霖雨
六月からアルバイトを始めた。職種は書店員。大学の敷地に隣接していて、講義の後にシフトを入れやすいことが決め手だった。
元々個人経営の本屋だったのが大手企業の傘下に入ったらしい。新しく掲げられた若草色の看板に対し、古風さを感じさせる内装が絶妙に噛み合わない。だがそれが味だと言って愛用する一部の客で成り立っている、ここはそんな書店だった。
学内にも講義に使用する教科書を取り扱っている書籍部はあるが、そちらは年度初めに行列ができているのを見て以来立ち寄ったことがない。今時の学生はネット通販で教科書を買い揃えることもあってか、普段は閑古鳥が鳴いているという話だ。
それとほぼ同じ理由で、書店でのアルバイトはとても退屈なものだった。店内の八割を埋める参考書や教材は並べるだけの置物状態で、残りの二割である漫画や雑誌が買われたり買われなかったり。来店する多くの大学生はほとんど店の奥に立ち入らず、場合によっては雑誌の立ち読みだけして出ていくことも少なくなかった。
俺の仕事はレジでの接客と、買われて空いた本棚の隙間を埋めること。どちらの業務も本が売れなければやらなくていい。勤め始めた頃は、初めてのアルバイトがここまで緩くていいのか、と自問する日々がしばらく続いた。
その悩みに拍車をかけたのは店長の人柄だ。十年以上前に営業マンをドロップアウトして本屋を開業した彼は、絵に描いたような事なかれ主義の人だった。俺にひととおりの業務を教えた後は、延々と本の背表紙をハンディモップで撫でて回っている姿しか見なかった。とにかく波風を立てないように話す人で、時々かかってくる本社からの電話越しに聞こえる罵声にも、歯向かうことなく静かに応対するばかりだった。
彼の生き方は俺には関係のないことだ。給料はきちんと支払われているし、手の空いたときは勉強をしてもいいと許可も貰っている。そのおかげで運転免許を取得するための準備は着実に進んでいて、この調子なら想定よりも早く免許を取れそうだ。感謝はもちろんしているけれど、それ以上干渉するのもよくないと思っていた。
だが梅雨明けも間もなくといった七月のなかごろ、ついに俺は尋ねた。
「店長は怒ったりしないんですか」
その日は本社からの『激励』が一時間以上続いていた。受話器から漏れ聞くだけでも気が滅入るのに、それを直接浴びている店長が眉一つ動かさないのは奇妙ですらあった。
通話を終えた後の俺の唐突な質問にも、店長は特に表情を変えることなく答えた。
「表向きには、怒らないようにしています」
「心の中では怒っているということですか」
「それはそうでしょう。怒りがない人間なんていません」
意外だった。俺には彼がその怒りのない稀有な人間だと思っていたからだ。
「内面で怒っているのなら、どうしてそれを表に出さないでいられるんですか」
「下手なんですよ。単純に。感情を出すのが」
口を重たげに動かし、店長はぽつぽつと話す。
「昔からこうだったわけではないんですがね。営業の仕事を辞めて、子供の頃からやりたかった本屋さんを開業して、そこで一区切りついてしまったんです。夢を叶えた満足感で、他のことがどうでもよくなってしまった」
「どうでもいいから怒らなくなったんですか」
「怒れなくなった、と言ったほうが正確かもしれません。怒りというのは何かを変えたいときにぶつける感情ですから、現状に満足するとその必要もなくなります。それに、感情を外に出すのは疲れますからね」
「ああ、なるほど」
後者の理由は俺にも納得がいった。感情のままに行動するのは確かに疲れる。しかし、前者のほうは依然不可解さが残っている。
店長は現状で満足なのだろうか。自分の開業した店の看板を大手チェーンに乗っ取られ、並べた本の多くが置物と化したこの状況で。
「それでも、店長の中には怒りが湧くこともあるんですよね? 怒りがない人間がいないというのなら」
「そうですね」
「ずっと内側に抱えたままというのは、つらくありませんか」
「きみが思っているよりは平気なのかもしれませんよ」
そう言って店長は思案に耽るようにして目を瞑る。
「歳を取ると、いろんなものに鈍感になっていきます。それはどうあっても避けがたいものです。けれど私は、鈍感であるお陰で自分の心を守ることができる。怒りをずっと抱え込んだままでも、私は健やかでいられる。要は前向きな自己暗示です」
俺にはよくわからなかった。鈍感であるから怒りにも突き動かされずに済むのか。それが健やかなのか。その意味を上手く噛み砕けない。
何も感じずにいることが、健全であるとは俺には思えない。
「若い人には理解しがたい話だったでしょうか」
無表情な店長の言葉に、俺は首を横に振って応える。
「いえ。話してくださってありがとうございます」
外を見やると、昼過ぎから降っていた雨がその勢いを強めていた。予報では夕方までに止むとあったが、どうやら今日ははずれの日らしい。
もし、このまま雨が止まなくなったとしたら。永遠に梅雨が続くのだとしたら。人はそれを当たり前のものとして受け入れ、雨雲の立ちこめる空の下で生きていくのだろうか。
俺ならきっと、耐えられない。
それは晴れ間を知っているから。あの温かな、光を知っているから。
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