第九話 手紙
彼女から初めてメールがきた。
その時、学校の準備室で仕事をしていた。携帯の画面がぼやけ、液体が画面に落下した。何が落ちたかと思ったら、自分の涙だった。
俺はすぐに返信した。でも、たった二文字しかうてない。なんて言葉は不自由なんだろう。この気持ちを言い表す言葉が、思い浮かばないなんて。
それから、二人の間を言葉がめぐりはじめた。
せき止められていた言葉は勢いをまし、一日何回も言葉が行き来した。
オープンキャンパスでの事。俺の絵を見た感想。英語の成績がやばい事。会えない分、募る思い。
数日たってからの、彼女のメール。
―もう家に帰ってきた? 渡したい物があるから、今からいってもいい?
―今帰ったところ。外で待ってる。
まだ宵の口、昼間の熱気が残る夜、マンションの前で待っていた。
ぬるい風とともに、彼女は自転車にのってやってきた。夏休み前と違い、表情が明るい事に安堵する。
「このあいだ借りたスプリングコート、返しに来た」
そういって、渡された紙袋を俺は覗きこむ。
「コートの事すっかり忘れてた。クリーニングに出してくれたの? ありがとう。なんか手紙がはいってるけど」
久しぶりに会えたのに、こんな事しか言えない。
「後で読んで。じゃあ」
そういって、彼女は自転車に乗っていってしまった。そっけないほど、あっさり帰っていった。俺は落胆しつつ、その場で手紙を読み始めた。
*
今は暑い盛りですが、体調など崩していませんか? 私は毎日受験勉強に励んでいます。
先日、吉津さんにさそわれ、屋上から飛び降りて死のうとしました。でも、死ねなかった。私は毎日を平凡にすごしているつもりでも、ふと死に引き寄せられてしまいます。なぜ、死に魅了されるのか、答えは過去にあると思います。
私の過去におこった事は、今でも私の胸の奥深くひそみ、私を苦しめます。ずっと隠しているつもりでした。でも、その過去に光をあててあげないと、何時かまた私は死にむかって歩いていってしまうのではないかと思います。
こんな私の暗い部分を先生にさらけ出すのは、恥ずかしい。でも、どうか読んでください。
私は、父と母の大恋愛の末に産まれました。母は婚約者を捨て、建築士を目指していた父を選んだのです。でも、仕事が忙しく、出張も多くほとんど家に父はいませんでした。
その代わり、私は母にとても大切に育てられたのです。うつくしく、優しい母が大好きでした。でも、その母がある日をさかいに鬼に変わったのです。
私が小学三年の雨が降る蒸し暑い夜に、父が帰ってきました。後でわかったのですが、父の浮気が発覚したのです。母はその日から表情が消え少しずつ、精神を病んでいきました。
最初はランドセルでした。私は学校から帰ると、何時もリビングにランドセルをおいていたのです。母に注意されて初めて二階の自分の部屋に運んでいました。でも、その日は、注意される前に、思い切り頬をたたかれたのです。
それまで一度も母にたたかれた事なんてなかった。何がおこったかわかりませんでした。でも、私がいけなかったのです。何度言われてもランドセルをおきっぱなしにしていたから。
それから、いろんな事を注意され、たたかれるようになりました。靴をそろえなさい、ドアをきちんと閉めなさい。ご飯中にしゃべらない。そのうち母の手に変わって、長い定規でたたかれました。たたかれるたび、パシンとかわいた音と共に皮膚にはしる痛み。今でも定規を見るのが怖い。
私はその痛みに、明確な理由がほしかった。すべては、自分が悪いからと信じ込んだのです。そして自分の感情を押し殺し母の顔色をうかがい、いい子を演じ必死で気をつかい、機嫌をとろうとしました。
でも、虐待はどんどんエスカレートしていき、暴力に加え、暴言もあびせられました。
おまえなんて産まなければよかった。
あの人が浮気したのは、おまえのせいだ。
暗い子、醜い子、卑しい子。
私の前から消えて。
自尊心を壊し、私をのみこむ言葉の津波。
私達は狭い家の中で二人、どんどん孤立し、世間から隔たっていきました。
祖父母とは、ずっと疎遠だったのです。
一番怖かったのは、アイロンを押しつけられた時。何で母が怒ったか覚えていないけど、泣きわめくうつぶせの私に馬乗りになって、服をめくり腰に熱いアイロンを押しつけたのです。
私の肉が焼ける臭い、脳を震わす痛み。私の叫び声、般若のような母の顔。理不尽な暴力に、ごめんなさいと謝る事しかできなかった。
意識が遠のく瞬間、私は死を確信しました。この時から、私の魂は死んでしまったのかもしれない。
今でもその三角のぶかっこうな傷は、私の体に残っています。まるで、忘れるな、って言っているみたいに。
虐待は一年ほど続いたけど、私は生き残ってしまった。
それから母は治療して、落ち着きました。私は、壊れてしまった母に対する愛情を祖母に求め、なんとか心の均衡を保つ事ができたのです。
でも、その祖母に対する信頼も崩れてしまった。私はまた、母の言葉に捕らわれるようになり、自分を消してしまおうとしたのです。
拠り所を亡くした私の心はからっぽで、いくら先生に抱きしめられても、好きだと言われても、うめられないかもしれない。
うまらないから、不安になる。この間みたいに、先生にひどい事を言ってしまう。先生は、どうしたら信じられるかって聞いたけど、私は答えを知らない。でも、信じたい。信じたいけど、また先生を傷つけてしまうかもしれない。
それでも好きです。そばにいてほしい。
とりとめなく、だらだらと書いてしまいました。最後まで読んで下さり、ありがとうございました。
便せんに、何か所も涙の跡が残っている。彼女はこれを泣きながらかいたのだろう。
その跡に、俺の涙が重なった。
俺は急き立てられるように走り出した。紙袋と手紙を握りしめて。
最近運動らしきものを、ほとんどしていないから、すぐに息がきれた。この間の階段上りは、楽だったのに。青みがかったにび色の夜に、荒い息が響く。
気持ちは焦るばかりで、足が前に進まない。昔はもっと早く走れた。余計なものを背負っていなかったから。
今すべてのものをすてさり、彼女の元へ急げ。
自転車が沢山置かれたコンビニの前を通過すると、後ろから「先生」という彼女の声がする。慌てて立ち止まり、振り向いた。
コンビニの光に照らされ、驚いた表情で彼女は立っていた。
俺は、肩で大きく息をしながら、彼女の腕をつかんだ。コンビニの横に建っている、ワンルームマンションの物陰に彼女をつれこんだ。はたから見たら痴漢行為だ。
ガサッと乱暴に紙袋を床に落とした。無言で、荒い息を整える暇もなく、隙間をうめるように体をよせ、彼女を腕の中に収めた。
急激な運動でほてった体に、コンビニで冷やされた体温は冷たく心地よい。
「どうしたん?」
「君こそ、なんでコンビニにいたの?」
「お母さんに、コンビニに行くって出てきたから、何か買って帰ろうと思って」
「手紙読んで、すぐ走って来た」
「バイクで走った方がはやかったのに」
言われて気付いた。そうだバイクがあった。でも、強がって言う。
「バイクで来たら、俺の事気付かなかっただろ」
「そうやね。雑誌見てたら、目の前を先生が必死な顔して走っていくんやもん。びっくりした」
笑いをふくんだその言葉に多少傷つく。彼女の腕が、俺の脇の下から背中にまわる。息がきれて、激しく上下する背中をやさしくさすってくれたから、すぐに忘れた。
「早く答えが言いたくて」
彼女は俯き、長いまつげが影をおとす。
「驚いたやろ」
そう言った彼女の口を、俺の口でふさいだ。
「これが答え」
そう言って、もう一度口をふさぐ。
言葉をどんなに重ねるよりも、一度のキスで何もかも伝わってしまう。
「ほんまに、ええの? 私で」
消え入りそうな声で聞く。
「愛し合うっていう行為には、いろんな意味がふくまれていると思うんだ。認め合う、求め合う、そして傷つけ合う」
「なんで傷つけ合うが、愛し合うなん?」
「愛している相手には、自分のすべてをさらけだしてしまう。どんなに理性的であろうとしても、取り繕えない。取り繕えないから、わがままになる。わがままで、相手を傷つけてもいいんだよ。傷つけ合う事を許すのが、愛し合うだと思う」
「なんか、難しい」
やっぱり、言葉は不自由だ。
「じゃあ、わからせる」
そう言って、三回目のキスをした。
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