第四話 キス
「好きだ」
私の耳元で、息を吐くように先生が言った。
私は煙草の臭いと、火照った体温に包まれる。
煙草を吸うなんて知らなかった。
絵描きのわりにたくましい、腕と胸が薄いカッターシャツを通して、私の心を麻痺させる。
この状況、前に呼んだ本にそっくりだ。あの二人も教師と生徒で、たしか、音楽室で抱き合っていた。せつなくなる程、静かにそっと。
本の中のあの子は、先生の髪をやさしくなでてたっけ。本を読んだ時、私は大人の男性の髪を、愛おしそうになでる彼女の気持ちがわからなかった。髪をなでるのは、男の人のする事なのにって。
でも、今ならわかる。私は、腕を先生の背中にまわし、そっと髪をなでてみた。
以外に硬い先生の髪、掌に髪がちくちくあたってこそばゆい。
一瞬先生の体は、雷に打たれたみたいに硬直した。でも、私がやさしくなで続けると、フッと力をぬいた。
放課後の準備室は、言葉なんて存在しないかのように静まり返っている。二人の吐息だけが、その静寂に満ちていく。
校内で、教師と生徒が抱き合うなんて、よくない事だ。頭では離れないと、ってわかっている。
愛しいってこういう事なんだ。言葉を超えて、先生の臭いや体温が私に教えてくれた。答えはずっと目の前にあったのに。
先生の背中にまわした手がカッターの下の熱を感じる。夏服のブラウスがじっとりと汗にぬれ、肌にへばりつく。
やましさをも打ち消す熱。
ふっとなでる手を止め、深く息をはいた。
先生は体を離し、無防備でせつなげな少年の顔をして私をみつめた。かわいい、そんな顔されたら、嫌って言えなくなる。
私は微笑んだ。すると、先生の右手が私の後頭部の髪にふれた。体の真ん中がうずく。そのうずきが込み上げ、私は目を閉じた。
先生の唇が、ためらいがちにふれた。
始めは小鳥がついばむように、やさしくそっと。でもすぐに、私のせつない心を吸い取るように、長いキスをした。
先生のくちびるから、あの日私の体からぬけだしていった心が、もっと強く確かなものとなり、帰ってきた。
どれぐらいの間、キスしていただろう。時間が停まった空間に、開け放った窓から、甘ったるい空気を払いのけるように風がはいってきた。カーテンがゆれ、私達を包み込む。
先生はふいにキスをやめた。
「ごめん」
さっきの無防備な少年の顔は消えていた。
私は膝からおり、鞄を持って扉に向き合う。
「なんであやまるん?」
それだけ言うと、後ろを振り返る事無く出て行った。
昔、母に殴られた後、泣きながらごめんって言われたっけ。
*
やっと小鳥をつかまえたと思ったら、手からすり抜け、飛んでいってしまった。
休み時間、生徒達が往来する廊下の向こうに、彼女が見えた。
彼女は俺に気付くと、俺をさけ、廊下を曲がっていった。
あの時、なんで「ごめん」なんて言ったんだろう?
いや、とぼけるな俺。理由はわかっているくせに。なかった事にしたかったんだろ?
生徒とキスしたなんて事実を、なかった事にしたかったんだ。違うか?
おまけに、その事を彼女に見透かされたから、なおなさけない。
ぼんやりしていたのか、小山のように積み重なった、ノートを運ぶ生徒とぶつかった。
ノートが廊下に散乱したので、慌てて拾うのを手伝った。
「そんな顔して美月の事見てたら、噂になるやろ、ボケ!」
校内で教師に向けられる、最もふさわしくない侮蔑の言葉にうろたえ、生徒の顔を見た。
吉津砂羽、彼女の友達。
学年トップの成績。学校の期待の星。彼女に比べたら、俺なんてたしかにボケだ。
「先生、職員室まで運んでくれはんの? ありがとうございます」
俺は何も言っていないが、ついてこいという意味だろう。ノートを持って生徒に従う。
「美月にちょっかいだしたんやろ?」
小声で前を向きながら、詰問された。
俺はうなだれて「はい」としか答えられない。
「こわなって、引いてもうたんと違う? 教師の前に男やろ。そんなこんにゃくみたいな根性で、美月に近づくな」
教師と生徒といっても、たった五歳の年の差だ。男女の間ではないに等しい。それどころか、この生徒の場合、俺より圧倒的に精神年齢が上だ。
年齢が下の者は上の者に、恥もプライドも捨てて教えをこう。
「どうしたらいいですか?」
「美月の事本気なん?」
「はい」
「美月のどこが好きなん? 返答によっては今回だけ、フォローしたる」
職員室につき、生徒は俺を振り返る。
小柄で,丸みをおびた体に、とてもボケとは言いそうにない、愛らしい顔がのっている。
その愛らしい顔に薄ら笑いをうかべ、つぶらな瞳で下から俺を睨んでいる。
「静寂な、かなしさ」
自分で言っていて、はあ? である。
でも、桜の下ではじめて会った時、感じた。静けさをたたえた、かなしさ。
「ふん、その答えに免じて今回だけや。でも、次はない」
思わず、ありがとうございますと言っていた。
「美月に何がおこっても、先生は絶対そばからはなれるな。私からの忠告や」
生徒は脅しつけるような声と、清い乙女のような声をすり替えて言った。
「先生わざわざ、ありがとうございました」
俺からノートを受け取ると、職員室に入っていった。
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