあ。
了
洛中ラヴァーズ 澄田こころ(伊勢村朱音) @tyumei
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