第四話 時間が堆積した絵

 京滋電車の出町柳駅から上賀茂方面のバスに乗って、自宅近くのバス停でおりた。

 このあたりは、京都の中心部から北に少しはずれていて、植物園や大学、コンサートホールなどがあり、学生用のワンルームマンションも多い。


 緑が多く落ち着いた街並みが続いている。桜はもうすっかり終わりを迎えていて、萌黄色の新芽が芽吹いている。もうすぐ、京都の街は新緑の季節だ。葉脈がすけるほど、瑞々しい若葉が木々を覆う。

 

 自宅前について、我が家をしげしげと見あげる。外壁はコンクリートの打ちっぱなし、ちょっと昔に流行ったアートなお家。生活感が全くないほど、外観に隙がない。

 何時見ても、私はこの家を好きになれない。中身がからっぽなのを、無理やり外見でカバーしているみたい。


 父は建築事務所を経営している。事業には成功しているようだが、家庭生活は失敗した。父と母が別居して九年になる。

 重い門扉を開け、私はこのからっぽの家に体を押し込んだ。


 リビングの扉をあける。夕飯の用意をしている母の後ろ姿が見えた。

 二人分の夕飯なのに、母は手間暇かけて料理する。娘と二人なのだから、たまには手をぬいてもいいと思う。だけど、手を抜いた事は一度もない。冷凍食品や、出来合いのお総菜がならんだ事もない。


 ちゃんと母親業をしているというアピールなのかもしれないが、いったい誰に対するアピールなのか、私にはわからない。


「ただいま」

 本当は言いたくないけど、しぶしぶ言っている感がまるわかりの声でいった。

「おかえり。もうすぐご飯食べられるよ」

 私の態度をいちいち気にする母ではない。何事もないように、いい母のふりをする。


 怖いものにふたをするように、扉を乱暴にしめ、二階へいそぐ。

 自分の部屋に入り、扉を後ろ手でしめた。

 窓際に立てかけてある、イーゼルに近寄より、描きかけの絵をみる。上賀茂神社の老桜を今描いている。でも、なかなか仕上がらない。


 いつもの私なら、絵にあまり時間をかけずに仕上げる事ができるのに。

 もう描くのはやめよう。

 絵をとりあげ、描き損じのスケッチブックの中に無造作にはさみこむ。その時、先生に言われた事を思い出し、デッサンをかいたスケッチブックを探しはじめた。


 夕食時、食卓の上に母の手を掛けた料理が並んでいた。愛情がつまっている訳ではないだろう、この押しつけがましい料理を目の前にして、私の食欲は減退する。

 小食の私には多い品数と量。何時もほとんど残すが、母がつくる量をへらす事はない。


 ぼそぼそと食べ、そうそうに食べ終わり、「ごちそうさま」という。

「よろしおあがり」

 向かい合って座る母のお決まりのセリフを聞いて、今日の最大のミッション、進学の話題をきりだした。


「私、女学院の大学には行かずに、美大を受験しようと思う」

 ただそれだけを言った。普段私がめったに自分から発言する事がないので、母は多少驚いたよう。


「おばあちゃんも美大出身やったから、喜ぶやろう。いいんやない。美月は絵が好きやし。好きな事勉強するのが一番や」

 とのんびり答える。


「先生が言うには、美大ってお金かかるらしいし、親御さんに相談してみなさいって」


「あんたは、お金の事なんにも気にせんでええよ。それにしても、女学院の生徒にお金の心配する先生なんて、変な先生やな」


 たしかに、女学院に通う生徒の親の年収は高い。母も女学院出身で、生粋のお嬢様だ。母の父親、つまり私にとっての祖父は、先祖の土地を受け継ぐ大地主。京都市内にいくつも持ちビルを持っていて、不動産業を営んでいる。


 普段の私なら、そやね。と関心なさげに答えるところだ。だけどなんだか真壁先生がばかにされたみたいで、むきになって答えた。


「新任の先生やの」

「ふーん。そう」


 母の関心のない一言が、この会話の終了を告げる。私は立ち上がった。

 すると母が思い出したように、言った。


「そうそう、おじいちゃんが最近、美月が遊びに来てくれんって寂しがってたえ。たまには顔を見せにいってあげ」

「わかった」とだけ答えた。


 部屋にもどり、何時も通り絵を描いていると、階下から、チェロの音色が聞こえてきた。

 母のお得意の曲、フォーレのシシリエンヌ。物哀しいと言えば聞こえがいいが、母が引くと陰鬱で恨みがましい曲に聞こえてくるから不思議。


 父が家を出て行ってから、母はチェロを習い始めた。それまでも、お花やお茶などの習いごとはしていた。なんでチェロだったのか。

 チェロは人間の声に一番近い弦楽器と言われている。音だけでなく形や構造も人体に似ているらしい。


 母は毎晩夕飯の片づけが終わると、チェロを抱きしめて練習を始める。

 いったい誰の代わりに抱きしめているの?

 お父さん、それとも自分? 私ではない事は確か。


                 *


 月曜日の放課後、俺は美術準備室の中で彼女を待っていた。窓際に座り、春のうららかな日の光をあびていた。

 美術室の隣にある準備室には、廊下と美術室の二か所の出入り口がある。廊下側の扉が気になり何度も見る。


 進路相談なら、職員室ですればいいのだが、わざわざこの密室を選んだ。

 上賀茂神社で会った事を、さも今思い出したという感じで、さらっと彼女に言おうと思ったからだ。何でもない事のように。


 彼女も俺に気付いているはずだ。だまっている理由がない。隠し事とは、やましい心があるから成立するのだ。


 ノックの音がした。俺は、感情を押し殺す。どうぞと一言いった。

 彼女がスケッチブックをかかえて俯きながら入って来た。焦げ茶色の制服。スカートはひざ丈のボックスプリーツ。三つボタンのブレザーの下は丸えりのブラウスにえんじ色のりぼん。長い髪を二つにわけて、くくっている。


 彼女は失礼しますと言いながら、俺の前に座った。手を伸ばせば届きそうな近さに。

 差し出されたスケッチブックを見る。


 お嬢さん学校の美術部員。本格的に習った事がないなら、素人に毛が生えた程度だろう。そう思っていた。


 紙をめくる速度が加速する。

 なんの変哲もない静物や石膏のデッサンが、描かれているだけだ。でも、素人の絵ではなかった。デッサンの基本はできている。


 それだけではない、この白い紙の上を迷いもなく走る、切れそうな線。そして、紙面に横たわる、かなしさに、胸をつかまれた。なんだこの絵。


 京美大に入学すると、センスや才能のある奴であふれていた。しかし、四年後の卒業まじかになるとそいつらは、目立たない存在になっていた。誰が目立っていたか、それは努力し、描き続けた奴だった。


 才能ある奴はみんなの半分の時間で課題をすます。しかし、残りの時間努力するわけではない。才能のない奴は、課題が終わってもそれ以上の時間描き続ける。うまくなるには、才能ではなく努力した時間が必要だ。


 彼女の絵は、まさに時間が堆積した絵だった。この線を習得するのに、どれだけの時間、描き続けたんだ彼女は。ひたすら紙に向かう彼女の姿が目に浮かぶ。楽な方に流されず、弱さを封じ、自分に負けず描き続ける姿。


 でもそこに、なぜかなしさが加わっているのだろう。

 俺はスケッチブックの上から盗み見る。彼女は俺の前に座っているが、顔を九十度まげて、窓の外を見ていた。


 大人びた表情。制服を着て始めて高校生に見える。あの日も彼女の事を、どこかの大学生だと思った。だからナンパもどきの事をしたんだ。俺は目をそらした。


 はやく、今日の目的の言葉を言わないと。サラっと言えばいい。

 でも、言えなかった。余計な事まで言いそうで。


 一目ぼれの落とし所は、結局は容姿にしか興味が持てなかっただ。今なら引き返せる。俺は彼女の整った顔しか興味がない。そうだ、そう思え。本気になってどうする! 


「有賀さん、絵を習った事ないって言ってたけど本当に? デッサンの基本ができているけど」

 内心の葛藤がにじみ出ない冷静な声で聞いた。


「教室には通った事はありませんが、祖母に教えてもらっていました。祖母は京美大出身です」


「専攻は考えていますか?」

「はい、日本画を専攻したいです」

 運命の神を呪う。俺も日本画専攻だ。


「美大受験は、だいたい学科と実技が行われます。配点の割合は、学校にもよるけど、実技が高い場合が多いです。木谷先生から有賀さんの成績表は見せてもらいました。学科の方は、今の成績を維持していけば問題ありません」


 教師の仮面をかぶり、まじめに進路指導をする。ちなみに、成績を含むすべての資料を見た。身長、体重、スリーサイズ。住所、電話番号。


「普通の大学受験の対策として、予備校があるように、美大受験の対策にも美術予備校があります。実技の勉強をする所です。通わずに美大を受ける人もいますが、やはり予備校にいく方がベストですね。京都にも何校かあるけど、ここの予備校が一番京都美大の合格率が高いです。京都駅に近いので、学校からも通いやすいし」


 そう言って、予備校のパンフレットを渡す。

「後、他の美術予備校のパンフレットも渡しておきます。よく検討して決めてください」


「ありがとうございます。自分でもどこがいいのかわからなくて。ちゃんと読んで、決めたいと思います」

 彼女はホッとしたようだ。


「志望校が一つというのも心もとないので、後二校ぐらいは考えておいてください」

「はい、考えておきます」


 そう言って、彼女は俺に微笑みかけた。教師に対する社交辞令の頬笑みだ。そんな事はわかっている。でも、それがダメ押しとなり、誤魔化していた気持ちが、蓋をこじ開けあふれ出す。


「がんばってください」

 本気になったからには、隠さなければならない。でも、今だけ自分の気持ちに正直でありたい。俺は彼女の顔を正面からみすえ、自分の気持ちを抑え込まず微笑んだ。


 君が好きだという気持ちをこめて。

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