糸口


 トークイベントが終了し、握手会の準備が始まった。


 ななっちは休憩のために一旦退場した。握手会に参加する客は同じ会場で整列して待つことになる。その間、旧友から彼女についてより詳しい話を聞いた。


「ななっち。本名は笠原奈々、誕生日は五月二十七日で齢十八。高校に通いながら女流棋士として公式戦に出、好成績を残しているマジモンの天才。今年の女流玉位戦ではタイトル戦まで勝ち進んで、今最もタイトルに近い十代だって将棋ファンにも期待されてる」

「俺たちより一つ歳下でか。すごいな」

「あの子がすごいのはそれだけじゃないぜ。動画配信のペースはそこらの配信者よりもよっぽど早い。元々は将棋の布教活動の一環だったらしいんだが、ただでさえ多忙なのにクオリティまで高く仕上げてくるから、そりゃ人気が出ないほうがおかしいって話さ」

「加えてアイドル並みの容姿か」

「おまけにファンにも神対応。今後は国民的人気者になると俺は睨んでる。いや信じてる、信奉してる、崇拝してる――」

「目が怖いぞお前」


 ともかく、聞けば聞くほど常人離れしている。学業と将棋と趣味をすべて並行させ、しかもそれぞれで成果を出すなんてことが実現できるのか。そのうえ年齢でいえば、彼女は今年度大学受験を控えている。どう考えても俺の知る人間のキャパシティでは追いつかない。


 冬華でさえ、学校と棋戦の行き来で疲弊していた。食事が喉を通らず、休日はひたすら眠るか将棋の研究で潰れる。それが高校生棋士の限界だと、俺は認識していた。


 だが笠原奈々は、そのさらに一段上を行っている。かつて天才ともてはやされた冬華をも超える、真の天才。


「それでも、簡単には認められないよな」

「ん、何がだ?」

「何でもない。ただの個人的な感情」


 比べるものではないことはわかっている。無理を続けて棋士生命を台無しにしてしまった冬華と、マルチに活動して現役で棋士を続けている笠原奈々。両者は一時期同じ舞台に立っていたかもしれないが、今の境遇はまったくの正反対だ。


 考えることはひとつ。冬華と笠原奈々は、何が違っていたのか。能力か、環境か、それとも巡り合わせか。それを知るまでは、このやりきれない感情を払うことはできないように思えた。


 係員の呼び掛けに応じ、長蛇の列が動き始める。握手会に参加するのは初めてだが、たった一人と握手するだけでこんなに人が並ぶものだとは知らなかった。冬華と行った施設はどこも待ち時間無しで入ることができたから、いっそう長く感じた。


 握手会開始から三十分ほどで、ついに俺たちの番がやってくる。間近で見た笠原奈々は、遠目からよりも更に少女然としていた。けがれのない大きな瞳と、華奢な体形がそうみせるのだろう。綺麗な子だとは思うけれど、トークイベント中に見られた完全無欠さは感じられない。頑丈なようでむしろ脆い、角砂糖のような印象。


 旧友は緊張した面持ちで笠原奈々の前に歩み出た。背後から見ていても手足が震えているのがわかる。「ふぁ、ふぁんです! 頑張ってください、応援してます!」「ふふ、ありがとうございます」「あ、あう……」旧友は一瞬で骨抜きになっていた。手が触れたらエネルギーを根こそぎ吸われたりするのだろうか。


 いよいよ自分の番だ。旧友の半ば放心した表情を横目に見ながら、係員の指示に従って笠原奈々の前に立つ。そこでようやく、俺も肩に力が入っていることを自覚した。まったく人のことを笑えない。


 華が咲いたような雰囲気の少女は、これまでの客にしたであろう必殺の微笑みで俺を迎える。対面する人によってはこれだけで落とされてしまうのも納得の、磨き上げられた笑顔だ。


「こんにちは、おにいさん」


 両手は既に差し出されていた。俺がその隙間に右手を入れると、少女は両側からきゅっと包むようにして握ってきた。そのタイミングで、少女の表情が少し変わる。


「あれ。もしかしておにいさん、どこかでお会いしましたか?」

「いや、初めましてだと」

「そうですかね? あたし、記憶力には自信あるんだけどなあ」


 握手の力が僅かに強まる。


 そして、笠原奈々は続けて言った。


「あ、思い出しました。あなた綾崎センパイのご友人ですね」

「なっ――」


 訊こうとするよりも先に冬華の名前が出たことに動揺を隠せなかった。浮かぶ複数の疑問が、俺の口を重くさせる。


 いつかどこかで、彼女と対面している。だが俺と冬華の繋がりを知っている人間なんて数えられる程度にしかいない。


「もしかして、君は――」


 尋ねようとした寸前、繋がっていた手がぱっと離れる。時間切れ。俺は係員の男に二の腕を掴まれ、笠原奈々から引き剥がされる。


 そんな俺を、彼女は小悪魔めいた笑みを浮かべて眺めていた。そして、離れていく彼女の口が『またね』と動くのを俺は捉える。都合の良い誤認かもしれないが、確かにそう見えた。


 係員に誘導され会場から退出する間、俺は思考を巡らせる。握手の時間はほんの数秒で、最初から充分な会話はできないと薄々勘づいてはいた。だが逆に疑問が増えるのは思ってもみなかったことだ。


 冬華の名前が出ていることから当てずっぽうとは違う。俺を冬華の縁者だと認識したうえで、名前を提示したのは何が目的だったのだろう。単なるファンサービスにしては個人的すぎるし、ただの気まぐれで人の名前を挙げるようにも思えない。


 やはり、また会いに来いと呼ばれているような感じがする。続きを訊くためにはもう一度彼女の前に立たないと。


 自意識過剰かもしれないことはわかっている。笠原奈々の意図だって明確なわけじゃない。だとしても俺は、冬華を変えてしまった出来事を知りたいと思う。その糸口を見逃すような真似はしたくない。


 ――冬華のためなら、命だって惜しくないんだろう?

 ――だったらそれを証明してみせろ、染井俊。


 旧友は会場の外で待っていた。まだ夢見心地の顔をしている彼に、俺は言う。


「ななっちが出る次のイベントって、いつだ?」


 アイドルに入れ込む人の気持ちはきっとこんな感じなんだろう。友人の同胞を見るような眼に、俺はふうと息を吐かざるを得なかった。

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