第六話 母と娘
六月最後の金曜日。北山のコンサートホールは熱気に包まれていた。欧州で活躍している日本人女性バイオリニストの凱旋コンサート。
私も、フラワー柄のワンピースを着て華やかな気分でおめかしをし、会場入りした。
心が浮き浮きしているのはコンサートのせいだけではない。この間美術の課題が採点されて返ってきた。スケッチブックを開くと、真っ白な紙の上に、青空みたいな付箋が張り付けられていた。
今週の土曜日、絵の修理にいく。
顔を上げたら先生と目があい、返事の代わりに、太陽みたいに明るく微笑んだ。
明日二人だけで会える。その事を考えると今から心が躍る。
コンサートが始まった。指揮者と真っ赤なドレスを着たソリストが登場し、会場がわれんばかりの拍手に包まれた。
第一楽章、冒頭の主題がながれる。甘くやるせないバイオリンの旋律に、胸が締め付けられ、思わず涙がこぼれそうになった。
流麗にして、そこはかとないメランコリー、二つの合い入れない両極を併せ持った全楽章を聞き終え、しばらく余韻に身を漂わせていた。
次のブラームスの交響曲第一番までの休憩時間、トイレの長蛇の列に並びロビーの方に目を向けると、辺りの喧騒をはらうような凛とした和服姿の母が目に映った。
人込みの中の母を見るのは何年振りだろう。というか、ここ何年も共に出かけたことはなかった。祖父の創立記念パーティーも何時も体調不良と言う理由で、欠席している。
母はうつくしい。小学校の参観日、何時も友達に美月ちゃんのお母さんきれいやな、と言われていた。それが自慢で参観日が待ち遠しかった事を、ふと思い出した。
母への思いに折り合いをつける事ができるのだろうか?
コンサートが終わり、徒歩で北山通りにある老舗のフレンチのお店へ向かった。母が予約しておいたのだ。ディナーには遅い時間帯、店内はすいていた。
フルコースの料理はおいしくて、コンサートも心にしみる内容だった。
今日は美しい物にふれて心が洗われる日だったなと思いながら、デザートのクリームブリュレを食べていた。
すると、母が微笑を張りつかせた表情で、おもむろに聞いてきた。
「美月最近、大人っぽくなったけど誰か好きな人でもできて、お付き合いしてるん?」
「なんでそんな事聞くん?」
クリームブリュレのカリカリ部分が、砂の味をした。
「相手は、前に送ってくれた先生やろ? おじいちゃんが絵の修理を頼んだ先生らしいな。おじいちゃんの家で会ってたん?」
感情を押し殺した、陶器の人形のようにうつくしい母の顔が、まともに見られない。食べる事をあきらめ、スプーンでクリームをいじくりまわす。
「お母さんに関係ない」
「関係なくないやろ。相手は先生やで。学校に報告したら大問題やろうな」
母は激高するわけでもなく、淡々とゾッとするほど静かな声色だ。
「私が勝手に片思いしてるだけや。先生は関係ない」
震える声でなんとか取り繕う。
「片思いなら、なんであんたの制服のブラウスから煙草の臭いがするん? 先生煙草吸うんやろ。どうやったら、ブラウスに煙草の臭いがつくんやろうなあ?」
たった一回抱き合った時の移り香を、母が気付くなんて。病的な過敏さに背筋が凍りつく。
コンサートに誘ったのも、この事を聞き出すためだったのか。いや、先生とキスしたのはコンサートに誘われた後だ。
私監視されて、自由に恋愛もできないんだ……何時になったら母から逃れられるの? 何時まであの空っぽの家に閉じ込められるの?
私はもう、無力で絶望と孤独を抱えて震えていた子供じゃない。母を無条件で求め依存した存在でもない。母のずるさが私を絡め取ろうとしても、前を向いて歩いていく。もう、後ろはふりかえらない。
「私が先生とどういう関係でも、お母さんに言われる筋合いないと思うけど。自分勝手な恋愛したくせに。私たち別にやましい事なんてないし、学校に言いたかったら言うたら? その代わりもう二度とあの家には帰らへん。あの時おばあちゃんは、私を引き取ろうとしたけど、お母さんを信じたからもどったんや。もう二度目はない」
まさか母も私が開き直るとは思わなかったのか、表情が揺れる。
「心配してるんやろ。先生に遊ばれてるん違うかって。お母さんみたいになってほしくないから」
この間私が佳代ちゃんに言ったセリフとそっくりだ。皮肉な笑みが顔に広がる。
「お母さんは私を信用してないって事やな。それに、お母さんみたいになってほしくないってなんなん? 私はお母さんの人生をリセットするために産まれてきたん違う!」
無残にも、ぐちゃぐちゃにかき交ぜられたクリームブリュレを残し、私はその場から立ち去った。
*
翌日、朝から祖父の家へ急いだ。出掛けに、母が何か言いたそうだったが、私は振り向かない。前を真っすぐ見、玄関のドアを勢いよく開け、雨の降りしきる外の世界へと、出ていった。
祖父の家に着くと、佳代ちゃんが待っていた。この間の事を謝らないと。
「こないだは、好き勝手言ってごめん」
「もういいよ。美月は私の事心配してくれたんやし。でも、いいかげん姉さんの事まで責任感じる事ないで」
「先生にも、同じ事言われた」
佳代ちゃんは寂しげにふっと笑った。
「昨日姉さんとけんかしたんやって? さっき電話かかってきたわ。美月そっちに行ったやろって」
「別にけんか違う。一方的にお母さんが先生の事誤解していろいろ言っただけ」
「姉さんは昔から几帳面で生真面目、完璧主義者で、親を困らせた事がない子やってん。跡取り娘やったし、親の期待も大きかった。二番目で、のびのび育ったおおざっぱな私とは正反対や。唯一困らせたんが、結婚相手やった」
母の話を、記憶を手繰り寄せるように話しだした。
「今でも覚えてるわ。何時も冷静な姉さんが、大泣きして達也さんと結婚したいって訴えてた姿。おじいちゃんは大反対やったけど、おばあちゃんは好きな人と結婚するのが一番やって二人を許してん。それがあんな事になって、人一倍過敏になってるんや。でも、私は美月達のこと応援してるで」
すべてを包み込んでくれるような笑顔で微笑んだ。祖母の笑顔と重なる。
「もうすぐ、修理終わりそうやけど、おじいちゃんには内緒にしてここで会い。二人きりになれる所がほしいやろ」
大人達には、ひた隠しに隠さないといけない思いだとわかっていたから、一人でも味方がいてくれると思うと心強い。
今日先生にちゃんと好きって言おう。そこから、何が始まるかはわからないけど、自分の気持ちに素直になる事から始めよう。
「ありがとう。でも、別にまだ付き合ってる訳違うし。ただちょっといい感じなだけ」
顔を赤くして、訂正する。キスしたら、付き合っている事になるのか、私にはわからない。
「えっまだ付き合ってないん? とっくにできてるんかと思ったのに」
できてるって、何ができてるわけ?
「私の事はいいの。それより佳代ちゃんこそ、どうなん? 高藤さんの事ちゃんと好きなん?」
「ちゃんと、っていう意味がわからんけど、好きやで。おじいちゃんに言われても全然興味なかったし、会うだけ会って断ろうと思ってん。でも初めて二人で会った時、彼がずっと前から好きでしたって恥ずかしそうに言った瞬間恋に落ちたんよねー。この年でも胸がキュンってなったわ。で、その日にもう一夜を共にしたわけ。展開早すぎやけど、こういうのもありかなって」
身内のコイバナほど、聞いていて恥ずかしいものはない。そんな話まで姪に言わなくても。というか、言いたいんだろうな幸せだから。いろいろ心配して損した。
「結婚式は何時するん?」
「彼の仕事が忙しいし、来年になるかな。でも、おじいちゃんと姉さんにはまだ言ってないから、内緒な。知られたら今すぐにでも結婚しろって言いそうやし」
佳代ちゃんと二人の秘密ができて、なんだかうれしい。どうか佳代ちゃんが母の分まで幸せになれますように。
先生が来るまで、祖母の部屋で待っていた。祖母の部屋は生前のままの状態で、そこに入ると祖母は、まだ生きているんじゃないかと錯覚する。
祖母が好んで焚いていた白檀の香りがまだ香っている。その香りを嗅ぎながら、ロッキングチェアに座りゆらゆら揺れていた。
この家に半年ほど住んでいた頃、よく悪夢にうなされた。怪物に追いかけられる夢。
逃げても逃げても追いかけてくる。何時の間にか自分も怪物に変身しているが、それでも逃げる。醜い姿でひたすら逃げる、でも最後にはかならず腕をつかまれ、その感覚が生々しく、汗だくで目を覚ました。
そして、鏡を見て確認する。自分が人間の姿をしているかどうか。その後は、必ず祖母の部屋へ行った。
襖をそっと開けると、何時も祖母はこの椅子に座り、目を閉じて揺れていた。膝に乗り、祖母の甘いにおいを嗅ぎながら、赤ちゃんのようにだっこされると、安心してまた眠った。
祖父は今よりも仕事が忙しく不在がち、佳代ちゃんも大手の雑貨屋さんに勤めていて、帰りが何時も遅かった。
この家で祖母と二人で時が止まったような生活を送っていたっけ。学校は不登校になっていたし、治療を受けに病院に行く事以外、しなければならない事は何もなかった。
今までの緊張状態から解放され、日がな一日寝ていたり、祖母に手ほどきを受け、絵を描いたり。心におった深い傷を時間が癒してくれるのを祖母に守られ、じっと待っていた。
雨が激しくなってきた、瓦をたたきつける雨音がすべての音を消しさる。こういう雨を篠突く雨と教えてくれたのも祖母だった。竹を無数に束ねて空から地を突くような雨という意味。雨をしなやかな竹に例えるなんて、昔の人の感受性はなんて豊かだったんだろう。
先生今頃ぬれてないかな。それとも、雨が小降りになるのを待っているのかな。早く会いたい。
雨音を聞きながら好きな人に思いを馳せ、一人待っている。なんて幸福で贅沢な時間。
愛しい人を濡らす雨は、私の心も濡らす。あの人が見つめる雨は、私に愛しい人の面影を届けてくれる。
こんな時間が過ごせるようになるなんて、あの頃の小さい私に教えてあげたい。
お昼も過ぎ、佳代ちゃんが襖の向こうから先生が来た事を教えてくれた。
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