第八話 オレンジの光

 今日も朝から、予備校へ通う。外のうだるような暑さと反比例して、予備校に一歩足を踏み込むと、鳥肌がたつほど冷房がきいていた。


 毎日、デッサン、デッサン、勉強、勉強。

 でも、少しも苦ではない。オープンキャンパス以降、明確な目標を目にしたからか、やる気と集中力がもどってきた。


 でも、まだ先生に返信できない。

 教室に入りスマホを見ると、メールが届いていた。先生かと思ったら、砂羽ちゃんからだった。心に刺さった棘がちくりと痛む。


 ―今日夕方、学校までこれる?


 ―五時にはいけるよ。


 ―じゃあ屋上で待ってる。


 久しぶりのメール。今月に入ってほとんど口を聞いていなかったのに、何事もなかったように返信した。私ってずるい。

 

予備校は四時半に終わり、バスにのって女学院にむかった。夏休み中でも、クラブがあるので校門は空いていた。まっすぐ屋上に続く階段をのぼり、鉄の扉のノブをまわす。鍵がかかっているのではという疑念をよそに、重い扉は不快な音を立てながら開いた。


 砂羽ちゃんは背中をむけて立っていた。太陽を存分に浴びた屋上のコンクリートから、熱気が立ち上り、その姿がゆらいでいた。そこに、砂羽ちゃんはいるのにまるで蜃気楼のようだ。手を伸ばせば逃げてしまいそう。


「久しぶり美月」

「夏休みやのに、屋上あいてるんやな」


 私はほかにもっと言わなければならない事があるのに、こんな言葉しか出ない。もう夕方だけど、まだまだ容赦のない日の光が照りつけている。汗が背中をつたう。


「そら、閉まってるわ。こっそり合鍵つくってん」


 久しぶりに見る砂羽ちゃんの顔。相変わらず、色が白くてお人形さんのような顔だけど、すこしやつれたようだ。


「元気にしてた?」


「あんまり……」

 それだけ言って、半袖から除く白い腕に爪をたてた。


「美月にお願いがあるねん。私といっしょに死んでくれへん?」


 たいしたお願いではない、気軽な感じでそう言って、私の目をじっとみつめた。でもその目に、私は映っていない。何も映ってはいない空虚な目。背中をつたっていた汗は引き、すべての思考と感覚がその瞳に吸いこまれた。


「ええよ」

「即答なん? どうしたんとか、普通理由きくで」


「死ぬのに理由はいらん」

「真壁先生の事はいいの?」

 砂羽ちゃんの何も映っていない黒い目から視線をそらす事ができない。


「もうええ」

 砂羽ちゃんは下を向き、うっすら笑った。


 二人で高いフェンスを乗り越え、向こう側に立った。手をつなぐと、砂羽ちゃんの手は、冷たく汗ばんでふるえていた。


 校舎のふちまで三メートル。コンクリートを見つめ、一歩一歩ゆっくりと死へむかって進む。

 コンクリートがとぎれ、真夏の真っ白なグラウンドが目に飛び込んできた。そこには、健全なソフトボール部員が豆粒のようにちらばっている。

 

その先は、押しつぶされたような、ひしゃげた京都の町並み。その町並みの上に、鳥だけが飛ぶ事をゆるされた青空がどこまでも続いている。


 首がいたくなるほど、空を見上げた。天高く飛行機が一機、雲ひとつない空を侮辱するように、お尻から白い煙をだしていた。


 私が死んだら、鳥になってこの空を飛べるだろうか?


 死んだら、その魂はどこにいくのだろう?


 死はどこからやってくるのだろう?


 空から? 西の彼方から? 地底から? 海のむこうから? 山の彼方から?


 空の向こうには、暗黒の宇宙があるだけ。


 西の彼方を進むと、元いた場所に帰るだけ。


 地底をもぐっていくと、地球の熱い息吹を感じるだけ。


 海の向こうには、新しい大陸。


 山の頂の先は空へと続く。


 ふと、足元をみつめた。ぽっかりあいた落とし穴みたいに、黒々とした影がのびていた。その影は先ほどの砂羽ちゃんの瞳の色と似ている。


 死は自分の中からやってくる?

 私は顔をあげ、ふと隣を向いた。砂羽ちゃんも私を見ている。その目には私が映っていた。


「もう、死にたい気持ちはなくなった?」

 その問いに答えるように、砂羽ちゃんの頬に一粒の涙がこぼれおちた。


「ごめん、悪い冗談言うただけ」


 二人で傾いた太陽に照らされた、給水塔の長い影に寝そべって、空を見上げた。


「お父さん、再婚するんやって。私が必死に受験勉強してんのに、何してんねん」

「そら、死にたなるわ」


「私の気持ち、美月にはわかってた?」

「なんとなく」


「私、お母さんが死んでから、五年生までお父さんといっしょに寝ててん。お父さん優秀な精神科医のくせに、自分の事何にもわかってない。お母さんが死んだ時、小学二年の私にすがって泣いたんやで。私も泣きたかったのに、泣けへんかった」


 その時の涙が、時をへて砂羽ちゃんからあふれだす。涙を見られるのが恥ずかしいのか、腕で顔をおおう。


「お母さんが死んで寂しい私を気遣っていっしょに寝ようって言いだしたんやと思っててん。でも、違った、私はお母さんのかわりやった」

 私は思わず、起き上り砂羽ちゃんの顔をのぞきこんだ。


「別に性的虐待されてたわけ違うで。それは、お父さんの名誉にかけて誓うわ。でも、五年生になって、ある晩お父さんが寝ぼけて私に抱きついて、キスしてん。本人は何にも覚えてないみたいやったけど。それから、お父さんの事父親とは思えんようになった。いろんな男とキスしたけど、お父さんとのキスが忘れられへん。実の父親が好きな子なんて、気持ち悪いやろ?」


 言葉なんて、すぐに忘れてしまうのに、体に刻まれた記憶は、何時までたっても消える事はない。消しゴムで消せたら、どんなにいいだろう。


「そんなん言うなら、虐待された子の方が気持ち悪いわ」

 私は深いため息をついて言った。


「忘れんでもいいと思う。無理やり忘れようとするから、自分を消してしまいたくなる」

「何時もと反対やな」

 そう言って砂羽ちゃんは、ふふっと笑った。


「さっき、屋上から飛び降りようとした時、私足ががくがくふるえて、すごく怖かった。それやのに、美月は平気な顔してた」


「死ぬのが怖くなかった。それって、私はもう死んでるって事かな? 生きる意味ってなんやろ」


「自分で見つけられへんかったら、人が教えてくれるまで待てばいいんやない?」

 砂羽ちゃんは起き上り、空を見る。


「私決めた。お父さんよりすごい精神科医になって、言ってやる。あなたは病んでますよって。これが私の今の生きる意味にする」


 ポップコーンがはじけたように、明るく笑いだした。私もつられて笑う。二人の湿り気のない笑いは、空へ昇り、私達を見下ろした。


「美月に話聞いてもらったら、すごいすっきりした。人間ためこむとろくな事無いわ。どうしょうもないものやったら、かかえていくしかないんやな」


 かかえていかなければ、ならないもの。そんなものは、たいして重くない。そう思えるきっぱりとした口調だった。


 ふと空を見上げると、半分かけて空に吸い込まれそうな白い月が、拠り所なく浮かんでいた。

 なんか私みたい。鳥じゃなくて、月になって空に浮かんでいるのかな。


 スマホがなった。


 ―南の空を見て。昼の月が浮かんでる。空に消えてしまいそう。はかなげで、美しい。君みたいだ。


 ふいに涙が頬をつたう。この世に私の事を思って、月を眺めてくれる人がいる。同じ物を見て、同じ事を思える人がいる。私は一人ではない。それだけで救われる。


「どうしたん?」

「先生からメール。昼の月がはかなげで君みたいやって」


「キザやなー。あの先生やったら美月の事なんでも受け止めてくれそうやな。美月も自分の事、先生にすべてさらけ出してみたら?」


「私のネガティブな事聞かされても、引くだけやと思う」


「やってみんとわからんで。もし、そんな事でひくような奴やったら、一発殴って私のとこにおいで。私が全部聞いてあげる」

 砂羽ちゃんにはかなわない。


 日が傾き、影の位置がずれ私の足にオレンジ色の西日があたる。その焼けつくようなオレンジの光がじわじわと、足から静脈を通り胸にしみこむ。

 初めて先生に返信した。


 ―胸がこげつくくらい先生の事が好き。

 ―俺も

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